塹壕は法煙に煙り、豪傑は夕血に沈む

@gerakutai18

最終突撃 笛なりて

 塹壕の淵に法煙が滲み、淡い光に揺れながら、その残照の中で男たちは血と泥に塗れ、呼吸を潜めていた。領域縮小期によって孤立した前線拠点では、魔力が尽き、砲撃魔法を放つこともできず、かつて華々しく魔力砲を放ち遠距離から敵を粉砕していた精鋭の魔法使いたちが、今や獣のように身を伏せ、鋼の刃を杖先へ無理に括りつけ、わずかな手榴弾を恃みに最後の賭けに出ようとしている。風は腐肉と硝煙を含む重い息を吹き込み、拠点というより墓場に近づきつつあるこの場所で、彼らが生き延びるには奇跡を捏造するよりほかない。


 指揮官はぬかるんだ塹壕の底で膝を折り、唇を噛む。援軍が来る見込みはなく、補給は望めず、周囲の小隊も似たような有様だ。魔力枯渇により、砲撃杖はただの木片も同然となった。伝令兵が泥と血に汚れた鞄を揺らしながら近寄り、後方との通信が絶たれ、隣接部隊も自力脱出を模索中であると告げる。指揮官は一瞬歯を食いしばり、決断する。もはや規律正しい軍隊ではなく、闇に浮かぶ微かな縁にすがるゲリラめいた戦法が必要だった。彼は自軍の魔法使い達に最後の奇策を伝えるため、首に提げたホイッスルをなぞる。砲撃魔法が使えぬ今、意思疎通はこの簡素な笛のみが頼りだ。


 手榴弾を束ねられる者は束ねて遠方へ放り、単発しか残らぬ者は近距離で確実に敵を巻き込む。それが、この拠点防衛最後の「砲弾」。さらには魔力の残渣を絞り出し、使い切る禁じ手がある。指揮官はそれを「最終破砕法撃」と呼ぶ。敵が油断し、近づいた刹那にこれを放てば、先鋒を吹き飛ばし、一瞬の混乱を生む。混乱のただ中で手榴弾を投げ、通常なら爆風回避のため伏せるところをあえて伏せず突撃する。敵は伏せるべきか立つべきか迷い、隊形を乱す。その隙に肉薄し、即席の刃で鎖帷子を突き破り、さらに残った微かな魔力で痛恨の一撃を叩き込む。敵が退けば、落ちた武器をかき集めて戦力を補強し、即座に後方の集結地点へ撤退する。重傷者は置いていかなければならない。そこには簡易爆弾を仕掛け、追撃を躊躇わせる。非情で残酷な判断だが、全滅を避けるためには他に道はない。


 静寂が塹壕を包み込む中、指揮官は部下に着剣を命じる。砲撃杖に刃を嵌めるなんて狂気の沙汰だが、魔力なき今は肉弾戦を避けられない。裏方では伝令兵が後方の隙間を探り、少しでも安全な退路と集結地点を確保する。指揮官はホイッスルのパターンを全員が暗記していることを確認する。敵が接近したら短吹二声で最終破砕法撃、その直後すぐに手榴弾投擲、そして短吹三声で突撃。普段なら爆発前に伏せるが、ここではそれをしない。立ち上がり、喉を切り裂くような叫びと共に敵陣へ飛び込むのだ。血臭が鼻を焼き、泥水が喉奥でざらつく。この計画が失敗すれば全員地獄行き、成功しても生存は約束されない。それでもやらねばならない。


 夕闇は赤錆びた光を帯び、塹壕上で敵の鎖帷子がかすかに揺れる。息を潜めた魔法使い達の目は濁り、疲労で幻覚を見そうな中、指揮官はじっと時機を待つ。敵がこちらを侮り、油断して距離を詰めたら、そこで一気に牙を剥く。笛を噛みしめ、「今だ」と心で呟くと、短く二度「ピッ、ピッ」と鋭く音が走る。最終破砕法撃が炸裂する瞬間、塹壕前方で藍色の閃光が跳ね、敵先鋒が紙屑のように吹き飛ぶ。絶叫が夜気を引き裂き、血が飛沫になって散る。


 指揮官は続いて手榴弾を放るよう叫ぶ。束ねた手榴弾が遠方に放られ、単発が近場で弧を描く。敵は慣れた対処として伏せるかもしれないが、その瞬間、こちらは伏せずに躍り出る。短く三回「ピッ、ピッ、ピッ」と突撃合図を鳴らす。爆発まで僅かな猶予、敵は伏せればこちらの刃に晒され、立てば破片を浴びる。躊躇の間に、手榴弾が炸裂。破片と炎が敵陣で狂気の輪を描く。血と汗が飛び散る中、魔力使い達が地を蹴り、刃付杖を突き立て、敵兵を混乱の渦へ突き落とす。


 一瞬の衝突で鎖帷子を貫く痛みが肉を裂く感覚を伴い、敵は乱れ、後列が指示を出す前に前列が崩壊する。指揮官はさらに残った僅かな魔力を搾り、痛恨の微光を足元に炸裂させる。再び敵が悲鳴を上げ、もう統制など効くはずもない。崩れ落ちる敵陣形を尻目に、指揮官は部下に叫ぶ。「拾える武器を拾え!敵が退いている、今だ撤退準備だ!」部下達は血泥の中から剣や槍を引き抜く。魔力がない今、新たな刃が生命線だ。


 敵が退こうとする隙に、こちらは負傷者を置いていく決断を呑み込む。心が軋むが、全滅は避けなければならない。置き去りにされる負傷者はうなずき、去れと促す。爆発物で作った即席のブービートラップをその付近に仕掛け、追撃してくる敵を道連れにする卑劣な策だが、生き延びるためには仕方がない。ホイッスルを長く一吹し、全隊が後方へ向けて撤退を開始する。血腥い塹壕を背に、泥と死臭の夜を抜け、獣道を辿るように闇へ溶け込む。伝令兵は周囲に連絡を回し、隣接部隊も後退傾向にあることを報せてくる。組織だった後退命令はないが、個々が散発的に脱出を図る状況下、こちらは先手を打って悪夢の拠点から離れる。


 遠くでブービートラップが発動した鈍い響きがする。追撃を試みた敵が引っかかったのだろう。苦渋を伴う策だったが、これで時間を稼げる。血と泥にまみれた彼らは、ホイッスルの合図を頼りに小林を抜け、後方の集結地点へ向かう。もはや砲撃魔法の華やかな光などない。笛の音と、拾った剣、そして割れた魔力管からの微弱な残渣が、暗闇を切り開く唯一の武器だ。


 指揮官は首に下げたホイッスルを指先で弄ぶ。もしあれがなければ、この錯綜した戦術を瞬時に伝えることは不可能だった。「塹壕は法煙に煙り、豪傑は夕血に沈む~突撃、笛なりて」──この戦場の光景と行為を象徴するような詩的な題名を一度だけ胸中で反芻する。まさに先程、彼らは法煙の中で血と狂気に沈み込みながら、笛の合図で突撃し、奇策を以て生還への細い糸を掴んだ。繰り返す必要はない。その一度きりの情景が、今宵の全てを語っている。


 負傷者を棄て、罠を仕掛ける非情な振る舞いは、後に責められるかもしれない。だが生存が最優先だった。背後に残してきた塹壕は、もはや何も生み出さない荒廃した墓場でしかない。敵は二度と同じ手に容易くは引っかからないだろうが、今夜は時間を得た。この一瞬を生き延びたことで、次の策を練る猶予が生まれる。もはや誇り高き砲撃魔法の使い手ではなく、泥と血を嘗める戦場の野獣だとしても、生きてさえいればいつか魔力が戻り、新たな構想が芽生えるかもしれない。


 夜風が樹々を揺らし、葉擦れの音が低く響く。隊員達は互いの顔を覗き込み、闇の中で微かに頷き合う。汗と血と泥にまみれた彼らはもう清廉な英雄ではない。だが、今宵の死闘を乗り越えたことで奇妙な絆と硬質な生存意志が芽生えている。伏せずに突撃するという正気を逸した策は、彼ら自身をも震撼させたが、成功した以上、その狂気は次なる挑戦にも活きるかもしれない。


 森を抜けた先、崩れかけた歩哨塔の裏手が目標の集結地点だった。そこまで辿り着けば一息つけるだろう。仮に周囲に他の生存者がいれば、情報共有も可能になる。敵が本格的な再編成を行う前に、さらに後方へ下がるか、別方向へ逃れる算段も立てられる。浄化や回復を望むのは贅沢だが、ここまで生き延びたのは、すでに奇跡なのだ。


 隊員が低く息をついて耳を澄ます。追撃の足音は聞こえない。夜鳥が遠くで鳴き、湿った土の匂いが血と硝煙の臭いを薄めている。闇が深まり、朝まではまだ時間がある。この時間を稼いだことこそ、価値だった。砲撃魔法という華麗な兵器を失った彼らが、刃と爆炎、そして笛の音で奇策を成功させた事実は、領域縮小期の恐怖と絶望の中で、小さく輝く石ころにも似た生存の証だ。


 指揮官は荒い息を吐き、唇の裂傷を舌で確かめる。苦い鉄味が口内に広がる。生き延びたとはいえ、先は分からない。魔力を取り戻せるか不明だし、敵は再び襲い来るだろう。それでも今、こうして集結地点へ移動できるだけましだ。塹壕に沈んだ夕血の惨劇は後方に置き去りだ。後には散乱する死骸とブービートラップが残り、敵は慎重になっているはず。あの戦場の詩的タイトルは、一度の記憶として魂に刻まれた。あれを何度も唱える必要はない。生きるための一撃であり、響きであり、象徴に過ぎないのだから。


 隊員が闇中で隣と肩を触れ合い、静かに歩を進める。呼吸が少し安定してきた。急がずとも、今は多少の猶予がある。震える手でホイッスルをなぞり、指揮官は伝令兵の戻りを待つ。仮に戻らずとも、ここから更に後方へ退くことは可能だ。音の合図さえあれば、混乱した奇襲作戦をまた編み出せるかもしれない。


 夜風が微かに冷え、彼らは獣道を辿る。何かを捨て、何かを拾い、血と炎の中で新たな戦術を産み落とした。そして今、この闇の底で細い生存の糸を手繰っている。砲撃なき世界で、彼らは刃と手榴弾、そして笛一つで奇跡を生んだ。その奇跡が真の勝利か、ただの一時逃れかは分からないが、この残酷な世界で「生存」という成果に勝るものがあるだろうか。

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