君はなぜ生きている

皐月

第1話 君はなぜ、生きている

 僕の隣の席に座っている月見里さんはいつも美しい。長くしっとりとしたまつ毛、つややかでサラサラとした長い髪、白く粗のない肌、その全てが彼女を美しいと感じさせる。それは決して、僕だけがそう感じているわけではなく、この学校に在籍している皆が同じ意見を持っているようで、高校へ進学して二週間、ほぼ毎日のように彼女へのアプローチや告白が絶えない。確かに、僕は彼女を綺麗だとは思うが、けれど、なまじ綺麗なだけに、同時に異様な雰囲気も感じてしまう。友達と話している時は姦しい、元気な印象とは裏腹に、一人でいる時は妖艶でなまめかしく、しかし、その目の奥には何か黒いモノが混じっている。そんな二面性を思わせる様相を彼女は持ち合わせている。他の人から見て、このように感じるのかどうか、他人ではない僕からして、わかることではないのだが、彼女には何か怖いものがあると、それだけは確信しているのだが、実際どうなのか、ただの隣の席というだけの僕には決してわかりえないことであり、しかしながら、僕はそんな彼女と何か近いものがあるのだと感じる。

「あ」

 授業中、幽かな声で月見里さんはそう言った。黙って視線だけでジッと彼女を見つめて観察していると、どうにも消しゴムを落としたようで、地面を探している。彼女の視線は僕の足元で止まり、囁き声で話かけてくる。

「下に落ちている消しゴム、取ってもらっていいですか?」

 そう言われ、机の下を覗くと、僕の足元に彼女の物と思われる消しゴムが落ちているのを発見した。

「はい」

「どうも、ありがとう」

 にこやかに微笑むも、やはり、彼女の目の奥は笑っていなかった。

 その後、すぐに彼女は前を向いたまま、ノートの切れ端を渡してきた。ただのごみを渡されたのかと思ったが、何か書かれているようなので確認する。

『私を怪しい目で見るのはあなただけ』

 これにはそうとだけ書かれていた。

 あまり驚きはしなかった。

 僕も彼女と同じように、ノートの端を切って、伝えたいことを書き、彼女に渡す。それを見た彼女の表情に変化はなく、我関せずと言った感じで、またノートの切れ端に何か書いて渡してくるのかと思いきや、今度は直接話しかけてきた。

「やっぱり、君もそう思っていたんだ。八月朔日くん。それはそう思うよね。だって、私と君の目は同じ」

 僕は彼女の言ったことを耳にした瞬間、彼女に対して感じていた近いものの正体がはっきりとした。それは生きることを棄却し、いつ死んでもいいというような、諦観の目。昔、妹に同じようなことを言われたのを思い出した。

「私、五月いっぱいの命なの」

「病気か何か」

 いいえ。

 はっきりと彼女はそう言った。

「五月の最終日、私の誕生日と同じ日に死ぬ予定。要するに自殺」

 僕が選ばなかった道を彼女は選んだようだった。

「聞いたよ、君の噂。去年、隣の中学で暴力事件を起こしたって」

 またその話かと、僕はため息をつき、彼女の言ったことに対して否定しようとしたが、彼女は話を続けた。

「でも、君の目を見ればわかる。事件の真相は違うってこと。私はそのことに興味はないけど、君自身には興味があるの」

 正直、不覚にも驚きを隠せなかった。それは僕の噂を真に受けず、真相は違うと彼女自身が否定したこともあるが、それより、興味があると言ったことに対して驚きを隠せなかった。その表情と身振りからは少なくとも、興味があるとは到底思えないが、それでも、彼女のことだから、興味はあるのかもしれないけれど、しかしながら、彼女のことはどうしてもわからないので、やはり、本当に僕に対して興味があるのかはわからなかった。

「君の言う通り、僕はあの事件に関わっているけれど、真相は違う。君はそうか。死んでしまうのか」

「止めないんだね。君は」

「止めたところで聞かないでしょ」

 はは。

「そりゃそうだ」

 彼女は授業中とは思えないぐらい軽快な笑いをしたが、声は小さかったので、僕以外、誰も気がついていなかった。

 彼女と話す度に、いつかの日言われた、僕が何としてでも生きようと決意した言葉、その時の風景、それからのことが鮮明に思い出される。


「何をしているのですか!」

 突然部屋に入ってきた妹が、僕の手に持っているバタフライナイフを奪い取り、投げ捨て、問いかけた。

「何を、していたの、ですか……」

 言葉以上に、何か別の感情を振り絞るように、妹は話していた。

 もう死のうと――――

 僕がそう答えた瞬間だった。左頬にピリっと雷のような衝撃が走った。かすかに輝く、心配の涙を流している妹の方を見た瞬間、その衝撃が何なのかすぐにわかった。

 ビンタをされたようだった。

 その刹那に、足元が浮いて夢を見ているような感覚から、今を生きている現実へ突然引き戻され、僕が何をしているのかはっきりと理解した。

 理解せざるをえなかった。

「姫鈴……」

「もし、お兄様が、何のために生きればいいのか、わからなくなってしまったのであれば、私のために生きてください」

 私のために、生きてください。

 その言葉が、地獄にいた僕を現世まで引き戻した。

 引き戻された。

 そして、この言葉が、何度も何度も何度も、僕を救った。

 この時期は、何というか、僕の意識があやふやで、まぁ、それも比喩であるのだが、要するに情緒不安定で、細かなことが思い出せないということであるのだが、それでも、大事なことだけははっきりと覚えていた。

 それからだった。

 僕と妹で二人暮らしを始めたのは。

 八月朔日の本家に住む親から僕だけが勘当され、しかし、それを理由にして住場を変えるわけにもいかず、仕方なしに僕が当時志望していた、高校の近くに建っているマンションに引っ越しをした。本当なら、一人暮らしをするはずだったのだが、僕の無実を訴え続けた姫鈴がついて行くと言って聞かず、けれど、それを僕が否定することもできなかったので、二人暮らしをすることになった。かろうじて、僕たちを信じてくれた母が、資金を送ってくれているので生活ができている。

「生活費やその他もろもろ、私の方から支援させていただきます。たまには帰って来てくださいね、あの人がいない時に。私はあなたを信じています」

「俺のせいで、こんなことになってしまって、本当に申し訳ございません」

 母のにこやかに笑う顔に、これまで何度救われたか、わからない。

「いいえ。母としてあなたを助けることができなかった、私にも責任はあります」

 この人はどこまでも優しい。優しすぎて、胸が苦しいほどだ。

「そんなことはありません。俺はどこまでも感謝しています」

 母は涙した。

「恋、いつになって大丈夫です。また私たちの下で暮らせることを祈っています」

 僕は真っすぐ、母の目をみて、「はい」と答えた。

「それから、姫鈴。恋を頼みますよ。恋は、天才ですが、それだけ脆いです。ですので、あなたが支えてあげてください」

「はい。もちろんです。お元気でいてください母上」

 それから、母は僕たちのマンションから離れ、車で本家まで帰って行った。

「行ってしまいましたね、お兄様」

 悲しそうで、寂しそうな顔をした。

「荷物、片付けるぞ」

 はい。

 そう言ってから、しばらく無言のまま作業をしていると、会話を切り出してきた。

「お兄様、母上が昔から言っていましたが、その一人称、やめませんか」

「今さら、癖ついた一人称を変えるなんて無理だよ」

 母に似た綺麗な顔で、泣きそうな姿を見ると、何も言えなくなる。

 もう誰も泣かせたくなかったからだ。

「でも、姫鈴がそう言うなら、頑張って変えるさ。俺は、僕は君の兄だからね」

 妹は安堵の笑みを浮かべ、僕の方を見つめた。

「やっぱり、そっちの方が優しい本来のお兄様という感じがして、心地がいいです」

 そっか。

 そう思ってくれているのであれば、僕はそれで構わない。僕は姫鈴のために生きると決めたのだから。


「あ、授業、終わったね」

 昔のことを思い出し、感傷に浸っていると、僕の知らないうちに五十分が過ぎ去っていたらしい。

 ねぇねぇ。

 六時限目の終了を告げるチャイムが鳴り終わったと同時に、月見里さんがまた、話しかけてきた。

「私、残り二週間の命だし、少し付き合ってもらえる?」

「僕まで冥途に連れていく気?」

 はっはっは。

 彼女は、やっぱり、いつ聞いても軽快な笑いをする。

「そんなつもりはないよ。君と話がしたいからさ、買い物、行こうよって話。もちろん、君の行きたいところがあるなら、それを尊重するし、どうかな、八月朔日恋くん?」

 あざとさが入り混じった、表面上の薄気味悪い笑顔が、普段、出かけることがない僕の重い腰を動かす。

「いいよ。二週間限りだ。月見里さんのわがままに付き合ってあげる」

 ありがと。

「んじゃ、行こうか」

 机の横にかけてあるスクールバッグを手に取り、教室のドアに向かって歩き出す。僕は何も言わず、彼女の後について行く。

 僕は周りの人間が、彼女の深い闇にどうして気づけないのか、彼女の背中を見ながら歩いていると、何となくだが理解できる気がしてきた。これだけ、カモフラージュができているのであれば、友達はおろか、親ですら気づけないだろう。それに加え、この容姿である。心の傷や闇を見るよりも先に、ルックスの方を見てしまう。

 魅入ってしまう。

 だからこそ、彼女は救われず、死ぬ道を選んだ。それだけしか、辛く重い業があることを証明できないから。

 さぞ、自分のことを恨んだだろう。

 その気持ちは痛いほどわかる。

 実際、痛かった。

 だからと言って、僕が彼女の自殺を止めることはできない。それは、自分のわがままを押し付けるだけであり、いや、それ以上に同じく死を間近に見ている、見ていた人間が、同じ境遇にいる人間を助けることなど、到底できることではない。そんな人間にできることといえば、同情し、傷を舐めあい、肯定することだけ。そのような人を救えるのは、救われる必要のない人間だけだ。

 前を歩いていた彼女は後ろを振り返り、問いかけてくる

「行きたいとこ、ある?」

 特には。

 シンプルにそう答える。

「うーん。じゃあ、最近できた大通りのカフェ、行こっか。ゆっくり話できるでしょ」

「そうだね。そうしよう」

 了解すると、彼女は腕を後ろで組み、先ほどとは打って変わって、僕の真横を歩く。

 歩いているその間、特に会話はなく、時々、他愛もない世間話をするだけの時間を過ごした。

それは案外、悪いものではなかった。

けれど、その会話の最中、僕が彼女の目を見ることが多かったのだが、その目に視線を注ぐ度、空虚で、何も像を映していないような、空っぽの目をしていて、僕もこのような目をしているのだろうかと、そのように思ってしまった。

「ここのコーヒー、美味しいな」

 本当に美味だったため、無意識に口にしていた。

 だねーと、彼女も同じ意見のようだった。

「今日、何時まで遊ぼうか」

 イチゴパフェを頬張りながら、僕に問いただす。

「遅くなりすぎたら両親、心配するでしょ」

 そう言うと、彼女は今日一番の、乾いた笑顔で答えた。

「そんな心配、いらないよ。私に居場所なんて、どこにもないから」

 悲しげな様子を一切見せず、それが当たり前かのように話す彼女の姿に、いつかの自分が重なって見えて仕方がなかった。

「家族が、いないのか」

「いいやぁ、いるよ。母はね」

 でも――――

 そう言って彼女は続けた。

「いるだけ。母という肩書で、家に居座っているだけの女が、いるだけ。縁を切られてもなお、家を出て行かない、いや、本当なら出て行かなきゃいけないのは私の方かもしれないけれどね」

 僕は何も聞かず、何も言わず、話を聞き続けた。

「まぁ、とにかく、そういうことだから、君の心配は杞憂なのだよ」

「誘ってくれた身で申し訳ないが、僕の話をする前に、月見里さんの話を聞かせてくれないか」

 はっはっは。

 軽く、弾むような笑い声は、いつになく、乾いていた。いや、これがいつも通りなのかもしれない。

「君も、まったく同じとは言わないけど、似たような境遇の中、今日まで生きてきたのだろう? なら少し、長くなってしまうけれど、語らせてもらうかな」


「あぁ、痛い」

 スマホの明かりだけが自身を照らすだけの、真っ暗な部屋の中、ベッドに体育座りをして、腕にできたあざをさする。一週間ぶりに母から叩かれた。顔を殴られそうだったから、反射的に腕で守ってしまったけれど、何も言われずに済んでよかった。

 でも、こうして、二階の部屋にこもっていても、母の、私に対する憎まれ口が聞こえてくる。

「あの女のせいで、与一さんは家から出て行ったのよ。憎いぃ。あの女が、あの女が綺麗すぎるせいで――――」

 そこから先は聞き取れなかった、いや、私が無意識のうちに耳をふさいでしまっていたせいで、聞こえなかったのだ。本能は、聞きたくないと言っているのだろう。

 あぁ、母から憎まれ、殴られ続けて、かれこれもう三年がたつ。

 どうして、お父さんは家を出て行ったのだろう、なんて、今さら考えても仕方がないことだけれど、その理由が、母をいつまでも、私のせいだと、そう言い続けさせているのであれば、今さらなことは全くないが、それでも、何をどうしたって、あの母は止められないだろうな。

 自分の顔が憎い。

 周りは幾度となく、褒めてくれるけれど、それが私の全てを狂わせていて、だからこそ、自分で自分の顔を傷つけ、壊してみようとするけれど、どうしても、体が動かない。大きな目を潰す、粗のない綺麗な白い肌を切り刻む、高くスラっとした鼻をへし折る、その全てが悉く、自分の持ちうる少ない感情の一つである、恐怖が、その手を躊躇させる。

「明後日から、もう高校生か」

 事情を知った親戚の方が、お金を秘密裏に出してくれたおかげで、高校に通うことができるけれど、正直、自分のような人間にお金を使わせるのは、本当に申し訳ない。

「死ねば、いっか」

 解決方法は至ってシンプルであった。傷つけることはできなくとも、死ぬことはできる。

 一人、ぶつぶつ喋っていると、一階から、大きな声が聞こえる。

 母の発狂だ。

 私も、母も、もう壊れている。


「コーヒーのおかわりはいかがでしょうか」

「お願いします」

 彼女は表情を一切、変えることなくパフェを食べ続けている。

「私、可愛いし、でも誰にも懐かないから、よく猫みたいな人だねって言われるけれど、ならもうそろそろだと、思うのだよ、八月朔日君」

「何が、もうそろそろなんだ?」

 わからないならいいさ。

 やはり、彼女は何の感情の色も、表に出すことなく、言葉を紡いでいる。それはまるで、感情というものがそもそも排斥されているようだった。実際、地獄を見てきたのだから、失っていたとしても、何らおかしくはない。

 まぁ、僕も人のことは言えないが。

「次は僕の番か」

「んん? 最初に言わなかったっけ? 君の過去には興味がないって。私が知りたいのは、どうして、君は生きる道を選んだのかということだけ」

 パフェ用の長いスプーンをこちらに向け、僕にはっきりとそう告げた。

「だとしても、月見里さんが知りたいことを教える上で、多少なりとも、僕の過去話は混ざってしまうが、それでもいいのか」

 はっはっは。

「それは仕方ないよ」

「まぁ、漠然と、結論から言ってしまえば、僕が生きることを決めたのは妹のためだ。俺のために生きてくれと、そう妹が言ったから、僕は生きることにしたんだ」

「要するにシスコンなわけだ」

 何も入っていない空のカップを、スプーンでカチャカチャ漁りながら、斜め上なことを言い出したのだが、しかしながら、それをはっきりと否定できないのが、なんとも言えず、ため息が出てしまう。

「否定はしない」

「しないんだ」

 面白いね、君。

 まったくもって、面白くなさそうな素振りしているが、そういう彼女の姿に、僕はもう何も思わなくなった。元より、何も思わなかったのだけれど。

「兄妹、仲睦まじいことで、結構結構。でも、そこまで懐かれている兄貴はいないよね。仲のいい所以も、君が生きることを選んだ理由なのかな?」

 相も変わらず、彼女の姿勢、していることは同じだった。

「今日、月見里さんが言っていた、僕の噂の話」

「あぁ。君が一方的に複数人をボコったーって話ね」

 どこまで紆余曲折をすれば、ここまで真実が捻じ曲がるのだろう。

「あれは、妹を守るためだったんだ」

「ナンパされていたところを守ったか、いじめか、大体、兄貴が手を出すとなれば、そんなところかなー」

 勘がよく、話がスムーズに進むので助かる。

「後者だ」

「なるほどねぇ。それで?」

「まぁ、色々あって、妹がいじめられている状況と鉢合わせた。口論の余地すらなかったよ。出会った瞬間、向こうから手を出してきたから、仕方なく、全員返り討ちにした」

 ふーん。

 彼女はそう言って話を続けた。

「非があるのは向こうなのに、いじめの件がもみ消され、君のせいになった。要するに、八月朔日妹は責任を感じたんだ。それが、君たち兄弟が異様に仲のいい理由かな」

「僕たち兄妹は元々、仲がよかったから関係ないと思う。責任の方は、確かに感じているのかもしれないけれど、それを僕が何も気にするな、なんて言えるわけがなかった」

「その頃は、まだ人の心があったわけだ。だとするなら、その後なのかな。名家出身である君が勘当され、暴力親父の手により、母親まで本家から引きはがされたのは」

 正直、驚いた。月見里さんが、ここまで頭の回転が速いとは思わなかったからだ。

「どうしてそれを知っている」

 話をする前に、こっちの方が気になってしまって、話題を変えてしまった。

 はっはっは。

「今日、初めて君の口から、感情のこもった声を聞いたよ。八月朔日なんて、珍しい苗字の人、一度見たら忘れないよ。この町、屈指の名家で、幾つもの会社をたて、成功させた八月朔日家。ただ、変な噂も度々、挙がった。この辺の中学、高校は大物の息子、娘だったり、偉いお方が多く在籍しているからね。生徒の悪い噂話がたちまち広まれば、それはその人の家事情まで貫通して広まる。入試試験一位、全国模試一位、空手全国優勝の天才君なら、もうわかるよね」

 僕のことが、周りで話されていることは知っていたけれど、まさか、家のことまで周知の事実だとは。

「知らなかった」

「そりゃ、本人の耳には届かないようにするものさ」

 まぁ、とにかく、と彼女は話を続ける。

「君のことはわかったよ。生きる理由を家族がくれたわけだ」

 月見里さんは、と僕が言いかけた時、彼女は続けて話をする。

「私にも、家族がいれば、君と同じ道を選んでいたのかもしれないね」

 家族以外でも、彼女を気にかけて愛してくれる人さえいれば、その人を頼って、その人のために生きることもできただろうけれど、それでも、その選択肢は彼女の容姿が許さなかった。天から与えられた才能であり、足枷でもある、そのルックスは、彼女の場合、足枷にしかならなかった。黒く濁った心のうちを変えようと、彼女に近づいた人間はいなかったのだろう。だからこそ、彼女は今、死を選んでいる。それをやはり、僕がどうこうできるわけではないけれど、それでも、伝えることはできる。妹が僕にしたように、彼女にも、これからの未来を生きられるような、言葉を伝えることはできる。

「今は、月見里さんを救うことができる人はいないかもしれないけれど、いずれは出会えるかもしれない。多分、僕は妹がいなければ、もう死んでいただろうし、まだ、もう少し、生きてみるのも悪くないと僕は思う」

「情けかい?」

 意見さ。

 そう、情けではない。僕は情けをかけられることはあっても、この先、僕がかける立場になることは絶対に、何があってもないだろう。

 そう言う僕の話を気にも留めない様子で、スマホを見ていた彼女は突然立ち上がった。

「もう五時だ。かなり長居してしまったし、私は帰るとするよ。お代は、私に任せて。付き合ってもらったお礼と、これからこの世を去る私にお金は必要ないからね。あの世において、紙幣はただの紙切れ。硬貨はゲームセンターのコインとほぼ同価値だ。まぁ、久々に楽しかったよ。あ、最後に一つ、私はいつまでも、君に問い続けるよ」

 それじゃ。

 席を立ちあがった彼女は、後ろを振り向かずに手を振り、支払い用紙を持って、去って行ってしまった。

 僕と言葉を交わした後でも、彼女の背中が語るものは変わらないようだった。

飲みかけのコーヒーの揺れる水面を一人、見つめながら、オシャレな洋楽が耳の鼓膜を震わせているこの状況下の中、お店のドアについている鈴がチリンと鳴る。気になって視線だけを向けて見ると、なんとも見覚えのある制服を着ていたので、どこで見たのだろうと思考をめぐらせたところ、妹の学校の制服だということに気がついた。

というより、妹本人だった。

「お兄様? どうしたのですか。こんなところに一人で。先ほどまで誰かとご一緒されていたようですけれど」

「あぁ、少しな。今はもう誰も座っていない空席だ。そこ、座りなよ」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

 そう言って、妹はスカートのすそを抑えながら座る。

 こうして姫鈴を見ていると、同じ家庭で育ったとしても、やはり、妹の方が育ちがいいので、どうも不思議なこともあるものだと、思ってしまう。

「彼と同じものを一つ」

「かしこまりました」

 妹は僕と同じブラックコーヒーを注文したようだった。

「どうしたんだ、こんなところに一人で」

 目を輝かせながら店の中をキョロキョロしている妹に問いただす。

「最近、オープンしたと聞いて、気になってきてみたのです。私とて、キラキラの女子中学生ですよ。このようなオシャレな店は、気になってしまうものです。まぁ、本当のことをお教えするなら、受験勉強をしに来た、ですけれど」

 僕の通っている学校が第一志望の姫鈴にとって、今の時期はとても重要だ。勉強というのであれば、僕はここから立ち去ろう。

「そうか、なら、僕は邪魔になってしまうし、帰るとするよ」

 お待ちください。

 と、僕の手を焦って握る。

「まだ、お伝えしなければならないことがあります」

「わかった。聞くよ」

「先ほど、お兄様と同じ制服を着ていた女性の方とすれ違いました。その人は、お兄様と同じ目をしていました」

 この店にわざわざ一人で来た理由はそれか。

「見ていたのか」

 何も言わず、妹は頷いた。

 反射的にため息が出てしまった。

「彼女とは、何もないし、僕の決意が変わることはないから安心して。彼女のことは、そうだな。もう忘れろ」

 忘れてくれ。

「わかり、ました。死んでしまったり、しませんよね」

 不安そうな妹の頭を何も言わずに撫でると、多少なりとも安心したようで、「僕はこれで」と言うと、何も言わず、席から見送ってくれた。

 外に出て周りを見渡しても、流石に彼女はいないようで、月見里さんが帰って行った道を眺めていると、不思議なことに、僕には彼女が歩いた帰路、それに、灰色の虚しい足跡が残っており、それが見えているような錯覚に陥っていた。


 その次の日から、彼女は学校に来なかった。そして、二週間と数日が過ぎ、五月の最終日、朝のホームルームで、月見里菜々さんの行方が分からなくなったと、先生から、クラスのみんなへ伝えられた。

 行方不明ということである。

 彼女の行方が分からないまま五月が終わり、六月の半ば頃、隣町の山奥で、月見里さんが首を吊って自殺していたと、全校集会で明かされた。発見されたのは一昨日のことだそうで、その日、全校生徒による黙祷が捧げられた。

 後になって聞いた話だが、彼女の母親も行方をくらませたらしく、精神疾患を患っていた月見里母が、自分で姿を隠すとは考えられにくく、そのまた母の元婚約者である、月見里父も行方不明になっていることから、月見里菜々と共に、一家心中したのではないか、とのことだった。

 僕は、彼女が死んだことを告げられてから、空席となった隣を見る度、家で在りし日に自殺をしようと、握ったバタフライナイフを見る度、僕と彼女が座って話したカフェを見る度、その都度、彼女が笑っていない目をして、微笑む姿と、軽快な高笑いが、頭の中で再生され、記憶の中で生きている彼女が、僕にこう問いかける。


「君は、なぜ、生きている」


 と。


「おかえりなさい、そして、大学卒業おめでとう」

 時がたっても、変わらず綺麗な僕の母が、新築の新しい家の玄関で、僕を出迎える。

「ただいま。やっと、帰ってこられたよ」

 母は涙ぐんでいた。

「姫鈴もおかえりなさい」

「ただいま帰りました。母上」

 妹は母に抱きついて、そう言った。

「さぁ、上がって。あなたたちの部屋は二階です」

 そう言われ、僕たちは階段を上って、各々、自分の部屋に入って行く。

 生活の必需品は大体そろっているようで、片づけは必要なさそうだった。

「お兄様入りますよ」

 あぁ。

「どうした?」

 姫鈴は、少し下をうつむいて、何かをいいづらそうにしていたが、覚悟を決めたのか、僕の方を真っすぐ見つめ、話を切り出した。

「高校から、大学まで、七年間を過ごしてみて、どうでしたか」

 生きる意味は見つかった?

 妹の質問とは別に、記憶に生きるあいつも、僕にそう問いただしているように思えた。

「当たり前だけど、色々なことがあったさ。ただ、はっきり言えるのは、生きていると様々なことが起こって、それが良いことだったのか、悪いことだったのか、分からないけれど、それら全てが、今の僕を生かしているということ」

 そうですか。

 妹はどこか嬉しそうで、同時に安堵のような表情をして、そう言った。

「人が生きている理由って、結局、どうして自分が生きているのかを探すというのが、目的だと思うんだ」

「お兄様なりの信念が、思いが、実ったのであれば私も嬉しい限りです」

 僕がかすかな笑みを妹に届けると、妹は笑った。

 乾いた、軽快な高笑いをした。

 はっはっは。

「姫鈴……」

 僕は、その底がなく、暗い笑顔を知っている。

 知っていた。

「君は、なぜ、生きている」

 僕はそう問いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君はなぜ生きている 皐月 @satsuki0511

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ