ハーミット・チューブ

IS

二ヵ月と一日目

 ヤドカリという生き物がいる。身近な貝殻やゴミを拾って、身を守る殻にするらしい。私にとって身近なものは、本と試験管だった。本の隙間は狭く、入り込むには窮屈だ。つまり一択しかない。今日から私の宿は、この試験管だ。




 ◆ ◆ ◆




 朝、目が覚める。意識が連続していることを確認する。試験管から這い出て、周囲を確認する。毎日の日課だ。当然のように前日と変化はない。この部屋にあるのは、数冊の本が収められた本棚と、背に被っている試験管。そして四方を囲う白い壁と、同じく真っ白で、どれだけ手を伸ばそうが届かない高位置にある天井だけだった。


 本から得た情報によると、この世にはもっと多くのものが存在するらしい。例えば、睡眠には布団やベッドという道具が存在し、一日に二か三食、食事というものを摂るのだそうだ。生憎、私の世界にそうしたものはない。ないものはしょうがないので、日課を続けることにする。


 おおよそ身体10個分離れた位置まで這うことで、私の身体は本棚に到達する。運動不足への警鐘を本で読んで以来、あえて本棚から離れて寝るようにしているのだ。そうして運動を終えたことで、いよいよ読書の時間がやってくる。


 本棚には彩どりの本が収められている。ちゃんと数えた事はないが、とにかくすごい数だ。はじめは書かれている記号が分からずに困惑していたが、一つの本を開いたことで、それらが文字と呼ばれるものだと分かった。一文字一文字を覚え、やがて文章が読めるように成長した。そうなると本に書かれている内容が分かるようになり、以来本を読むのが本当に楽しくなった。


 今日、私が開いた本はこどもたちの冒険譚だった。本の中には天井のない世界が広がっていて、海という広大な世界を、船という乗り物で進んでいく物語。天井がない世界など、私には想像もつかなかった。この壁の向こうは本当にそうなっているのか、あるいは空想の出来事が書かれているのか、私には判断する材料がない。強いていうなら、海は他の本にも書かれているので、本当にあるのかもしれない。ヤドカリも近くに住んでいるらしい。この目で見ることはできるのだろうか。ふとそう思った。その時だった。


 けたたましい騒音が響いて、部屋中が真っ赤に染まった。実際に赤くなったのではなく、そういう色の光が天井から放たれているらしい。そう、この事態はほぼ毎日起きていることだった。音に警戒して、私はすぐに試験管の中に身を潜めた。しばらくして、部屋よりもずっと赤い、一本の線が私目掛けて伸びてくる。この線には触れず、線自体に害はないが、この線が現れてから程なく――。


 バキュン。線から何かが飛んできて、それが試験管にぶつかって、弾かれた。そうしてようやく赤い光が止んで、再び世界に白が戻った。私は恐る恐る試験管から抜け出して、転がっているものを見た。『U』の字みたいな形で、触っても特に害はない。ただし、飛んできたものに命中すると、とんでもなく痛くてびりびりする。何故これが飛んでくるのかは分からない。もしかしたら、本を読むのを邪魔したい誰かがいるのかもしれない。しかし、今は何の問題もない。何せ試験管があるのだから。


 この赤い現象は、日に三回くらいやってくる。試験管の中でやり過ごしている間は、管の中に本を持ってこれなくて、少し退屈だ。だが、それでも大抵の時間は読書に費やせるし、おかげで今日読んだ本も三分の一くらいは読み進めることができた。


 やがて、意識がおぼろげになってくる。眠気というものらしい。昔はあまり意識しなかったが、本を読むようになってから、少しだけこの時間が伸びた気がする。おかげで、試験管の中に入る時間ができた。なにしろ、就寝中にあの赤がやってきたらたまったもんじゃない。そうして、明日読む物語に思いを馳せながら、本の中に出てくる者たちに倣って、今日の私の意識もまた、闇の中に沈んでいった……。




【二ヵ月と一日目】 観察終了

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