ヘスペリスの果て
川崎俊介
第1話 美を求める社会
「全く。どこを向いても、退屈な人と風景だ。描くに値しないな」
かつて画家を目指していた俺は、思わずぼやいた。
2070年。
芸術家と呼ばれる存在がいなくなって久しい。もはや作家性を主張する余地はなく、何が美しく、どんな美しさを目指すべきかは決まっていた。
建物は黄金比を使用しているほど高く評価され、奇抜で実用的でない建築は貶められた。数百を越える基準により、絶対的尺度で「美しさ」を評価される。
人間は見た目で競い合うようになり、厳格に定義された【イデア近似値】によって美醜は数値化されている。
そんな俺のイデア近似値も、もうすぐ200を越える。210が理論的限界値だ。体内のナノマシンが新陳代謝を適切な速度に調整し、肌を整え、体型をスリムにしてくれる。
おかげで、この社会における好青年の『正解』に近づきつつあるわけだ。
「悪である自由も失われ、醜くある自由も失われたというわけか」
人類の文明は完成形に近づいているのだろう。
30年前に完全な世界平和が訪れ、10年前に資本主義経済は瓦解。無限にある富が均等に降り注いでいる。
技術革新のもたらしたそれらの恩恵は、まさにこの世を天国にした。
そんな社会で、人々は何を競えばいいのか分からなくなった。
平和や正義を訴える必要はなく、金を稼いでステータスを見せつけることもできない。働かなくても、一昔前の億万長者並みの生活が、誰でも入手できるからだ。
最後に残された競争の余地。それこそが、「美しさ」を極めることだったというわけだ。
【イデア近似値、オーバー200です】
近くを歩く女性のスマートデバイスから、そんな音声が聞こえる。
大したものだ。あの人は美しさにおいてもこの社会のトップ層に君臨した。順当にこの社会に馴染んでいけば、いずれ俺もああなるのだろう。
だが次の瞬間、光輝く球体が女の前に現れた。
「なんだあれ?」
眩しさを我慢し目を凝らすと、林檎の形をしているのが分かった。黄金の林檎だ。
「【最も美しい女神に捧げます】」
そんな声が響き渡った。
ヘスペリスの黄金の林檎。
ギリシア神話に登場する争いの火種か。
「あら嬉しい」
女が林檎を手に取ると、途端にその身体は硬直した。石像のようにピクリとも動かない。
何が起こったんだ?
俺はぎょっとしたが、久々に感じた不快感に、感動を覚えていた。
全てが最適化されたこの社会では、抱くことのない感覚だからだ。
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