偶然の出会い
工房に入って一週間が過ぎた頃、マルコは早くも日課に慣れ始めていた。朝一番の掃除から、顔料の準備、そして日中の練習課題。ピエロの指導の下、彼は着実に基礎を身につけていった。
その日は、珍しく蒸し暑い春の朝だった。アルノ川から立ち上る靄が、フィレンツェの街を覆っている。マルコが顔料を磨いていると、工房の扉が開く音がした。
「お客様です」
年少の徒弟が告げる。マルコは作業の手を止めず、いつものように商人か修道院からの依頼だろうと思っていた。
しかし、入ってきた足音は、いつもとは違っていた。軽やかで、どこか優雅な響きを持っている。思わず振り返ると、そこには若い貴婦人の姿があった。
真珠の光沢を帯びた薄紫の衣装に身を包み、金糸の刺繍が施された上着を纏っている。付き添いの年配の女性と共に、彼女は静かに工房を見渡していた。
「マエストロ・ボッティチェッリをお待ちしています」
涼やかな声が工房内に響いた。「サン・ロレンツォ教会の祭壇画について」
マルコは慌てて立ち上がり、お辞儀をする。が、その際、テーブルに置いてあった木炭が床に落ちてしまった。カタカタという音と共に、それは貴婦人の足元まで転がっていく。
「申し訳ありません」
マルコが慌てて拾いに行こうとした時、貴婦人が自然な仕草で木炭を拾い上げた。その手の動きには、不思議な慣れ親しみが感じられた。
「これは...柳炭ですね」
彼女は木炭を見つめながら言った。「輪郭を描くのに最適な」
その言葉に、マルコは思わず顔を上げた。目が合う。そこには、芸術を理解する者特有の輝きが宿っていた。
しかし、その瞬間は長くは続かなかった。付き添いの女性が咳払いをし、貴婦人は我に返ったように木炭をマルコに差し出した。
「ベアトリーチェ様」
奥から現れたマエストロが、深々と頭を下げる。「お待ちしておりました」
マエストロの言葉で、マルコは彼女がメディチ家の血を引く貴族だと悟った。ベアトリーチェ・デ・メディチ。その名前は、フィレンツェの芸術界でも一定の重みを持っていた。
「祭壇画の下絵ができましたので、ご確認いただければ」
マエストロが奥の作業場へと案内を始める。ベアトリーチェが通り過ぎる際、かすかな花の香りが漂った。
マルコは、手の中の木炭を見つめた。たった今、偶然の出会いが何かの始まりを予感させるような、そんな不思議な空気が工房に満ちていた。
***
「この部分の聖母の表情を、もう少し柔らかくできないでしょうか」
奥の作業場から、ベアトリーチェの声が聞こえてきた。マルコは顔料を磨りながら、その声に耳を傾ける。
「確かに」マエストロが応じる。「慈愛に満ちた表情にすべきですね」
続いて、紙をめくる音。「この下絵なら、修正は可能です」
マルコは作業の手を止めた。聖母の表情を柔らかくする——その言葉が、彼の中で反響する。昨日まで練習していた人物の表情描写が、ふと頭をよぎった。
「マルコ」
突然、マエストロが呼ぶ。「こちらに来なさい」
心臓が高鳴る音を感じながら、マルコは作業場に向かった。大きな作業台の上には、祭壇画の下絵が広げられている。ベアトリーチェと付き添いの女性、そしてマエストロが、その周りに立っていた。
「この部分の修正を手伝ってもらおう」
マエストロが下絵の一部を指さす。「君は最近、表情の描写を練習していたな」
マルコは息を呑んだ。確かに彼は、空き時間に人々の表情を素描することに熱中していた。市場で見かけた母親の慈しみの表情や、教会で祈る老人の敬虔な面持ち。それらを、コツコツと描き溜めていたのだ。
「マエストロ、しかし...」
戸惑いの色を隠せない。祭壇画の下絵に手を入れるなど、見習いにはあまりに重要すぎる仕事ではないか。
「遠慮することはない」
マエストロの声には確信が満ちている。「君の描く表情には、温かみがある」
ベアトリーチェが、興味深そうにマルコを見つめていた。その視線に、批評眼の鋭さを感じる。彼女は明らかに、単なる注文主以上の芸術的素養を持っていた。
マルコは深く息を吸い、木炭を手に取った。聖母の表情を柔らかくする——それは技術的な問題であると同時に、魂の理解が必要な作業でもある。
彼は、市場で見かけた母親の表情を思い出していた。幼子を抱く母の目に宿る慈愛。それは、聖母マリアの中にも確かに存在するはずのものだ。
慎重に、しかし迷いのない手つきで、マルコは線を引き始めた。わずかな修正。目元のわずかな柔和さ、唇の端のかすかな優しさ。確実な線で、聖母の表情が徐々に変化していく。
***
「止めなさい」
ベアトリーチェの声が、静かに響いた。マルコが手を止めると、部屋の空気が凝固したように感じられた。
彼女は身を乗り出し、下絵をじっと見つめる。その眼差しには、単なる贅沢な趣味以上の、鋭い芸術的洞察が宿っていた。
「素晴らしい」
彼女の言葉に、付き添いの女性が小さく咳払いをした。身分ある令嬢が、一介の職人見習いを褒めるのは相応しくないという無言の戒めだ。
しかし、ベアトリーチェは意に介さない様子で続けた。
「この表情なら、きっと参詣する人々の心も揺さぶることでしょう」
マエストロが満足げに頷く。「ベアトリーチェ様の仰る通りです」
「あなたは」
彼女はマルコに向き直った。「どこでこのような表情を見つけたのですか?」
一瞬の躊躇いの後、マルコは答えた。
「市場で、幼子を抱く母親を見かけることがあります。その瞬間の表情には、人間の持つ最も純粋な愛が現れると思うのです」
「市場で...」
ベアトリーチェの目が輝いた。貴族の娘である彼女には、市井の人々の生活など縁遠いものだったはずだ。しかし、その目には羨望に似た感情が浮かんでいた。
「芸術は、そこにこそあるのかもしれません」
彼女は静かに言った。「日常の中の崇高さを見出すことに」
「ベアトリーチェ様」
付き添いの女性が、今度は声に出して制した。「お時間がございます」
「ええ」
彼女は我に返ったように姿勢を正した。「では、マエストロ。この方向で進めていただければ」
マエストロが深々と頭を下げる。「承知いたしました」
ベアトリーチェが立ち去ろうとした時、彼女は一瞬、マルコの方を振り返った。その目には、言葉にできない何かが宿っていた。芸術への情熱か、それとも身分を超えた共感か。
扉が閉まり、工房に日常の空気が戻ってきた。しかし、マルコの心の中で、何かが確実に動き始めていた。
「よくやった」
マエストロが彼の肩を叩く。「だが、これは始まりに過ぎんぞ」
窓の外では、正午を告げる鐘が鳴り始めていた。フィレンツェの空は、いつになく青く澄んでいた。
***
その日の午後、工房の雰囲気が微妙に変化していた。年長の徒弟たちが、マルコに向ける視線が違う。彼らの間で、ささやきが行き交うのが聞こえる。
「なぜ彼が選ばれたのか」
「見習いのくせに」
「メディチ家の注文だぞ」
しかし、ピエロだけは違った。
「これで晴れて、お前も工房の一員だ」
顔料を調合しながら、彼は穏やかに言った。「マエストロは、才能のある者を見抜く目を持っている」
マルコは黙って頷いた。確かに今日の出来事は、彼の立場を大きく変えるものだった。しかし、彼の心を占めていたのは、別のことだった。
ベアトリーチェの言葉が、まだ耳に残っている。「日常の中の崇高さ」——その言葉は、彼が漠然と感じていたものを見事に言い表していた。市場で見かける人々の表情、路地裏での小さな出来事、そこに秘められた美しさ。
「ピエロ」
マルコは、顔料を磨りながら尋ねた。「芸術とは、結局のところ何なのでしょうか」
ピエロは手を止め、窓の外を見やった。
「難しい質問だな」
彼は考え込むように言う。「技術か、魂か、それとも神の啓示か...」
「私は」
マルコは慎重に言葉を選んだ。「今日、何か大切なものに触れた気がします」
ピエロは静かに微笑んだ。
「お前は変わった。たった一日で」
夕暮れが近づき、徒弟たちが帰り支度を始める頃、マエストロが再びマルコを呼んだ。
「明日からは、祭壇画の制作を手伝ってもらう」
マエストロの声には、迷いがなかった。「お前の目は、人の内面を見抜く力を持っている」
「マエストロ...」
「遠慮は無用だ。才能には相応しい場所がある」
工房を出たマルコを、夕焼けに染まったフィレンツェの空が迎えた。サンタ・マリア・デル・フィオーレの大聖堂が、最後の陽光を浴びて輝いている。
彼は、自分の中で何かが大きく変わり始めているのを感じていた。朝の蒸し暑さは消え、心地よい風が頬を撫でる。石畳を歩きながら、マルコは今日一日を振り返っていた。
木炭が転がり、偶然の出会いが生まれた朝。祭壇画の下絵に向かい合った昼過ぎ。そして、芸術の本質について考えさせられた午後。全てが不思議なほど鮮明に、記憶に刻まれていた。
家路を急ぐ人々の中に、母親と幼子の姿を見つける。マルコは立ち止まり、その表情を注意深く観察した。そこには確かに、人間の持つ最も純粋な愛が宿っていた。それは、聖母の慈愛と重なり合う。
「日常の中の崇高さ」
彼は小さくつぶやいた。ベアトリーチェの言葉が、新しい意味を持って響いてくる。
フィレンツェの夕暮れは、静かに更けていった。
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