魂の線

風見 ユウマ

工房への道

早朝の光が石畳を照らし始めた頃、マルコ・ヴェントゥーリは既に目を覚ましていた。サン・マルコ地区の狭い路地に建つ工房の入り口に立ち、深く息を吸い込む。生乾きの石の匂いと、どこからか漂うパンの香りが、フィレンツェの朝の空気を満たしていた。


十六歳になったばかりの彼は、今日からボッティチェッリの工房で正式な見習いとして働き始める。上等な生地で仕立てられた服は、商人の家の次男である身分を物語っていたが、その手には画材を詰めた質素な布袋を握りしめていた。


「おい、マルコ」

振り返ると、兄のアンジェロが追いかけてきていた。早朝の冷気で息が白く、肩で息をしている。

「父上には内緒だ。これを持って行け」

差し出されたのは、小さな革の財布だった。


「でも、兄さん...」


「いいから受け取れ。画材や顔料だって、最初は自分で揃えなければならないだろう?」

アンジェロは優しく微笑んだ。「僕は商人として生きていく。でも、お前には自分の道を行ってほしい」


財布を受け取りながら、マルコは目頭が熱くなるのを感じた。父との激しい口論の末、工房で学ぶ許可を得たのは、実はこの兄の取りなしがあってのことだった。


「必ず、立派な画家になって見せます」

マルコが力強く言うと、アンジェロは黙って頷き、背を向けて立ち去った。


工房の扉を開けると、中からは既に作業の気配が漏れていた。顔料を磨る石臼の軋みや、徒弟たちの囁き声が響いている。薄暗い入り口から一歩踏み入れると、マルコの目は大きな北窓から差し込む光に釘付けになった。


そこには、巨大なカンヴァスに向かうボッティチェッリの姿があった。マエストロの手元では、赤い顔料が塗り重ねられ、まるで布地が血の気を帯びて生命を宿すかのように、聖母の衣が徐々に形作られていく。


「新しい見習いか」

振り返ったマエストロの目は、鋭く、しかし温かみのある光を湛えていた。「まずは、これを」

差し出されたのは、木炭と一枚の紙だった。


マルコは、生涯で最も緊張する瞬間を迎えていた。しかし同時に、この場所こそが自分の進むべき道なのだという確信が、胸の奥で静かに、だが揺るぎなく燃えていた。


外では、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘が朝の訪れを告げ始めていた。フィレンツェの街が、新しい一日を迎えようとしている。マルコ・ヴェントゥーリの、画家としての第一歩が、今ここで始まろうとしていた。


***


「人物デッサンか風景画か、好きな方を描いてみなさい」

マエストロの声は、工房内に響く顔料を磨る音をかき消すほどの力強さを持っていた。マルコは紙を見つめながら、しばし考え込んだ。商人の家に育った彼は、幼い頃から帳簿の余白に人々の横顔を描き続けてきた。だが、ここで最初に見せる作品は慎重に選ばねばならない。


窓辺に立ち、外の景色に目を向ける。路地の向こうに見える教会の尖塔、その下を行き交う人々の姿。そして、路地の曲がり角で商談をする二人の男性。マルコは木炭を握り直すと、素早い手つきで紙の上に線を引き始めた。


「ほう」

背後から覗き込むボッティチェッリの気配に、マルコは震える手を必死に抑えた。紙の上には、商人たちの形が徐々に浮かび上がっていく。衣服の ひだ、腰に下げた財布、交渉中の表情。幼い頃から見慣れた光景を、彼は正確に写し取っていった。


「君は商人の息子だったな」

「はい、マエストロ」

「それは絵にも表れている。人々の仕草や持ち物の細部まで、よく観察できている」


他の徒弟たちが作業の手を止め、こちらを見ている気配がした。中でも、年長の徒弟らしき青年が、特に興味深そうな目でマルコを観察していた。


「ピエロ」とマエストロが声をかける。「彼に基本的な道具の使い方を教えてやってくれ。それと...」

一瞬の間があった。「今描いた商人たちの服の襞は、優れた観察眼を示している。午後からは、祭壇画の衣装の下絵を手伝ってもらおう」


工房内にささやきが広がった。初日の見習いが、いきなり重要な仕事を任されるのは異例のことらしい。しかしマルコは、それが試練であることを直感的に理解していた。商人の息子として育った経験が、ここでは思わぬ形で役立とうとしている。


「マエストロ」

マルコは深く頭を下げた。「ご期待に添えるよう、精一杯努めさせていただきます」


ピエロと名乗られた青年が近づいてきた。片手に木炭を持ち、もう片手には上質な羊皮紙を抱えている。彼の表情からは、先輩としての誇りと、新参者への警戒が垣間見えた。


「では、基本から始めよう」

ピエロの声は低く落ち着いていた。「まずは、道具の扱い方からだ」


***


石臼の音が工房に響く中、ピエロは丁寧に道具の説明を始めた。木炭の種類、紙の特性、そして顔料の基礎知識。マルコは商人の息子らしく、値段と品質の関係にも強い関心を示した。


「これは柳炭。輪郭を描くのに最適だ。そしてこちらはブドウ蔓から作った炭で、陰影を付けるのに使う」

ピエロは実演しながら説明を続けた。「見ての通り、柔らかさが違うだろう?」


マルコは黙って頷きながら、それぞれの木炭で線を引いてみる。確かに、同じ力加減でも生まれる線は全く異なっていた。商品を見極める目は、ここでも役立ちそうだった。


「次は紙だ。この羊皮紙は高価だが、繊細な線も逃さない。練習には手漉き紙を使うがな」

そう言いながら、ピエロは不意に口調を和らげた。「怖がることはない。誰もが最初は素人だ」


工房の隅では、他の徒弟たちが顔料を調合している。卵黄を結着材として、粉末状の顔料を丹念に混ぜ合わせていく。その手際の良さに、マルコは思わず見入ってしまった。


「午後からはそれも教えよう」

ピエロが言う。「だが、その前に基礎をしっかりと」


昼前になると、マエストロが再び姿を現した。壁際に立てかけられた大きな祭壇画の下絵に向かい、細部の修正を始める。マルコは、その精緻な手つきを横目で観察しながら、自身の練習を続けた。


「マルコ」

突然、マエストロが呼びかける。「こちらに来なさい」


心臓が高鳴る。マルコが近づくと、マエストロは下絵の一部を指差した。

「この聖ヨハネの衣装の襞を、先ほどの商人たちの服と同じ調子で描いてみなさい。ピエロが付き添う」


これが試練だ。マルコは深く息を吸い、木炭を手に取った。商人たちの着ていた織地の質感、重力で生まれる自然な襞、光の当たり方。朝方描いた記憶を頼りに、彼は注意深く線を引き始めた。


「力を入れすぎるな」

ピエロが静かに助言する。「聖人の衣装だ。もっと優美に、しかし確実に」


マルコは何度か線を引き直した。徐々に、布地の質感が紙の上に現れ始める。工房内の空気が変わったのを感じた。他の徒弟たちが、さりげなく様子を窺っている。


***


「止めなさい」

マエストロの声が響いた。マルコは息を詰めたまま、手を止める。ボッティチェッリは黙って下絵を見つめ、やがて静かに頷いた。


「よく見ている。だが、聖ヨハネの衣には、商人とは異なる崇高さが必要だ」

マエストロは木炭を取り、マルコの描いた線の上から、わずかな修正を加えていく。「見なさい。布地は同じでも、その纏い方で人物の品格が変わる」


一筋の線が加えられるだけで、布地の襞は見違えるように気高さを帯びていった。マルコは目を見開いて、その変化を凝視する。商人の衣服と聖人の衣装。同じ技法で描かれながら、その違いは歴然としていた。


「技術は基礎だ。その先にあるものを見抜く目を養いなさい」

マエストロはそう言い残すと、別の作業に移っていった。


夕暮れが近づき、工房の空気が黄金色に染まり始めた頃、ピエロが顔料の調合を教え始めた。卵黄を結着材として使う技法は、マルコにとって新鮮な驚きだった。


「これが テンペラ画の基本だ」

ピエロは説明する。「顔料と結着材の配合が命綱。間違えれば作品が台無しになる」


マルコは真剣な面持ちで、その技法を学んでいった。商人の息子として、計量と調合には人一倍の注意を払う。その姿勢に、ピエロは小さく頷いた。


最後の光が消えかけた頃、マルコは工房を後にした。体は疲れていたが、心は充実感に満ちていた。通りに出ると、サンタ・マリア・デル・フィオーレの鐘が夕べの祈りを告げていた。


「どうだった?」

待ち構えていたのは、兄のアンジェロだった。


「厳しいけれど...」

マルコは空を見上げた。「この道を選んで、間違いではなかった」


「そうか」

アンジェロは弟の肩を叩いた。「家に帰ろう。今日は特別に、私から父上に報告しておこう」


二人が歩き出すと、夕闇が通りを包み始めていた。石畳には、まだ日中の熱が残っている。マルコは、自分の人生が大きく動き出したことを実感していた。明日からは、また新たな試練が待っているだろう。だが、今の彼には不思議な自信があった。


商人の息子でありながら、画家としての道を選んだ若者の物語は、ここからが本当の始まりだった。工房の空気に漂う顔料の香り、マエストロの鋭い眼差し、そしてピエロの教えの数々。全てが、明日への糧となっていた。


フィレンツェの街は、今宵も静かに更けていく。

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