獬豸を喰む白虎

Rin

1. 獬豸を背負う男

あんたが泣く姿を初めて見た。


カシラの、いや、オヤジの組事務所の部屋で組員が全員出払った後、兄貴は悔しそうに拳を握って、人知れずひっそりと、堪えきれず溢れ出した涙を手の甲で拭っていた。声を出さないよう必死に歯を食いしばり、それでも溢れる声を誰も聞いていないと思っている。


オヤジの車が海から上がったと報告があったのはつい一週間前だった。オヤジの姿は見当たらず、あの辺りは海流が激しい為、遺体は見つからない可能性が高いと警察は言う。車が落ちたと見られる崖にはアクセルを踏み抜いた車のタイヤ痕と、もうひとつ、ブレーキを掛けたタイヤ痕のふたつが見つかったらしい。オヤジは多分、追われていたのだろうと警察は意見を述べた。不慮の事故として片付けられ、組同士の抗争とも捉えられない不可解な事故だった。


あの日から兄貴は若頭から組長へと昇格し、オヤジが使っていた事務所の部屋は組長となった兄貴の部屋になった。だがきっとそれが兄貴にとっては辛いのだろう。部屋の至る所にオヤジの痕跡が残っているのだから、部屋にはなるべくいたくないのだろう。


兄貴はいつもひとりになると泣いている。未だに苦しそうに泣いている。


いつも淡々と飄々と、何でも卒無くこなす兄貴の泣いてる姿は、あまりにも貴重だったから俺はしばらくその泣く姿を見ていた。どれほど泣いたってオヤジはもう帰って来ないのに。あんたは本当に可哀想な人だ。そんなに泣いて干からびないだろうか。あんたを失意のどん底に突き落としたオヤジが正直憎いが、オヤジの亡き後、あんたの心の支えは誰になるだろう。俺はそう淡々と考えていた。あの夏の日に願った事は叶うだろうか。俺ならあんたを泣かせはしないのに。あんたは俺を見る事なんてもう二度とないのだろうか。


俺は今でもあんたの事が好きです。


なんて口が裂けても言えない言葉を胸に仕舞いながら、俺はそっとその場を後にした。


………

……

まさか自分が組を背負う人間になるとは思わなかった。俺はただ、邦仁さんの側にいて、邦仁さんの為に死ぬ事ができればそれで良かった。考えれば俺の人生は邦仁さんと出会う前と後では雲泥の差だった。


高校の時から売られた喧嘩は買う主義で、負けなしだったから周りに人が集まるようになっていた。別に俺はそんなのを望んではいなかったが、派手な不良達がよく俺を取り囲み、俺に媚びを売る。毎日毎日、同じような日々だった。


幼馴染の葵と一緒に柔道を習い続け、ふたり揃って有段だった。けど俺にはスポーツマンシップなんて微塵もなく、窮屈になって辞めてしまった。葵も同時期に飽きがきたと言って道場を離れた。その後、葵はボクシングを習い出し、葵が習っているから、という理由だけでボクシングを始めた。そのボクシングもあれよあれよと良いところまで昇り詰めたが、一般人を殴るなと、ボクシング以外で人を殴るなという規則に違反して退会した。葵には殴られた。何やってんだよ、と。


でも俺にとっては喧嘩の方がうんと刺激的だったから仕方のないこと。だから殴り返して大喧嘩となり、葵の右眉に消えない傷痕を作った。葵だって一緒に他校と喧嘩した仲だったのに丸くなりやがって…。つまらない男である。


いつの間にか不良集団と呼ばれる陳腐な集団のど真ん中にいた俺は、高校を卒業して難なく大学へ進学した。"悪いやつら"との付き合いは全て綺麗サッパリ切って進学した。


だが入学当初から刺激のない日々を強いられ、毎日が苦痛で仕方がない。葵が一緒に卒業してくれと頼むから卒業だけはしようと毎日言い聞かせて通っていたが、淡々と生きるしかない俺は、どこか自分の人生なんてどうでも良くなっていたようだった。


人を殴る事もなく、殴られる事もない。ひりつくような空気を感じる事は皆無で、大学生活は生温い湯に浸かっている気分だった。勉強は無駄に出来たからそれがまた余計に日々の興奮を遠ざけていたのだろう。


繰り返される同じような日々に飽き飽きしていた頃、繁華街を歩いていると高校時代に不良集団と呼ばれていた陳腐なやつらと再会した。あいつらは見事に半グレになっていた。だが俺は丁度良いと思ってしまった。刺激のない日々にはとても喜々とした再会だと。


そいつらに誘われて麻薬に手を出した。悪いやつらとは縁を切ったはずなのだけど、俺はやっぱりそっち側の人間らしい。驚くほどあっという間に依存した。面白いように落ちて行った。幼馴染の葵は落ちて行く俺を必死に止めようとしたが無駄だった。何をしても効果がないと葵は落胆して諦めたろう。そこから葵とは連絡を取らなくなったし、俺も大学へは行かなくなった。


ほどなくして半グレになったひとりが、俺に用心棒をしてくれないかと頼んできた。麻薬の為の金欲しさに俺は引き受けた。そいつらは自分達の手には負えない相手だと判断すると俺を呼び、俺は相手が誰であろうと殴った。そいつらが止めるまで殴り続けた。殴った相手がどうなったかなんて知らないし、何で殴らなければならないのかも知った事じゃない。他人事だった。殴り倒せば金が貰えるし、金が手に入れば麻薬が買える。そうしているうちに大学は除籍となっていた。


ある日、いつものように呼ばれて出向くと相手は強面なスキンヘッドの男だった。



「斉藤、こいつもやっちゃってよ」



そう阿呆な半グレ共は簡単に言うが、その男、スーツにバッジを付けていた。それに小脇に抱えるクラッチバッグが膨らんでいる。集金の帰りなのだろう。半グレ連中はその大金を狙っているのだとすぐに分かった。厄介な事になりそうだと、その場で連中に断ると連中は目の色を変えた。脅し文句を呆れるほど沢山並べ、それでも断ると、ひとりが提案する。



「そういえば、新しいヤクが手に入ったんだ。よく効くらしいわ。お前にそれ、タダでやっても良いよ。もし、そこのデカい男をヤってくれんなら」



新しい刺激が貰えるならそれは得策だと、麻薬に浸された脳は考えたようだ。俺は拳を握った。


あんたには何の恨みもないけれど、俺の為に死んでくれ。


スキンヘッドの男を伸すのにさほど時間はかからなかった。顎に一発が決まれば後は簡単で、何度も何度も何度も顔面を殴り続けた。血みどろなソレを見下ろすと、「さすがにヤバいって!」と俺に発破をかけた男が勝手な事を抜かして止めに入り、連中のひとりが俺に見た事のない麻薬を押し付けるように渡すと、「お前もさっさと消えろ、やべぇよ!」と吐き捨ててその場を立ち去った。俺はことの重大さより新しい刺激に食い付いた。


それから約一週間後のことだった。金は尽き、麻薬も尽き、ふらふらと街を彷徨うように歩いていた。路地裏でひとり歩いていると、「見つけた」そう聞こえたと同時に、鈍器のような物で頭を殴られたのだ。あ、終わったな。素直にそう思った。


気付いた時にはもう別の場所だった。手足は縛られ、湿ったカビ臭いマットレスの上に寝かされていた。ぼうっとする頭で状況を理解しようと必死になって考える。周りを見回して分かる事は、そこは何処かの倉庫で、拷問器具のような道具が無数に置いてあるという事。殺されるんだなと結論付けた。ヤクザを敵に回せば、そうなるかと自嘲した。


俺の目が覚めた事に気付いた数人のチンピラは、途端に俺に無数の質問をしてきたがどれもこれも意味が分からなかった。あの宝石はどこへやった、とか、500万はどうした、とか。知らないと言い続けると殴られ、一枚、また一枚と生爪を剥がされ、悲鳴を上げても拷問の手は止まらなかった。痛みのせいか、それとも麻薬が切れた禁断症状か、手が震え出して何度か吐き、その度に汚いと殴られて質問責めにされる。それでも知らないものは知らなかった。そうして時間が経つうちに俺の意識は定まらず、死を覚悟した。何度か落ちて、その度に冷水を掛けられ叩き起こされ、どれほどの時間が経ったか分からないが数日は経っていたかもしれない。


そしてその日、ある男が倉庫にやって来た。高級なスーツに高級なコートを羽織って、髪を軽く後ろに撫で付けた背の高い男だった。倉庫にいた全員が「兄貴、お疲れ様です!」と頭を下げている。男の隣にはあの日、俺が殴ったスキンヘッド男がいた。顔にはガーゼが貼られ、頭には包帯が巻かれて痛々しい見た目だった。男が懐からタバコを取り出すと、咄嗟にスキンヘッド男がライターを出して火を点ける。男はタバコを深く吸い込むと、ふぅと吐き出して俺の方へ歩いた。男はA4サイズの紙が入るほどの茶封筒を脇に挟んでおり、それを俺の横にいたチンピラに手渡した。俺の顔をじっと見下ろしながら、チンピラ共に向かって言った。



「今日からこいつは俺預かりだ。縄、解いてやんな。新崎、こいつを後部座席に乗せてやれ」



あれ、死場所が変わった。そう思った。訳が分からないが、それはチンピラ共も一緒らしい。あたふたと、「でも、赤澤の兄貴、こいつは…」と何かを訴えようとして、赤澤の兄貴と呼ばれたその男にぴしゃりと制される。



「命令だ」



そうして俺はスキンヘッド男に担がれ、男は軽快に手をヒラヒラとチンピラ達に振り、くっと喉の奥で笑うと、「書類、ちゃんと読んどけよー」と背中越しに言うとその場を去った。後部座席で揺られながら、俺はいつの間にか意識を手放していた。


気付いた時、俺はソファベッドに寝かされていた。白い天井、窓から差し込む夕日、大型のテレビ、奥にはキッチンとダイニングがあり、誰かの家だという事がすぐに分かった。体を起こそうとしてふと気付く。自分から良い香りがする、と。あんなに血みどろで風呂にも入ってなかったのに…。だからだろう。どうやら洗われたらしかった。生爪が剥がされた数本の指には包帯が巻かれ、新しいTシャツと、オーバーサイズなジャージを履かされていた。ゆっくりと体を起こすと、「あ、起きた」と男の声が聞こえた。


顔を上げると、男は片眉を上げて俺に近付く。倉庫で見た時、男の髪は後ろに撫で付けられていたのと、他の連中が頭を下げていた事から相当年上だと思っていたが、髪を下ろしている男を見ると、それほど年齢は変わらないのかもしれない。だが男は体格も良い。圧があるから年下では絶対にない。



「あの、…俺は……」



状況が把握できずそう尋ねると、男は経口補水液と大きく書かれたペットボトルのキャップを外して俺にグッと突き出した。飲め、という事らしい。一口飲むと、甘さも塩味も体が欲しているらしくゴクゴクと一気に飲んでしまい、三分の一くらいを飲んだ後で、ふぅと一息つくと男は満足そうに笑いながらそのペットボトルのキャップを閉めた。



「急に倉庫で監禁と拷問されて災難だったな。ひとまず回復するまではうちにいろ」



「俺が、さっきあんたの横にいた男を殴ったから、ですよね…」



そう言って眉間に皺を寄せていると、男は俺の横に腰を下ろし、「少し違う」と首を横に振った。



「確かにお前が新崎を、あのスキンヘッドのこわーい男を殴った事がキッカケだったけど、あいつらがお前を拉致ったのはそれが原因じゃない。お前が連んでた半グレ連中は、うちの組員から何度も金を盗んだり、取引用の宝石盗んだりして、悪さを繰り返してたんだ。知ってたか?」



そうだったのかと、俺は首を横に振る。



「やっぱりな。お前はただの用心棒、何も知らされてなかった、そうだな?」



首を縦に振る。



「お前さ、あいつらの事を友達だと思ってたなら酷な事を言うが、あいつらはお前を売ったぜ。お前があいつらのリーダーだって、金を盗むのも、宝石を盗むのも、全部お前の指示だって吐いた」



「そ、そんな…俺は何も」



何がどうなってる。なぜ、俺が指示を出した事になってる。焦る俺に対して男は冷静だった。やれやれと肩をすくめ、やっぱりなと呟く。



「だろうなと思ったよ。あいつらはそれで難を逃れられると思ったんだろう。だがそのせいでうちの若いやつらはお前を見つけ次第、金と宝石の在処を吐かせる為にお前を拷問した。ま、お前は実際に何人も人を半殺しにしてるからなぁ。完全に無実ってわけじゃない。が、やってもいない犯罪の主犯という罪を着せられて殺されるのは違うよな? 俺が面倒見てやるから、しっかり回復して動けるようになるまではここにいろ」



男はニッと白い歯を見せるが、何故そこまでしてくれるのかと不思議で仕方がない。



「け、けど…」



顔を顰めると男は首を少し傾けて俺の腕にそっと触れた。瞬間、ドキンと心臓が妙に高鳴って自分でも驚いた。何をドキンと脈打たせてんだ。男はトンと人差し指で俺の左の肘裏にあるいくつもの注射痕を指差した。



「ヤク、やってるだろ」



男の目は途端に真剣になった。



「やめとけ。金で害を買ってるだけだぞ」



そう突然真っ当な事を言われて、途端に無性に腹が立った。そんな事は分かってる。でも仕方ないだろ。麻薬をやってる時だけは気持ちが楽になるんだ。こんなつまらない毎日を麻薬なしでどう生きろと言うんだよ。麻薬なしの生活なんて考えられない。それに否定するあんたはヤクザだろ。俺に麻薬を売ってんのはあんたらだろうが。そう次から次へと感情が溢れ、綺麗事を吐き出した目の前の男に対して、とてつもない怒りを感じた。


あんたに俺を否定する資格なんてないだろうが。



「けど、あんただってヤクザだろ。俺が買ってる麻薬だって、あんた達ヤクザが売ったもんだろ! そうだよ、あんた達があの麻薬を売らなければ、俺はハマってなんかなかった。あんた達のせいだろうが!」



言い掛かりだろうが、麻薬がない不安が突然自分を襲った。怖くなり、腹も立ち、気付けば上体を起こして男に掴み掛かっていた。だが男はその手首を掴み、俺の目をじっと見つめた。



「ハマってなんかなかった、って事は後悔してんじゃないの。麻薬の刺激なんていっときばかり、分かってんだろ」



「綺麗事ばかり並べんじゃねぇよ」



苛立った。男の事なんてすぐに伸せると思った。だが、殴ろうとした俺は気付けば天井を見ていて、かちり男と目が合う。



「お前が丈夫なのは分かったけど、つい数時間前まで監禁されて殴られてたんだぞ。落ち着け」



腕を纏めて頭上で固定され、俺は今の状態では絶対に勝てるはずがないのに、喚いて、殴ってやろうと必死になった。もう麻薬の事しか頭になかった。俺からあの刺激を取り上げるなら、こんなペテン師、殺してやろう。あんただって麻薬で金儲けしてんだろうが。何が金で害を買うなだ。ふざけんな。



「離せ…っ、あんただって、俺が落とした金で良い思いしてんだろうが!」



男は冷静で顔色ひとつ変えず、諭すように口を開いた。



「うちはヤク御法度。お前が言う通り俺は確かにヤクザだがヤクで商売はしてない。関東船木組直系葉山組、覚えておけ。俺達が管轄してるシマじゃヤクは売ってねぇ、…と言い切りたいが、お前が怒り狂うのも分かるよ。お前が買ってたのはうちの組のシマだ。おかしな話だよなぁ。調べたら別の組のチンピラがうちのシマで堂々とヤクを捌いてた。それも上には内緒で。そいつらには痛い目見てもらって、うちのシマには二度と入って来ない。まぁ、だから信じてほしい。俺の組はヤクで商売しねぇし、俺はお前にしっかり中毒から抜けて欲しいと思ってる」



男が俺の事を心配してる言葉の数々は耳に入らなかった。理解できるのは、もう麻薬が手に入らない、という焦りばかりだった。



「……じゃぁ、どこで、どこで…」



どこで刺激は手に入る? そう訴えようとした俺の目を見て、男は全てを悟ったように口を開いた。



「もうやめろ」



「どうしよう……、無理だ…」



男は俺の肩を掴むと、しっかりと目を見つめて正面から言葉をぶつけた。



「お前は強い。死に急いじゃいけない。死に急いじゃいけないな」



男はゆっくりと俺に刻み付けるようにそう言葉を吐いた。



「苦しいだろうよ。辛いだろうよ。けど今、やめなきゃならない。俺がついてるから、側にいるからもうヤクはやめろ。良いな?」



途端に体の力が抜けた。ゆるゆると、抵抗する気力がなくなった。



「……断ち切れる…かな」



「お前なら断ち切れるよ。俺がついてるから」



俺がついてるから、その一言が何よりも自分を救った。この人がいれば大丈夫。そうか。大丈夫なんだ…。


不思議なものでこの人の側にいると、なぜか本当に断ち切れる気がした。麻薬に依存せず、この世界で生きてみようかと、いつもどこか生きる事に執着がなかった俺が生きたいと、不思議にも思った。



「……分かりました」



諦めたようにそう吐くと、男は心底嬉しそうに笑ってくれた。



「よし、よく言った! じゃぁ、まずは飯でも食おう」



男が頬を緩めると、途方もなく温かい気持ちになった。すっかり満たされてしまうような、絆されてしまうような。



「あの、名前…聞いても良いですか。何と呼べば良いのか…」



「あぁ、悪い。そうだな。俺は、葉山組若衆頭の赤澤 邦仁だ」



「邦仁、さん。俺は、斉藤 楓…です」



「ふふ、実は知ってる。お前の身分証、確認済みだから」



「あ、え? そうなんですか…」



「悪いな、色々と探らせてもらった」



「いえ…」



「ひとまず今日は休め。あ、新崎がお前用に鶏粥作って行ったから、それ食うか」



「はい」



それが邦仁さんとの出会いだった。その部屋で生活している間、何度か麻薬の禁断症状を起こした。でもその度に側に付き添って、大丈夫、と言い聞かせてくれた。ひどく寝付けない時も、怒りがコントロールできなくなって苛立って八つ当たりしても、邦仁さんは決して俺の事を見放さなかった。麻薬の依存から脱するまで相当な時間が掛かった。それでも邦仁さんはずっと側にいて俺を救ってくれた。


だからその恩に報いたいと思うのは当然の事だったように思う。俺がこの人の為に生きようと考え、この人の為に死のうと決めるにはそう時間は掛からなかった。邦仁さんから盃を貰うまでそう時間は掛からなかった。


なのにどうしてだろう。どうして、あなたは俺の側から消えてしまったのだろう………。



「…してる最中に別の事、考えんなよ」



「あ? …お前に、…っ、関係ないだろ」



「関係あるだろ。ぼーっとしやがって、腹立つな。…なぁ、もうヤクザ辞めろよ」



「…っ、しつこいぞ、お前」



「だって心配なんだ。辞めてほしい」



「…っ…言ってる、こと、と…っ、やってる、こと……矛盾してる…。俺に情報を…流しておいて、…心配だって、言ってんじゃねぇ、よ…っ」



「お前が欲しいって言うからだろ」



卑猥な水音、肌がぶつかる乾いた音、奥を抉られながら早く葵が満足してくれないかと願っていた。ヤる時は決まっていつも葵の家だった。背後を取られて腰に手を回され、テーブルに片膝を乗せ、両手を滑らせて頬をテーブルに押し付ける。葵は俺のシャツを捲るとじっと背中の墨を見下ろしているようだった。俺がヤクザだという事が、そして今、組長にまでのし上がった事がこいつは心底気に入らないらしい。



「いつ見ても禍々しいな」



「うるせぇな……っ、良いからさっさと、イけよ…」



「なぁ、いつも思うけど、これ何々なの、麒麟?」



葵はゆっくりと抜き差ししながら、そう指で墨を撫でた。俺はその言葉につい頬が緩んだ。そうだな、そう間違われたいからこそ、これを入れたのだ。



「……お前に関係ない」



「あ? 何それ。ひどいな」



まぐわう事はただの行為でしかなかった。繰り返されるただの性処理とでも言うべきか。気持ちの良い事は好きだが満たされない性行為はただの処理。引き換えに得られる物は有益で、その為だけにただ交わるだけ。その為の対価としては都合が良かった。


幼馴染の葵に情がないわけじゃない。むしろ人にあまり興味のない俺だけど、葵は好意を待つ数少ない人間のうちのひとりだった。付き合っていた事もあった。大学時代のたった一ヶ月間だけ、だけど。俺が刺激を求めて麻薬に依存して疎遠になったが、今はこうして情報の為にまぐわい続けている。腐れ縁、というやつだろう。


だがこの腐れ縁はあまりにもずるずると、腐り切っているのかもしれない。


この世界に入って数年後、葵とは偶然に再会した。葵は大学卒業後、無事に警官になっていて、ある交番の前に立つ葵と鉢合わせした。葵は俺を見るとギョッとしたように目を見開き、勤務中にも関わらず俺の腕を掴み、今までどこへ行っていたのか、今は何をしてるのか、そして会いたかったと、次から次へと言葉を吐いた。片眉が上がった。俺は腕を振り解いて人違いだとその場を後にした。その時、一緒にいた邦仁さんは警官とお友達かと揶揄うように笑ったが、信用を失いたくない俺は、首を横に振り、人違いですと嘘をついた。が、邦仁さんにはバレていたろう。そうか、と優しく笑っていた。


それから数週間後、葵は俺の自宅を突き止める。都内にあるマンションの一室をノックした男はきっと職権濫用したのだろう。葵は俺を一発殴ると、なぜヤクザなんかやってるんだと問いただした。呆れた。なぜお前に関係があるのか。説明するのも面倒だった。そもそも勝手に人の家に入り込んで来て説教を垂れるとは何様だ。追い出しても追い出しても度々家を訪れてくる葵に、俺は嫌気がして居留守を使うと、翌日、組事務所の前に葵の姿があった。もはやストーカーだった。


組事務所には来るなと伝え、渋々自宅への訪問を許したがこいつは警官だろ。ヤクザと連んでいたら首が飛ぶだろうに馬鹿なのだろう。それからほどなくして葵は忙しくなったと、訪問は月に一度、そのうち三ヶ月に一度と頻度は落ちていった。翌年、葵は大量の酒と共に俺の家に訪れてバッジを見せた。組対の刑事になった! と満面の笑みで俺に報告してきたのだ。やっぱりこいつは馬鹿なのだと、その時心底思った。葵は言った。道警に異動になるから、しばらくは会えないと思う、と。


俺は正直安堵した。いよいよ一緒にいる事がマズイ関係なのだから、どこかへ行ってくれた方が良い。葵は自身の昇進祝いだと酒を飲み、昇進祝いをくれと俺に強請り、俺はそんな葵を見ながら良い厄介払いが出来たとその時は感じた。だから最後の望みとやらを聞いてやろうと頷いた。何を望んでくるかは大方予想がついていたのに、いいよ、と。


その一週間後、葵は道警へと異動した。同時期、うちが五分の盃を交わしている札幌の勝田組で揉め事が起きていた。内部に潜入の警官がいるかもしれないと揉めに揉めていたのだ。俺にコネがある事を見透している邦仁さんは『悪いが、勝田組長の相談に乗ってやってくれないか』と残酷なお願いをする。あなたの側を離れたくない、そう我儘が言う事ができればどれほど良かったか。


でも邦仁さんの命令は絶対だ。この人の願いを叶える為だけに生きている俺は即座に頷いた。


勝田組長にあーだこーだと言われながら仕事を進める。他の組員とも話して内部で調査も進めた。だが何ひとつとして怪しいやつもいないし、手掛かりになりそうな物もなかった。手詰まりだった。邦仁さんの為にこの問題を解決したかった。よくやった、そう褒めてもらいたい。だから俺はあいつの携帯を鳴らした。相手に今から会えないか、と。そこからズルズルと関係が出来てしまった。情報が欲しい時は葵を頼り、見返りとして乳繰り合っては説教を聞く。葵は言い続ければいつか俺は足を洗うと馬鹿な事を思っているらしい。


月日が流れて葵は東京に戻って来て、頻繁に会うようになった。関係は更にずぶずぶと深まっていった。それがいつかあの青木とかいう腹の立つ男によって、葵は脅しの種になったが葵は葵。あいつの命と邦仁さんの命を天秤に掛けろなんて言われれば答えは簡単で、それくらい俺にとって邦仁さんは大事だった。



「なぁ、なんでお前ってそこまでヤクザに拘るんだよ。お前、向いてないと思ぞ」



向いてない男が葉山組のトップを取るかよ。お前がブチ込んでる相手、誰だと思ってんの。本当に無神経で腹が立つ。



「楓、…あの頃、お前に何があったんだよ」



「あ、のさぁ……セックスしてる最中に、…喋んなって…っ、ん、…いつも言ってるよな…」



「良いだろ、別に。お前には情報渡したし、このセックスは俺への対価だって言うなら、俺の好きなようにさせろよ。な、もう良いじゃん。言ってくれない?」



「ホント、萎えるな」



「だってお前、終わったらすぐ帰るだろ」



「……当たり前、だろっ、も、…さっさとイけよ」



俺は忙しいんだと眉間に皺を寄せていると、葵は後ろから強く俺の体を抱き締め、首に腕を回して背中を密着させた。奥の更に奥深くを刺激され、変な声が漏れる。葵は「好きだよ」と呆れるほど何度も聞いた言葉を耳元で囁いた。こいつも早く、他に好きな人を見つけてくれりゃぁ良いのに。いや、俺が側にいるから出来ないとか言い出すかな。


でも俺にとってこのコネは必要だから、手放してやる事はできないか。こいつが望む言葉も関係も何ひとつ叶えてやる事はできない。俺はこの世界で生きると決めたのだから、お前の世界には行けないし、悪いが行きたくもない。



「イ、く……っ」



葵はそう呟くと後ろから俺の首筋に噛みつき、その痛みでつい体が力んでしまう。どろどろと熱を吐き出し、食卓テーブルが白濁で汚れてしまった。まぁ、葵はそんな事、気にしないのだろうが。



「あれ、イった? 珍しい。…ふふ、良かった」



体の相性は悪くはないが決して良くはない。対価なのだから俺が満足する事は永遠とない交わりに、俺は心底飽き飽きしていた。葵は噛みついた箇所に甘くキスを落とすと中から自分のそれをずるりと引き抜き、そそくさと服を着直す。


近くに置いてあった壁掛けの鏡を覗くと首筋には噛まれた痕がくっきりと残っている。俺は舌打ちをした。葵はテーブルを拭きながらヘラヘラと笑っている。服を着直していると葵はまた後ろからぎゅっと抱き締めた。「まだ帰るなよ」そう再び首に顔を埋める。


どうしてこうも温度差に気付けないのだろうか。お前が望む関係は永遠と成就しないと言うのに。俺はその腕を振り解き、書類を手にしてヒラヒラと手を振った。葵の舌打ちが聞こえた。


シャワーを浴びてから出て来た方が良かったなと口を歪めながらエントランスまで歩いた。駐車場には、涼司が外に出てタバコを吸って待っていた。邦仁さんの運転手兼用心棒は、今や俺の運転手兼用心棒だった。涼司は視界に俺を留めると、ハッとしたようにタバコを消して携帯灰皿に押し込む。



「お疲れ様です」



頭を下げながら後部座席のドアを開け、俺は「ありがと」と礼を言って乗り込んだ。



「事務所、戻りますか」



「一旦、家に戻ってもらって良い?」



「分かりました」



涼司は心地良い。俺が何かと出入りするあのマンションに誰がいるかも聞かないし、どれだけ長居しても何も聞いてこない。いや、もしかしたから粗方想像は出来ているから何も聞かないだけかもしれないが。しばらく車を走らせてマンションに着くと、俺はそそくさと降りた。



「シャワー浴びて着替えたら戻る」



「分かりました。駐車場にいます」



涼司と別れ、オートロックのエントランスを解除して部屋に戻り、書類をテーブルの上にポンと置いて服を脱ぐ。少し冷たいシャワーを頭から浴びながら、ふと目に留まる浴室の鏡。嫌でも首筋の噛まれた痕が目に入った。誰にも渡したくないと主張されているようで溜息が漏れる。他にコネを探すのは今更か。警察のコネなんてなかなか掴めないだろうし、どうしたものか。


でもあいつの行為はどんどんエスカレートしている気がして俺は口を歪めた。悪いやつじゃないんだけど、ただ、世界が違うという事を理解していない。あの行為は情報に対する金と同じ意味しかない事も、あいつは理解していない。


参ったなと頭を掻いていると、粘質な白濁が太腿を伝い、足首まで落ちてシャワーの湯に流されていった。必ず中に出すのも良い加減やめてほしい。そう心の中で舌打ちを鳴らしながら後ろに手を伸ばし、いつものように中を掻き出す。そのまま体を洗い、頭を洗い、顔を洗う。スッキリした所で濡れた髪のままセットした。少し伸びた前髪は目の下まである。バタバタしていたけど、髪を切りに行かないとなぁと考えながら、いつものように髪を乾かしてセンターパートで軽く固めて、新しいスーツに着直した。寝室の衣類を仕舞う箪笥の上にはいくつかのアクセサリーが置いてあり、若干埃を被っていた。昔からプライベートでは割とアクセサリーを身に着ける方だったが、組長になってからは指輪すら着けていない。きっりと首元までボタンを閉じ、ネクタイを締めてジャケットを羽織り、出番の無くなったアクセサリーを横目に部屋の電気を消す。文字通り体を張って得た情報が入ってる書類を片手に部屋を出た。


エントランスに出た俺の姿を確認すると、涼司は車を出して目の前に停車させる。この後はある人と老舗料亭である橘園で食事をする事になっていた。時刻を確認して部屋に入るが、まだ相手は来ていなかった。ホッと胸を撫で下ろして席に着くと、廊下から足音が聞こえて軽く緊張する。



「お連れ様がお見えになりました」



仲居に通された男に、俺はつい癖のように身構えていた。



「ご無沙汰しております」



頭を下げると男はクスッと笑う。



「一年振りですか。たった一年でそれらしく見えてくるものですね」



「ありがとうございます」



相手はあの松葉のカシラである。邦仁さんにやたら固執していた森鳳会のイカれ野郎。とは言え今ではすっかり大人しいものだった。それもこれも、多分、邦仁さんがいなくなったからだろう。「まずは一杯しますか」と席について早々、互いに冷酒を注いで乾杯を済ませる。くっと飲んで喉を焼く。松葉のカシラはきっと和食好きで日本酒も得意なのだろうが俺は大の苦手だった。飲めない事はないが、酔いがすぐに回るからあまり普段は飲まない。付き合い程度に飲もうと考えながら、早速ですがと書類を渡す。



「あぁ、コレ。ありがとうございます。助かります」



「いえ。それで例の件、手打ちで宜しいですか」



「えぇ。馬鹿な部下を持つと散々ですね」



部下を馬鹿にされるのは腹が立つ。が、これが松葉という男だというのは邦仁さんとこの人の付き合いを知っていれば分かる事だった。



「申し訳ありません」



こちらに非がある事だったから、松葉のカシラの煽りを流して謝ると松葉のカシラは片眉を上げた。



「つまらない。もっと食って掛かってくるかと思ったのですが」



「……食って掛かれるわけありません」



「そう? 前の君だったら、ガルルルって牙を剥き出してたろうに。やっぱり、赤澤がいないと牙も抜けましたか。守りたいもんがいなくなって、魂持って行かれましたか」



「いえ、そんな事は…」



あるよな。そう思った。松葉のカシラはもちろんそれを分かってる。俺がどれだけあの人を慕っていたのかも、あの人が消えた時、どれだけ苦しくて悔しくて荒れていたかも、この人は知っている。



「斉藤君、いえ…斉藤組長って言った方がいいかな」



「いえ、いつも通りで結構です」



「じゃぁ、斉藤君。あいつがいなくなって、一番苦しいのは君なんだろうなと常々思います。でももう主人は帰りません。何でもかんでも卒無くこなしているようですが、身に入ってないでしょう。そのままだといつか足元を掬われますよ。気を付けて」



いつまでも泣くなよと言われた気がした。この人の前ではもちろん泣いた事などないのだが、確かに毎日のように悔しくては涙が溢れていて、それは今でも時々起こる事だった。会いたいと叶わない願いばかりを願ってしまうのだからどうしようもない。



「ご忠告痛み入ります」



頭を下げると松葉のカシラはふっと笑う。



「そうだ、この前、君の用心棒を繁華街で見ましたよ」



「涼司、ですか?」



仕事だろうか。繁華街へ何をしに行ったのだろう。そう疑問に思い眉を顰める俺に、松葉のカシラは酒をくっと飲んで答える。



「そう。背の高い、体格の良い子。格好の良い若い子ですよね。女の子と腕を組んでましたよ。堂々と腕を組んでデートするなんて若いなぁと感心しました。いかにもモテそうでもんね」



へぇ、あいつ、女いるんだ。まぁ、いるか。いるよな。あれから何年経ってんだって話しか。俺は冷酒を一口で飲み干して頷いた。



「良い男です」



そうか。……女、できたんだなぁ。松葉のカシラはじっと俺を見ると、ふふっとおかしそうに笑いながら腰を上げた。もう帰るのかと俺も急いで腰を上げると、そのままで良いですと椅子に座らせられる。



「さて、俺はこの後用があるので先に出ます」



「え、は、はい…」



松葉のカシラは襖を開け出て行く瞬間、俺の瞳をじっと見てゆるりと口角を上げる。



「赤澤が守ってたあの組を更に大きくして下さい。いつか、あいつの耳にも入るほどに」



………え? 今、何と言った。一瞬にして時が止まった。少し遅れて鳥肌が立つ。涼司の云々が、一瞬にして飛んだ。



「それ、って…どういう、」



「あ、飯はふたり分ありますので、ちゃんと食べて下さいよ。残すのは宜しくありませんから。それじゃ」



「待って下さい、松葉のカシラ…」



松葉のカシラは上を指してにやりと笑う。



「あの世にいるあいつの耳に、ね」



トンと襖が閉じられた。俺は呆然した。どういう意味だ。まさか、いや、そんなわけない。肯定をしては否定をし、松葉のカシラの言葉を何度も頭の中で繰り返す。だって何の為に…。


でももし邦仁さんが生きているのなら。もし、邦仁さんが死を偽造しただけなら。そう考えが行きつくと体が固まって動けなくなり思考が停止する。まさか、まさか……。動揺していると襖が開けられる。ふと見上げるとゴツくてデカい男が、鴨居部分に頭をぶつけないように頭を少し下げてのそっと部屋に入って来た。



「何ぼーっとしてんすか」



涼司は中腰に腰を折ると目線を俺に合わせてそう訊ねる。何を答えて良いかも分からない。頭の中は邦仁さんでいっぱいで、俺は唇を噛み締めた。生きているならそれで良い。会えなくたってそれで良い。確かに本音を言えば、あなたにもう一度会いたいし、もう一度話したい。でも生きていて幸せなら、それで良い……。



「え、兄貴、」



そう自分を納得させると、気付けば涙が溢れていた。次から次へと、とめどなく涙が流れ、涼司の前で泣いてしまうなんて不覚だと必死になって涙を拭う。



「わ、悪い。…泣くつもりじゃ、ないんだけど」



涼司は見た事もないくらいあたふたと焦っていて、そりゃそうかと申し訳ない気分になった。



「ど、どうしたンすか。え、松葉のカシラに何か言われたンすか」



「言われてない。違う、違うんだ。…酒、飲みすぎて、ちょっと泣上戸になっただけ」



涼司は眉を下げると大きな体でそっと俺の頭を抱く。ポスッと涼司のシャツに顔が埋まり、涼司の爽やかな少しスパイシーな香水の良い香りが鼻腔をくすぐった。昔と変わらない香りだった。



「泣いて、良いすよ。好きなだけ。今しか、ないですもんね」



「……バカ、泣いてねぇよ」



「泣上戸になったって言ったじゃないすか」



「揚げ足を取るな。腹立つな」



「すんません。つい、ね」



涼司の大きな手が頭を包むように撫でる。途端に心も体も温かくなるようだった。何してんだろ、俺。心配かけちまったな。



「め、めし…食うぞ」



でも今じゃ俺は組の頭。いつまでも部下の胸を借りて泣いている場合ではない。涼司の胸を押し返して退けろと目で訴えると、涼司は何も言わず体を離し、松葉のカシラが座っていた席に腰を下ろした。



「で、なんでお前がここにいるの」



「松葉のカシラが、兄貴が呼んでるからって」



「……そうなのか」



「で、何すか。何用でした?」



「あ、いや、松葉のカシラが用事あるって言うから。飯、余っちまったから…」



もちろん俺が呼んだわけではない。松葉のカシラが勝手に呼び付けてしまったが、それは敢えて言わない。



「え、これ、食べて良いンすか」



「あぁ。食べろ食べろ。勿体無い」



「あ、でも椎茸は要らないです。兄貴、食べますよね」



「……相変わらず食べれないの? お子ちゃますぎんだろ」



「まぁ、嫌いな物は嫌いですからね。はい、どーぞ」



移された椎茸を見ながら、こいつの変わったところ、変わってないところを思い返していた。まだ俺の知っている涼司だと思うとなんだか嬉しくて、こうしてふたりで飯をつつくのは、本当に久しぶりの事だと頬が緩んだ。いっとき、こいつとよく飯を食い酒を飲んでは騒いでいた。涼司がまだ組に入ってきてすぐだったろう。こうして他愛もない話をしていると、嫌でもあの頃の事を思い出してしまうようだった。


だから思い出すべきじゃないと、つい飲み慣れない日本酒を飲み過ぎたらしい。



「だからさ、…ぜーんぶ、あの青木が悪ぃんだよな」



「間違いないっすね」



「だろ? 邦仁さんってあーいう女狐タイプが好きだったのかと思うと悔しいよ」



「兄貴って本当にカシラの事好きっすよね」



「バカ、カシラじゃない、オヤジだ」



「あ、つい。赤澤のカシラで言い慣れてしまったんで」



「あーあ、…青木が全部掻っ攫ってた。しかもあいつに命助けられてるってのがすごく癪」



「感謝しないとですね」



「するわけねぇだろ。…はぁ、邦仁さんに会いたいな」



「……兄貴、飲みすぎです。もう帰りましょうか」



「帰りたくねぇなぁ」



「ダメです。明日も事務所に行かなきゃならないんすから」



「んだよ。じゃぁ、家飲み付き合えよ。お前一杯も飲んでないだろ。それはつまらない」



「そりゃぁ運転あるんで。でも家飲み、良いっすよ。兄貴の家で良いっすか」



「良いよぉ。あといい加減、俺の事オヤジって呼べよ。俺、組長だぞ」



「えー、兄貴は兄貴じゃないすか」



「いや、斉藤組長だ」



「はいはい、組長、行きましょう」



呆れ顔の涼司を見上ていると、本当に昔に戻った気分で楽しくなった。



「家に着いたら良い酒あるから飲もうなぁ? お前、スコッチ好きだったもんな?」



「…はい、覚えててくれたんすね。飲みましょう」



涼司は可愛いやつ。そう思っていたが、一時間後、可愛いと思っていた男に牙を剥かれた。



「お前も歳取ったよなぁ。良い感じに男前になったよ」



「……口説いてます?」



「そんな風に聞こえんの?」



スコッチを空のグラスに注ぐと、涼司はふっと笑った。



「結構酔ってますね?」



「酔ってるよー。なんだか凄く良い気分。…なんでだろ。嬉しいのかな」



こうして涼司と飲める事が素直に嬉しいと思ってしまった。ダメだな。年かなと、ふわふわする頭で涼司を見つめると、涼司はクイッとストレートのスコッチを飲み干した。



「何か良い事あったんすか」



酔っているからだろうか、俺は涼司が欲しがる言葉をぽろりと漏らす。



「お前とこうしてまた飲める事がね」



男に牙を剥かせたのは俺だったか。涼司の頬が赤くなるのをじっと見つめた。ローテーブルの角を挟んで互いに座っていたが、俺はそっと涼司の股間に足を伸ばし、悪戯に笑ってやると涼司の中で何かが切れたようだった。



「あんたって、昔からそういうところありますよね」



熱を帯びた涼司の顔を見上げながら思った。喰われる、と。にやりと口角を上げて涼司の頬に触れると、涼司は猫のようにその手に擦り寄り、チュッと軽く音を立て、寄せた掌にキスを落とした。涼司の瞳をじっと見つめて口を開く。



「涼司…」



「はい」



「お前、浮気は良くないよ?」



「は?」



「あーでも何からが浮気なんだろ。処理だけなら浮気にならねぇかな」



「言ってる意味がよく分かんないすけど…」



「ね? 処理は浮気に入らねぇよな」



誘うように啄むように唇を重ねた。漏れる微かな吐息を感じながらひたと思う。今、改めて一線を越えてしまえば戻れないのではないかと。でも口付けを交わしてしまえば無性に涼司を独り占めしたい気分になった。身勝手だ。そうして昔、涼司を振り回して傷付けたのに。また繰り返すのだ。少し唇を離すと、涼司の熱い視線が俺の瞳から唇へと流れ、またどちらからともなく甘く舌を絡める。腕を伸ばして首に巻きつけ、貪るように熱い息を交わらせると唾液が溢れた。懐かしいと、体は覚えていた。ぐずぐずになるまで抱き潰されて、体の芯から火照る感覚を思い出しては涼司を求めた。



「……やっぱ、すげぇ体の相性良いよな?」



下腹部が疼いて体中が熱くて、何度も熱を吐き出してもまだ足りないと欲に駆られる。あまりにも甘すぎる時間に目眩がした。涼司の触れ方はあの時と何ひとつ変わってなかった。全てを喰いつくそうとする獣のようでいて甘美だった。乱暴に触れるような男だと思っていると、優しく、甘く、人を壊れ物か何かだと思ってるように柔らかく触れる。


何度目か熱を吐き出し、ぼうっとしながら腰を抱かれていると、涼司はそっと背中に触れた。背中にいるそれの縁を指でなぞっているようだった。



「兄貴……生きてます?」



奥をゆっくりと擦りながら、余裕のある涼司はそう訊ねた。



「生きて、…る…。なに、…どうした?」



「これ、ずっと思ってたんです。何かなって。麒麟かなって思ってたんですけど、少し違いますよね」



こいつには言っても良いと思えるのは同じ世界にいるからなのか、それとも……。



「[[rb:獬豸 > カイチ]]、麒麟とよく、…っ、間違われるけど、別…の、霊獣…っ、……涼司、イきそ…」



「イって良いすよ…。俺ももう無理そうだし」



「ん……っ」



奥深くに感じた熱に充てられてクラクラと余裕は何もない。ひどく甘すぎて俺には少し怖いくらいだった。その甘さを持て余しては、またきっと、こいつを傷付けるのだろうか、それともこいつにとって俺は処理にしかすぎないのか。いや、もしそうならそれが良い。…それが。


脱力しきった俺を見下ろすと、涼司は軽く首筋にキスを落とした。そこには葵がつけた歯型がまだ淡く残っているのに、どういうつもりだろうかと思ったがそのまま目を閉じる。涼司は特に何も言わず、昔と同じようにベッドの端に腰を下ろした。タバコは吸わないらしい。



「今でも好きです、兄貴の事」



ただの処理だと、こいつの中で飲み込んでくれればな。またまぐわう理由にでもなったろう。


けれど今の俺には答えられない。俺はその言葉を聞かなかったふりをした。また、繰り返す。また。涼司だって女がいるのだから関係を望んでるわけじゃないのだろうし、俺だって関係を望んじゃいない。俺が頭を張り、これからって時だ。邦仁さんの為にも踏ん張らないといけない今、弱味を作ってる場合じゃない。だから俺は何も答えなかったし、なかった事にした。



「涼司、…すまない、昨日の事、まじで覚えてないんだけど…もしかして、一線超えた? 俺、お前に手ェ出した?」



そう翌朝伝えると、涼司は明らかに顔を強張らせ、そして悲しそうに表情を落とした後で、怒りを堪えたようだった。



「いえ、…何もありませんでした」



何もなかった、そうするしかないのだ。それからというもの、互いに何もなかったかのように過ごした。仕事は順調だった。大きな躓きもなく、日々は淡々と過ぎていった。


だがそれから一ヶ月が過ぎて事件は起きた。最初は葵からの連絡だった。会えないか、という連絡を何度か無視していたが、その日は様子が違った。会って話したい事がある、今すぐ会えないか、という文面に変わっていた。時間がないと断ると葵は電話を掛けてきた。面倒なやつだと電話に出なかったが、再度メッセージが送られてくる。


『狭山 涼司についてだ。連絡待ってる』 


どういう事だと葵に電話をすると、今すぐうちに来れるかと訊ねられ、分かったと返事をしてすぐに向かった。道中、涼司の運転だったが、もちろん涼司に何か心当たりはあるか、なんて聞けなかった。着いて早々、葵は脱げと命令した。



「あ? ヤりに来たわけじゃねぇよ」



「知りたくないのかよ。なんで刑事の俺が狭山 涼司の事を知ってるか」



葵は俺が急いで駆け付けた事に何かを勘繰って、勝手に苛立っているようだった。頭を掻き、溜息を漏らす。警察にお世話になるような事を涼司がしたというのだろうか。でもあいつは四六時中、俺といるはずだ。だとしたら、何故、葵があいつの事を…。



「情報の対価はセックスなんだろ? さっさと脱げよ」



「お前なぁ…」



「狭山 涼司、殺人の容疑が掛かってる」



「あ?」



訳が分からない。なんでそんな事になってんだよ。いや待て、誰を殺した? 組関係で最近トラブルなんて起きてたろうか。いや…。



「誰が殺されたんだよ」



「だから、脱げって言ってんだろ」



葵は短い髪を掻くと気怠そうに命令した。こいつ、本当に…。舌打ちを鳴らし、ジャケットを脱いでシャツを脱ぐ。ベルトに手を掛けてスラックスを下ろし、ボクサーパンツだけになると葵は「下も」と無表情に言った。なんだか腹が立った。従わざるを得ない自分自身にも、俺を離す気のない葵にも。



「ほら、テーブルに両手つけよ」



両手をつくと、まだ慣らしていないそこにローションを垂らし、何言わずに一気に奥を突かれる。短い悲鳴を上げると葵の舌打ちが聞こえた。その時、ぼうっと考えていた。もう、終わらせるタイミングなのかもしれない。この涼司の件を聞いたら終わりにしよう。こいつがこんな風に俺に執着し続けるのは、俺がいつまでもこいつを離してやらなかったからだ。…俺の責任、だ。もう離してやろう。もう終わらせよう。そう卑猥な音を聞きながら決心した。


葵は怒りを俺にぶつけているようだった。何度も、何度も。それで満足なのだろうかと奥を突かれながら考えていると、急に葵は動きを止めた。はぁ、と溜息を吐くと、ずるりとものを出して服を着直す。怪訝な顔をして葵を見ると、葵の瞳にはまだ怒りが篭っていた。



「萎えた」



「あ?」



「萎えたっつってんの」



「……なんなんだよ、お前」



「こっちが聞きてぇよ。何度も何度も連絡してんのに返事もしない。けどその狭山って組員の事になるとすっ飛んで来て、こうして簡単に抱かれてさ。…萎えたよ」



「萎えるのは勝手だが、涼司の事、教えてくれんだろ」



俺はそう言ってボクサーパンツを穿くと、葵はキッチンで水を飲み、冷めた瞳を俺に向けた。



「警察が狭山を任意に掛ける。抵抗はするなと伝えておけ」



「あいつが誰を殺したってんだよ。四六時中、俺の警護をしていた男だぞ。誰を殺したと…」



「それは言えないね。ただ、逃そうなんて考えんなよ」



「ヤクザは一度捕まっちまえば理由は何でも良い、拘留は最長まで引き延ばされて吐かされるだけだ。なぁ、誰が殺されたってんだよ」



「お前、何でそんなに必死なの」



葵の物静かな声色に腹が立った。必死にもなるだろ。なんで、涼司に殺人の容疑なんてかけられてんだよ。



「あいつは俺の用心棒だぞ。付き合いも長い、あいつにはいてもらわなきゃ困ンだよ」



そう語気を強めて言うと葵は鼻で笑った。



「組員に手ェ出してんのかよ、呆れるな」



「あぁ?」



「好きなのか、そいつの事」



「お前さ、俺の質問に答えろよ」



「質問に答えて欲しいなら答えろ。その涼司って男、好きなの?」



「だから……」



「言えよ」



「…組長と組長付き、運転手兼用心棒だ。特別な感情はねぇよ。ほら、言ったろ。そっちも答えろよ」



「あいつは今駐車場に?」



「葵、」



「答えろ」



「いるよ。だから良い加減、お前も俺の質問に答えろって」



服を着直し、ネクタイを締めながらそう圧を掛けると、葵はじっと俺の目を見つめながら、携帯を取り出して、どこかに電話を掛ける。



「…狭山 涼司、今、駐車場にいます。間違いありません」



ひやりと悪寒が走る。俺は一目散に部屋を飛び出した。エレベーターを連打するが、三機あるそれは最上階に停まっており時間が掛かりそうだった。苛立ちに舌打ちを鳴らして非常階段を降りる。息を切らしてエントランスに転がるように飛び出して駐車場に走ると、数名の私服警官らしい男が涼司を取り押さえていた。



「涼司!」



駆け寄ろうとするが距離があった。涼司は動揺していた。



「兄貴、…兄貴ッ!」



黒いバンに押し込められ、俺が駆け寄る前に黒いバンはエンジンを掛けてその場を離れる。心臓がバクバクと騒がしい。何がどうなってる? 一体、どういう事なんだ。なんで、どうして…。

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2024年12月19日 17:00

獬豸を喰む白虎 Rin @Rin-Lily-Rin

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