5ページ 火花、胞子、そして不器用な社交



翌朝は小雨で始まった。寮の窓を軽く叩く小さな滴の音が心地いい。遠くからは上級生たちが塔の教室で高度な魔法を練習しているのか、微かに呪文らしき響きが聞こえてくる。背伸びをしながら、僕は光るルーン文字で照らされた部屋で目覚めることに、いつの間にかすっかり慣れてしまったことに気づいた。スマホの画面を見て起きていた昔の生活は、今では曇りガラス越しに見る風景みたいに遠く感じる。


今日は忙しくなりそうだ。授業、元素魔法の練習、そして午後にはリンデン教授のもとへ行って、あのスプライト「ヒカップ」の今後を確かめなくてはならない。着任してまだ日が浅いのに、早々トラブルに首を突っ込んだのを思うと少し緊張するけれど、リンデン教授は公正な人だろうし、僕たちは正しいことをしたはずだと自分に言い聞かせる。


新しい学院ローブを身につけて階下へ降りると、エアリウィン寮の談話室は既に賑わっていた。何人かはスパイスの効いたココアを啜りながらノートを読み返し、別の生徒たちはどのクラブに入るか静かに議論している。ミノタウロスのカーンは分厚い魔物図鑑をめくり、険しい表情で何かを検討中だ。大きなメガネをかけたヒーラー志望のレイラは僕と目が合うと小さく挨拶し、ミーラは安楽椅子で小さな輝く苗木を愛おしそうに育てていた。


テロンが掲示板の前で僕を呼び止め、満面の笑みで話しかけてくる。「ユウ! クラブ募集の告知見た? ‘花火祭’が近づいてて、魔法花火の準備を手伝うボランティアを募ってるんだって。興味ある?」


「うーん、ちょっと考えるよ。」僕は首をかしげる。火薬じゃなく魔法で打ち上げる花火には興味がある。でも今は授業だけでも精一杯で、祭り準備までこなせるかは微妙だ。


「まあ無理にとは言わないさ。」テロンは肩をすくめ、カバンを背負い直す。「それとさ、アマリアがお前に注目してるの気づいた? 授業中とか、練習中とか、しょっちゅうチラ見してる感じだぜ。」彼はからかうように眉をひそめてニヤニヤする。


頬が熱くなる。「いや、ただ新入生としてサボってないか見てるだけだろ。彼女は王女でトップクラスの生徒だ。新入りを気にかけるのは彼女の役目みたいなもんだし、僕は特別な転入生だからさ。」


「ふーん、そういうことにしとくか。」テロンはくつくつ笑う。


反論しようとすると、まさにアマリアが寮の入り口付近に現れた。外には彼女の竜が待っているのが、リードガラス越しに見える。アマリアは僕と視線を合わせ、ついてくるように手招きした。その瞬間、テロンのからかいが頭に残っていて、変に意識してしまう。王女で優等生の彼女と、右も左もわからない転校生の僕なんて、ありえない話だろう。


「おはよう。」アマリアは凛とした声で言う。その姿勢はいつものように崩れず落ち着いている。でも彼女の視線が一瞬、僕の表情を窺ったような気がした。「さあ行きましょう。最初は『基礎幻術と知覚』、それから『錬金術基礎』。その後、リンデン教授がスプライトの件であなたに用があるはずよ。」


「わかった。」僕はローブの襟元を軽く直し、「案内してくれ」と一声かけた。


歩きながら、僕は話題探しに「幻術の授業って、やっぱり透明化とかニセの映像を作ったりするの?」と尋ねてみる。


アマリアは静かに頷く。「一部はそうね。幻術は光や音、時には香りや触覚まで操るわ。無害な幻影で相手を惑わせたり、幻惑的な罠を見抜いたり、感覚を研ぎ澄ませる訓練になる。パワーよりも繊細さが重要よ。」


そう聞くと、繊細な魔法分野を、繊細で優雅な王女と学ぶというシチュエーションに、僕は少し緊張を覚える。元素操作はまだわかりやすい。火を生み出す、水を動かす。それに比べて幻術は、現実そのものを欺くような複雑さを感じた。


辿り着いた教室は、壁中が鏡で覆われている。普通の鏡、くもった鏡、着色された鏡が並び、天井付近には小さな光の粒がゆらめいている。担当のアルヴァンディエル教授は銀縁メガネをかけた細身の男性で、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。


「ようこそ。」教授は軽く挨拶すると、すぐに実演を始める。一振りで自分自身の完璧な幻影を生み出し、その幻影は手を振ってチリンと鈴のような音を響かせて消えた。


「今日は簡単な幻影を作ってみましょう。小さな物体—例えば蝶や光る玉—をイメージして、この空間に浮かべる練習です。魔力の流れを制御し、意図を明確にすることが鍵。目を閉じて、鮮明にイメージし、空中に呼び寄せてみてください。」


グループに分かれ、僕はまたレイラとミーラと一緒になった。レイラはハチドリを作ろうとして、ぼやけた動く染みみたいなものを生み出すにとどまる。ミーラは小さな光る葉を浮かべるが、すぐに溶けてしまった。僕は深呼吸し、アドラーナ教授の「呼吸と魔力制御」の教えを思い出す。


落ち着け、僕。シンプルなものを思い浮かべよう。バドミントンのシャトルコックだ、あれは形も質感も馴染みがある。コルク先端に羽根が付いた、軽くて独特な形状。頭の中でくっきりイメージし、息を吐きながら杖を軽く振る。


かすかな揺らめき。白い羽根状の何かが空中に現れるが、輪郭が不明瞭でちらついている。それでもレイラは小さな歓声を上げる。「最初としては上出来だよ!」


僕はちょっと誇らしくなる。しかし、その直後、銀髪貴族のラエンディールが生み出した完璧な光の蝶が目に入る。優雅に舞い、きらめきを残して飛ぶその幻影。ラエンディールは僕が見ているのに気づくと、勝ち誇ったような冷笑を浮かべ、「お前は所詮その程度」と言わんばかりの表情だ。


歯がみするけど、まあいい。僕はまだ来たばかりだ。二回目はもう少しはっきりしたシャトルコックを再現することに成功した。ミーラが控えめに拍手してくれる。天才にはなれなくても、仲間がいるし、確実に進歩している。今はそれで十分だ。


幻術の授業を終え、次は錬金術基礎へ。錬金術室はハーブや鉱物、そして甘酸っぱい不思議な香りが混ざり合う。長い木の作業台には乳鉢、乳棒、バーナー、そして花びらの粉やキラキラ光る結晶粉末、乾燥したキノコなどが瓶詰めで並んでいる。


担当はエリディア教授という活発な老女で、基本原理を端的に説明する。材料と魔力を掛け合わせ、ポーションやエリクサーを生み出す錬金術は、安全第一。適当な混合は爆発や奇妙な副作用を起こすという。


最初の課題は「鎮静薬」だ。月花の花びらを砕き、微量の水晶粉末と魔力が込められた泉水を加え、慎重に攪拌すれば、薄紫に光ってラベンダーのような香りがするはず。


「これなら簡単そうだな。」隣に立つテロンが鼻歌まじりで計量を始める。僕も真似して材料をそろえるが、手が少し震える。魔法×化学、未知の組み合わせだ。


花びらを砕き、粉末と水を加え、指示通りに時計回りにかき混ぜる。魔力をほんの少しだけ注ぎ、穏やかで静かなイメージを心に抱く。うっすらと光が見え始める。いい感じだ。もう一混ぜ……。


ポンッ!

突然、薬液が小さな胞子のような光の粉を弾き飛ばし、それが僕の顔に降りかかる。むせて目を瞬かせる。匂いはラベンダーどころか熟れ過ぎた桃みたいな酸味のある甘さ。


テロンが吹き出しかける。「ハハッ、やるなユウ。魔力は『優しく注ぐ』って書いてなかったか?ちょっと力みすぎたんじゃないか?」


「かもね…」僕は顔を拭って再挑戦する。今度は本当に優しく魔力を注ぎ込むと、光は安定し、花のような香りが漂い出す。少量を小瓶にすくって完成だ。二回目で成功、まあ悪くない。


向こうではアマリアが淡々と完璧な鎮静薬を一発で作っている。特に威張るでもなく、ただ静かに、当たり前のように。ラエンディールも見事な薬を作り、アマリアに褒められたそうな素振りを見せるが、彼女は礼儀正しく頷いただけで、すぐ自分の作業へ戻った。その様子を見て、僕はちょっとした満足感を覚える。


授業後、エリディア教授が微笑んだ。「新参者にしては上出来よ。魔力制御をもっと練習すれば更に上達するわ。」


「頑張ります。」僕は器具を片づけ、廊下へ出た。


時刻はもう昼頃、腹が鳴る。僕はアマリアに目を向ける。「リンデン教授のところへ行く前に、腹ごしらえしない?」と尋ねる。


彼女は頷く。「西の中庭近くに小さなカフェがあるわ。パイやベリーのホットティーを出してくれる。手早くておいしいわよ。」


それは最高だ。テロンは「パイ」と聞いてすぐ飛びついてくる。僕らは蔦に覆われたパーゴラの下、小さな木製テーブルに腰を下ろした。蜂蜜と焼きたてパンの香り、温かいお茶、砂糖をまぶしたパイ。心がほっと緩む。ほんの少しだけ、この世界に自分が根付き始めているような気分になれた。


レイラとミーラが通りかかって手を振る。カーンは重そうな本を抱えて通り過ぎる。狐耳の少女ネレアは中庭の端で落ち着きなく周囲を伺っていた。ヒカップのことを思い出して、胸が少し締めつけられる。もうすぐあのスプライトの運命が決まる。


アマリアは優雅にお茶をすすり、カップ越しに僕を見つめる。「随分と早く馴染んだわね。」小声で僕だけに聞こえるように言う。「幻術も上達中だし、二回目のポーションは成功した。一週間経たないうちに転入して、この状況に適応している人はそう多くないわ。」


頬が熱くなる。まさか彼女から褒められるなんて。「あ、いや、その…良い先生や友人に恵まれてるだけだよ。」


彼女はわずかに微笑む。「それもあるでしょう。でも皆があなたのような強さを持っているわけじゃない。異世界に突然放り込まれたのに、行動で示し、精霊への優しささえ見せた。そのことを過小評価しないことね。」


心臓がトクンと跳ねる。本当に僕を讃えてくれてるのか? 思わず口ごもると、後ろでテロンがニヤニヤと眉を上下させている。「やめろよ」と目で合図すると、彼は面白そうに笑みを浮かべるだけだった。


食事を済ませて、リンデン教授のオフィスへ戻る。ドアは少し開いていて、花の押し花のような香りが漂っている。中へ入るとリンデン教授と二年生らしき生徒が座っていた。その生徒は肩を落とし、申し訳なさそうな顔をしている。リンデン教授は顔を上げ、僕たちを見て軽く頷く。


ヒカップは小さな止まり木に座り、もうシャックリはしていない。きらきらした目で僕を見つめていた。


リンデン教授は咳払いして口を開く。「松山ユウ、アマリア、来てくれてありがとう。ネレアのルームメイト、つまりこのスプライトの元々の契約者から話を聞いたわ。彼女は精神的に追い詰められ、スプライトに対して怠慢や酷い扱いをしていたと認めました。よって契約は解除され、このスプライトは新たなパートナーを選ぶか、自由な状態でいることができます。」


ヒカップがふわりと僕の方へ飛び、首をかしげる。その目は「一緒にいていい?」と問いかけているようで、胸がぎゅっとなる。


僕はリンデン教授を見る。「僕が引き取ることなんて、いいんでしょうか?」


リンデン教授は温かい笑みを浮かべる。「ええ、双方の合意があれば可能よ。けれど、使い魔を世話するのは責任重大よ。精霊には優しさと、時折の魔力供給、そして理解が必要だわ。」


一瞬迷う。新しい世界に来ただけで手いっぱいなのに、これ以上抱えられるのか? でもヒカップの頼るような瞳を思い出す。ここで断ったらあまりに冷たい。


深呼吸して、ヒカップに向かって頷いた。「やってみるよ。お手柔らかにな。」


ヒカップは嬉しそうに小さく鳴き、僕の頭上をくるりと飛び回る。柑橘系の爽やかな香りがかすかに広がる。リンデン教授は修正された新たな契約書を手渡し、そこには強制的な従属条件はない。お互いに協力し合う対等な関係だ。僕は署名し、ヒカップは満足げに僕の肩に止まった。


アマリアが静かに頷く。テロンは「やったな!」と言わんばかりにうれしそうな表情だ。二年生の生徒は最後の書類処理を済ませてホッとした様子で退室する。リンデン教授は僕らに誠実さと慈愛を示してくれたことに感謝し、僕たちは部屋を後にした。


廊下に出ると、まるで大きな試練を乗り越えた気分だった。学術的な試験ではなく、人間性を試されたような感覚。僕は今、ヒカップという使い魔と共に新しい生活を築こうとしている。授業、元素操作、幻術、錬金術、そして使い魔の世話。正直、怖くもあるけど、同時に心が温まる。


寮へ戻る途中、窓越しに中庭を見れば、アマリアの竜の影がかすめる。今日の出来事を思い返すと、幻術、ポーション、ヒカップの救出。ここは挑戦と驚きに満ちた世界だ。そして僕は、その色彩豊かなタペストリーに自分の一糸を織り込んでいる最中なのだ。


テロンが僕の背中を叩く。「ようこそ使い魔生活へ、ユウ! 近いうちに花火祭で両手が塞がり、片手でヒカップにエサをやり、もう片方で魔法花火を仕込む羽目になるかもな!」


僕は苦笑して首を振る。「一歩ずつな、テロン。」


アマリアはくすりと微笑む。「賢明な選択ね。」廊下の分岐点で立ち止まり、僕をまっすぐ見て小さく頷く。「よくやったわ。」そう言い残して彼女は去っていった。


僕はヒカップの羽ばたき音を耳元に感じながら、そこにしばし立ち尽くす。ここに来たばかりの頃より心が軽く、少しだけ自信がついた気がする。仲間ができ、僕は成長しつつある。見知らぬ世界で、僕は自分を誇れる存在になれるのかもしれない。


そう思いながら微笑み、僕は友人たちに続いて歩き出す。これからも授業や練習、時には魔法が巻き起こす笑い声と共に日々は続いていくのだろう。

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