4ページ 魔法と道徳の学び
呼吸を整えようと努めながら、僕はイセルダ教授の講義を聞き始めた。彼女の声は低く穏やかだったが、静まり返った教室にはっきりと響いていた。教壇の前に立った教授は長いチョークを手に、時折黒板を軽く叩く。そのチョークは自ら動いて文字やルーンを流れるような筆跡で書き綴っていく。背後の棚には本や巻物、奇妙な水晶器具が所狭しと並び、空間に漂う魔力の微かなうなりまで感じられそうだった。
僕はテロンの隣に座った。彼は席についた僕に、元気づけるような笑みを送ってくれる。肩口にはスプライトのヒカップがちょこんと隠れるように張り付き、不安げに周囲を見回していた。まだ状況はよく分からないだろうが、とりあえず逃げ回らなくて済むだけ少しは落ち着いたらしい。教室の向こうにはアマリア(Amalia)の姿があった。彼女は数列ほど前方で、完璧な姿勢で座り、腕を机上に組んで、その黒髪は教室の浮遊ランタンの淡い光を受けて艶やかに輝いている。ときどき羽根ペンでノートを取る合間に、ちらりとこちらを振り返っては、僕がちゃんとついて来られているか確認してくれている…ような気がする。
「マナの流れは、全ての魔法の基礎です。」イセルダ教授は実直な口調で言った。「炎を呼び出すにせよ、羽根ペンを宙に浮かせるにせよ、あなたたちは内外に存在する不可視のエネルギーの流れを利用する。これを上手く扱うには、制御、抑制、そして集中が必要。不用意な解放は力の浪費か、あるいは混乱を招くだけです。では、魔術師の元素適性を左右する要因は何でしょう?」
すらりとした銀髪の少年が手を挙げる。彼は昨日、大広間でアマリアの近くにいた気がする。貴族的な雰囲気からしてラエンディールだろう。「教授、魔術師の元素適性は、先天的素養や初期訓練によって形づくられるマナの共鳴パターンに影響されます。」
「正解です、ラエンディール。」教授は頷く。「けれど、環境や感情、魂そのものの本質によって、その適性は揺らぐこともあるのです。」
僕は懸命にノートをとった。マナの流れや元素共鳴といった概念は、物理学にオカルトを足したようなもので、頭がクラクラする。でもここで平均点程度で済ませていたら置いていかれるだろう。この新たな世界の理を理解し、習得する必要がある。
途中、テロンが小声で話しかけてきた。「気にすんな。最初は詰め込みが多くて戸惑うのが当たり前。基本を押さえながら徐々に慣れればいい。」彼は僕のノートを指差し、複雑な元素サークルとレイライン(魔脈)の図に焦点を合わせる。「まずは基礎だよ。細かいことは追々理解できるさ。」
僕は感謝を込めて頷いた。後方からはレイラが小さな声で、治癒魔法とマナ純度について質問するのが聞こえる。教授はその洞察を誉め、レイラは顔を赤らめて大きなメガネを押し上げた。カーンは低く唸るような声で土の元素精霊について言及し、テロンがそっと訳してくれる。どうやらカーンは地属性魔法が得意らしい。それは納得できる。
授業が終わると、イセルダ教授は読書課題を出して解散を告げた。立ち上がった途端、ヒカップが僕のローブの中でさらに奥深くに潜り込もうとする。まるで、あの狐耳の少女が探し回っているのを警戒しているかのようだ。僕は小さく頭を撫でてやる。「大丈夫、何とかするから。」
廊下に出ると、数人の生徒が好奇の目を向けてくる。どうやら「異世界から来た転入生」という噂は広まっているらしい。興味ありげな者、懐疑的な者、そして何を妬んでいるのか分からないが嫉妬っぽい視線を送る者もいた。
アマリアが近づいてくる。腕を組んで「初めての授業はどうだった?」と尋ねる。嘲りは感じられず、純粋な興味からの質問らしい。
「かなり濃密だった。」僕は正直に答える。「でも多分、ほとんどは理解できた…と思う。」言いかけたところで、ヒカップが小さくヒックと音を立て、きらめく粉がふわりと僕らの間に漂った。アマリアは片眉を上げる。
「そうね。」彼女は脇へ寄り、通り過ぎる生徒たちに道を譲る。「次の授業前にスプライトを何とかした方がいいわ。このまま隠し続けるのは無理がある。」
テロンが巻物を抱え直しながら合流する。「リンデン教授のオフィスアワーは昼過ぎからだ。次は『基礎元素制御』があるから、その授業が終わったら教授に相談しに行こうか。」
「それがいいね。」僕が頷いたちょうどその時、あの狐耳の少女が慌ただしく廊下を駆け抜けて行く。焦燥感に駆られた表情で周囲を見回している。僕らは近くの彫像の陰に身を隠し、彼女が通り過ぎるのを待った。
アマリアは彼女の背中を追うように視線を送る。「彼女はネレア・フェルスタール、二年生で使い魔学を専攻している子。普段は勤勉な子だけど、どうして同室者のスプライトと揉めたのかしら。」
ヒカップが僕の服をぎゅっと掴む。その仕草はまるで「酷い扱いを受けたんだ」と言わんばかりだ。契約を強制されたり、放置されたりしたのだろうか。言葉が通じれば聞き出せるのに…。
僕らは次の授業が行われる中庭へ向かった。『基礎元素制御』は天井のない中庭で行われ、蔦やトレリス(格子棚)に囲まれた開放的な空間だった。担当のアドラーナ教授は、小柄で優しげな笑顔の女性。髪には小枝…いや、生きている小さな蔦が絡んでいて、髪の中でゆっくりと動いているようだ。彼女は、まず高度な呪文を習う前に、小さな風のそよぎや火の火花、水の滴、土埃の粒を操る基本を学ぶべきだと説明した。
「元素制御は、自分の呼吸から始まります。」アドラーナ教授は言う。「深く息を吸い込んでマナが体内を巡るのを感じ、吐くときにそのエネルギーを操作したい元素へと流し込むのです。」
生徒たちは散開し、小グループを作る。テロンと僕は並び、レイラと、以前ベリー入りチョコをくれたエルフのミーラは水の滴を球状にまとめようとしている。カーンは両手で小さな土の塊をぎゅっと圧縮し、かすかな緑の輝きを放たせていた。
僕は緊張して杖を握る。光を点す簡単な呪い程度ならできたが、今回はずっと難しそうだ。マナを感じ、呼吸で導く…抽象的だが、やるしかない。目を閉じ、深く息を吸い込む。湿った葉と遠くの花の香りが鼻をくすぐる。息を吐き出しながら、胸の中にある見えない力を腕へ、そして杖へ通そうとする。
指先に微かな温もりを感じる。片目を開けると、杖の先は淡く揺らめいているが、何の元素もはっきり現れない。ただの淡い光が一瞬浮かび、すぐ消えた。思わず眉をしかめる。
「もっと具体的なイメージを持つといい。」テロンは自分の杖先に小さな火の玉を容易く点して見せる。「たとえば、ろうそくの炎を頭に描いてみろよ。揺らめく暖かな光さ。」
僕は再挑戦する。家族の冬の誕生日ケーキに灯る、小さく安定したろうそくの炎を思い浮かべる。吸って、吐く。その瞬間、杖の先にほんの一瞬、火花が灯った。しかしすぐ消えてしまう。まだまだだけど、一歩前進だ。
少し離れたところで、アマリアは穏やかなそよ風を呼び起こし、その風が彼女のローブを揺らしている。僕と目が合うと、彼女は小さく頷いて「続けて」と言わんばかりだ。一方、ラエンディールは指先で火の球を自在に転がしながら不敵な笑みを浮かべている。見せびらかしてるな、と悔しさが湧く。負けていられない。
授業の半ば、アドラーナ教授が巡回してくる。僕を見て優しく微笑む。「新しく来た子ね?最初はみんな遅々として進まないものよ。あなたのオーラは柔軟な印象があるし、そのうち自分の元素を見つけられるでしょう。」彼女はふと、首元から聞こえる羽ばたき音に気づいたようだ。ヒカップが微かにヒックと鳴く。
教授は瞬きする。「君、ローブの中にスプライトがいるのかい?」
心臓がドキリとする。見つかった! 言い訳を考えようとするが、アドラーナ教授はただ僕の肩を優しく叩いた。「もし困っている友人がいるなら、リンデン教授に相談するといいわ。彼女は使い魔関連の専門家よ。けど、授業中は気を散らさないようにね。」
叱られはしなかった。ほっと胸を撫で下ろす。教授はそれ以上追及せず去っていった。
授業の終わり頃、僕はようやく杖先に小さな炎を3秒ほど安定して灯し続けることができた。それはロウソクの炎程度の小さな光だったが、僕にとっては大きな前進だ。レイラが静かに拍手し、ミーラが微笑んでくれる。テロンはガッツポーズを取った。東京の普通の学生だった僕が、ここで魔力から炎を生み出した。その事実に思わず笑みがこぼれる。
中庭を後にする頃には、額に汗が浮かんでいた。ヒカップが僕の頬をトントンと叩き、本館の方を指し示す。そろそろ助けを求める時だというようだ。胸が再び緊張で締めつけられるが、事態をこのまま放置はできない。
僕たちは大図書館近くの廊下で合流した。アマリアが壁に取り付けられた日時計のような魔法仕掛けの時計を確認する。発光するグリフで時刻が示されていた。「リンデン教授のオフィスアワーが始まる。ついてきて。」
テロンと僕は頷き、続く。レイラとミーラは一緒に行くと言ってくれたが、あまり大人数だと目立つので遠慮してもらうことにした。
僕らはまた廊下を進む。哲学を論じ合う動く肖像画のギャラリーを抜け、苔ランプで光る階段を下り、ウィルオウィスプ(鬼火)の篭った明かりが並ぶ廊下を進む。ようやくたどり着いた扉には、「マリエル・リンデン教授 - 使い魔倫理学・精霊関係学」と銘板が掛かっていた。
アマリアが礼儀正しくノックする。中から、優しくも芯のある声が聞こえた。「お入りなさい。」
中へ入ると、押し花や古い紙の香りが漂うオフィスだった。リンデン(Linden)教授は秋の葉色の髪をした細身の女性で、穏やかな緑の瞳をしている。机にはさまざまな使い魔とその生息地を示す図表が散らばっていた。
彼女は僕らを見て首を傾げる。「アマリア・ドラコヴィーナ、それから…あなたが松山ユウね。校長のアウレリウスから話を聞いているわ。」彼女の視線はヒカップへ移った。スプライトは怯えながらも顔を覗かせる。「そして、そちらはお友達かしら。」
僕は喉が詰まる思いだが、一生懸命言葉を紡ぐ。「リンデン教授、助けが必要です。このスプライト、ヒカップは持ち主から逃げてきたんです。酷い扱いを受けてたみたいで、戻ることを嫌がってる。でも規則を破って匿うのはマズいし、虐待されてるかもしれない相手に返すのもおかしい。どうすれば…?」
リンデン教授は表情を和らげ、立ち上がってゆっくり手を差し出す。スプライトに害がないことを示すような慎重な仕草だ。ヒカップは警戒しつつも、そっと近づいて小さなヒック音を立てる。リンデン教授は知らない言語で優しく何かを囁き、ヒカップは翼を震わせながらこくこく頷く。
しばらくして、リンデン教授は僕たちに向き直った。「このスプライトは、やはり虐待とも言える扱いを受けていたようね。嫌な芸当を強要され、休むこともできず、厳しく叱責されていたらしい。エルドリア王国の法では、使い魔は人道的に扱われなければならないの。証拠があれば、スプライトは契約から解放されたり、新たなパートナーに引き取られたりすることができるわ。」
僕は肩の力を抜いて安堵した。「じゃあ、助けられるんですね?」
リンデン教授は微笑む。「ええ。私が仲裁します。登録上の持ち主と話し合って契約内容を精査するわ。スプライトの訴えが正当なら、保護下に置いて善処する。あなたたちがここに連れてきて正解だったわ。」
アマリアは小さく息をつく。「それは良かった。」
ヒカップは僕の頬をちょんちょんと叩き、僕は思わず笑みが漏れる。テロンは「な? 良いことをすれば報われるんだよ」と嬉しそうに言う。
リンデン教授はヒカップを机近くの小さな止まり木へ誘導し、「明日午後にまた来なさい。その頃には結論が出せると思うわ。」と伝える。
僕らは礼を言って廊下へ出た。ここに来て初めて、魔法とは直接関係ない形で何かを成し遂げた気がする。善意で動いて、それが良い結果につながった…今のところはね。
寮へ戻る途中、夕方の陽光が暖色の光を廊下に落としていた。まだこの世界に来て一日そこそこなのに、信じられないほど多くの出来事があった。杖を手に授業を受け、友人を得て、虐げられたスプライトを救うため奔走した。怖くもあるけれど、それでも悪くない気分だ。
アマリアが振り向き、ひととき彼女の気品ある表情が柔らぐ。「あのスプライトを助けるためにリスクを負ったのね。来たばかりで混乱もしていただろうに、誰もがそうするとは限らないわ。」
僕は肩をすくめ、少し照れながら答える。「見捨てるなんてできなかっただけだよ。」
彼女の金色の瞳が僕を見据え、その唇がかすかに微笑みの形をとる。「立派なことだわ、松山ユウ。」
顔が熱くなるのを感じ、壁に描かれたヒドラと戦う英雄の壁画に視線を移す。テロンが肘で軽く小突いてくるが、何も言わないでニヤリと笑うだけだった。
やがて、アマリアは教授との用事で別の廊下へ、僕とテロンはエアリウィン寮へ向かう。夕食まではまだ時間がある。僕はノートを復習し、さっきの小さな炎の練習を続けてみるつもりだ。
階段を上り、自分の部屋へ戻りながら、僕は明日以降のことを考えた。この世界は挑戦的で奇妙で、何が起こるか分からない。でも、少しずつ「よそ者」ではない気がしてくる。もしかしたら、ここで自分の居場所を築けるかもしれない。生き延びるだけじゃなく、成長していけるかもと、僅かながら自信が芽生える。
そんな希望を胸に、僕は寮室の扉を静かに閉め、遠くで微かに響く魔法のざわめきを背に、勉強に取り組み始めた。
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