猫嫌い
けいりん
猫嫌い
猫が苦手だ。
いや、苦手だ、などという生易しいものではない。猫と判別できるものであれば、現実であろうと映像であろうと、目にしただけで俺の心臓の鼓動は跳ね上がり、続いて音を立てる勢いで血の気が引き、身体中からは脂汗が滲み始める。
種類は問わない。その辺の野良猫から、アビシニアンやらペルシャ猫など名前のついた高級そうな猫、果てはデフォルメされたイラストに至るまで、それが猫と判別できる限り、俺の反応は何一つ変わることはない。急いで目を瞑ってももはや後の祭り。一瞬の認識がもたらした感情と感覚の擾乱は、相当の時間が過ぎ去るまで俺の心身を蹂躙し続けることになる。
つまり、俺は猫が怖いのだ。
理由はわからない。一度、両親に聞いてみたことがあるのだが、かなりの幼少期から、俺は猫を怖がっていたようだ。幼児向けのキャラクターなどであってさえも、猫の絵を見ると激しく泣き叫び、絵本や画面を遠ざけようとしていたという。
あえて言葉にするならば、あの、わけ知り顔が怖い。
どこかこちらを見下すような、世界の歴史や宇宙の秘密にまで精通しているような、超然としたあの顔。子猫でさえも、その目の奥にはあまりにも深くあまりにも歳降りた知性が息を潜めているように感じられる。
SNSなど、放っておくと猫画像が大量に流れてくるので、あれこれ試した挙句ついには画像を一切表示しない設定にしてしまった。画像中心のSNSはアカウントを消した。そこまでしても、広告などで不意打ちを喰らってしまうことは決して少なくないし、現実の世界にも多くの猫の画像や映像が垂れ流されている。個人的には性的コンテンツや暴力描写よりも猫のほうを規制してほしいくらいだ。流石にそこまで行くと言い過ぎだろうという自覚はある。自覚はあっても恐怖まで否定できるものではない。街中で、不意に目に飛び込んでくる猫の姿に、フリーズしてしまいそうになるのを、俺がいかに耐えているかを知れば、世間も少しは猫の姿を垂れ流すのをやめてくれるだろうかと思ってしまう。
どこかで何かちょっとしたバランスが崩れたら、猫を見るのが嫌さに外に出ることすらできなくなってしまうのではないか、そんな危うさを、俺は常に自分に感じていた。
ある深夜のこと。俺は家まで車を走らせていた。かろうじて舗装されてはいるものの、両側を田んぼに挟まれた、片側一車線の暗い道だ。夜闇の中では、一定の間隔で設置された街灯だけが、風景と呼ぶに値する唯一の存在。時折対向車とすれ違うが、それ以外には変化とてほとんど見られない、退屈な道。早い時間だと前後に車がいることも珍しくないのだが、今はその姿もない。
終業間際にトラブルがあり、ひどく帰りが遅くなってしまった。ここのところ忙しくて疲れが溜まっており、久しぶりに早く帰ってゆっくりしようと思っていたのに。
俺は一瞬気が遠くなるような感覚を覚え、舌打ちして首を振った。いけない、このままでは事故を起こしてしまいそうだ。そんな事態を避けようとここまではむしろ急いで運転してきたのだが、そろそろ限界のようだ。
どこか路肩にでも停めるか、それともコンビニかファミレスがあるまで……そう思った時、突然目の前に現れた影に、俺は驚いて急ブレーキを踏んだ。キキーッ!という鋭い音。路面をタイヤが滑る感触。そして何かがぶつかる鈍い音。やっちまった、俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら思った。
一瞬目に映ったものの大きさといい、衝撃がほとんどなかったことといい、狸か何かの小動物と思われるが、生き物を跳ね飛ばしていい気持ちがするものではない。それに万が一、小さい子供だったりしたらことだ。
俺はその正体を確かめ、せめて後続車に踏まれない位置に移動させるべく、車を停めて外に出た。ヘッドライトに照らされて、その薄茶色い毛皮の塊は、道に横たわっていた。どうやら動物のようだと、胸を撫で下ろす。近づくにつれ、あちこちが血液で汚れていることや、腹が上下する様子が見えた。まだ命はあるらしい。
すこし、迷いが生じた。どこか動物病院にでもつれて行くべきだろうか。だがすぐに思い直した。深夜である。こんな時間に連れて行ける当てなどないし、朝までもつとも思えない。俺に応急処置の技術があるわけでもない。ならばここに残して行っても同じことだろう。
正直に言えば、俺は面倒臭かったのだと思う。そんな自分を正当化するために、さまざまな理屈を頭の中で作り上げていたのだろう。それでも、間近に来るまで、俺の心は決まってはいなかった。置いて行こう。いや、本当にそれでいいのか。そんな自問自答を繰り返しながら、俺はことさらにゆっくりと、その動物を見下ろした。
「ひっ」
情けない声が、口から漏れた。
猫だったからだ。
自らの血に汚れ、歪な形をした、茶トラの猫。
猫は、半ば影になった顔をこちらに向けていた。顔の半分は血と土に汚れてよく見えない。だが、その両目は、不自然なほどに見開かれ光を放ち、じっと俺を見つめていた。俺を非難するように。俺を糾弾するように。自分をこのような目に合わせたものの顔を、しっかり記憶に焼き付けようとでもするように。
「にゃあ」
その口からしわがれた声が漏れた時、俺はついに耐えきれず悲鳴を上げた。絶叫だった。
「うわあああああああああああああ!!」
俺は踵を返した。走った。見上げた視線から逃れ、自分が、こともあろうに猫を轢いてしまったのだという事実を忘れようとするように。半ば震えながら、サイドブレーキを戻し、車を発進させる。あの毛玉が近づいてくるのが照らし出され、俺は目を瞑った。
ぐしゃり。
湿った音と共に嫌な感触がタイヤを通して俺の身体まで伝わり、俺は言葉にならない声をあげた。そしてその感触から逃れようと、必死でアクセルを踏んだ。
眠気などとうに吹き飛んでいた。
翌朝、恐る恐る車を調べると、道路であらかたこすり落とされたのか、意外なほどに汚れは少なかった。バンパーに小さな凹みがあるようだったが、気になるほどではない。俺は湿らせたぼろ布で僅かに残った血の跡を拭き取り、その布をゴミ捨て場に投げ捨てた。
忘れよう。俺は思った。事故だったんだ。不幸な事故だった。俺は悪くない。あんな時間に、あんなところを横切ったあの猫が不幸だったんだ。
数日は、何事もなく過ぎた。
あの夜の出来事は、内心に暗い影を落とし続けていたが、俺はどうにか何食わぬ顔で勤務を続けていたし、誰からも、様子がおかしいなどと指摘されることはなかった。やがていつもと同じ日々は、あの夜の記憶を、少しずつ、薄れさせつつあった。
だがその日、最近やりとりをしている本社担当者からのメールを開いた時、状況は変わった。
「うわっ!」
俺は思わず叫び、パソコンの画面から目を背けた。周囲の目が一斉に俺に注がれる。
「どうした?」
向かいの席の同僚が言った。
「悪趣味なスパムでもきたのか?」
「い、いや、なんでもないんだ」
俺はできるだけ平静を装って答えた。
「ちょっと……見間違えただけだよ」
「そうか?」
同僚は納得しかねるような顔のまま、引き下がる。他の皆もそれぞれの仕事に戻って行くのが感じられた。
俺はほっとして、それを……不意に送られてきた小猫の画像を、できるだけ直視しないようにしながら、非表示にした。
文面を読むと、通常の業務連絡の下に、最近飼っている猫に子供が生まれた、親バカで画像を送るのを許してくれなどという能天気な文面があった。
ふざけやがって。
俺は必要な返信の後に、硬い文体で、業務メールに私的な画像などを添付するのは遠慮してくれと慇懃に付け加え、返信した。
それからだ。俺の身の回りに、猫の姿が溢れ出したのは。
確かにそれまでも、予期せぬときに猫の姿を投げつけられて恐怖に駆られることはあった。だがここまでの頻度ではなかった。
インターネットで、電車や街中の広告で、近所の路上や公園で、テレビで、雑誌で、新聞で。俺が何かを見て、そこに猫がいないことの方が珍しいと言えるほどだった。
しかも、すぐに目を逸らしてしまうおかげで最初は気が付かなかったのだが、それら、目にする猫の、実物、写真、映像、イラスト、その全ては、あの何もかもを見透かしているような不気味な目を、じっと俺の方にむけていた。
そうなのだ。すべての猫は、俺を見ていたのだ。
一度気がついてしまうと、そこから目が離せなくなった。恐ろしい、一刻も早く顔を背けたいと思っているのに、魅入られたように、あるいは呪縛されたように、固まってじっと見返してしまう。
その目は一様に、俺を告発していた。お前のしたことを知っている、お前の罪を俺たちは知っている、と。
黙れ。
俺は思った。
うるさい。あれは事故だった。不幸な事故だったんだ。俺は悪くない。
嘘だ、と猫の瞳が言う。
助けようとしなかったのは何故だ。あまつさえもう一度轢き潰したのは何故だ。
違う。俺は首を振る。違う、違う、違う。わざとじゃなかった。俺のせいじゃない。俺のせいじゃないんだ。
そうして何分も猫の映像を凝視したまま自問自答を繰り返し、同僚や上司に肩を叩かれてやっと我に帰ることもあった。
住宅街で本物の猫を見かけたときなど、見知らぬ人に声をかけられるまで固まっていたこともある。広告の猫の写真と睨めっこしたまま、電車を乗り過ごしたことも一度や二度ではない。
家ではテレビを見ないようになった。新聞も、雑誌も、パソコンも見なかったし、スマホも最低限にしか見ないようになった。
そこまでしても、瞼の裏で、部屋の暗がりで、頭の中で、猫の目は、じっと俺を見つめ続けていた。俺は眠れなくなった。夢の中に何度か猫が現れたからだ。あの、俺が轢いた直後の猫だ。血まみれの猫は恨めしそうに俺を見上げ、問いかけた。
なぜ? なぜ殺した。
違う、わざとじゃなかったんだ。
違うんだ。
俺はただ、そう繰り返すことしかできなかった。
「おい。おい! 大丈夫か!?」
俺はハッとした。どうやら仕事中にうとうとしていたようだ。その間に猫の夢を見なかったことに、俺は半ばほっとしながら、返事をした。
「すみません、疲れが溜まっているみたいで。大丈夫……」
です、と言いかけた声が止まった。俺は唖然として、俺を叩き起こしたそいつの顔を見上げた。そして、大きく息を吸って、悲鳴を上げた。
「うわああああああああああああああ!」
そいつは。
上司だと思っていたそいつの顔は、あの、俺が轢き殺した、猫のものだったのだ。
「なんだ、どうしたんだ」
半分を血まみれにした猫の顔が上司の声を発する。
「俺の顔がどうかしたのか?」
「うわああああああああああ!」
俺は悲鳴を上げ続けながら、デスクの上を探った。細長い何かが手に当たる。必死で握り締め、振り上げる。俺はそれ、事務用の黒ボールペンを、俺の罪を告発しようとまっすぐこちらを見つめ続けるそいつの目に突き立てた。
「ぎゃあああ!!」
悲鳴が上がり、そいつが片目を押さえて床に転がった。
「なんだ」
「どうしたんですか」
「きゃあ、課長!?」
「何をしてるんだ」
口々に言いながら人々が集まってくる。その誰もが、一様に、あの猫の顔をしているのを見て、俺はデスクに目を走らせ、カッターを手に取った。
「くそ、来るな……見るんじゃねえ。俺は……違うんだ、あれは事故だった。事故だったんだ」
呟きながらカッターの刃を出す。
「事故だったんだよおおおおおお!!」
叫び、カッターを振り回す。俺を見つめ、忘れまい、逃すまいと凝視してくる、底知れぬ猫の目から、解放されようと。
何度か目的を果たした後、俺は取り押さえられた。床に押し付けられ、見上げた俺の目に映るのは、なんの変哲もない、同僚たちの、恐怖と怒りに歪んだ顔だった。
俺は留置所に叩き込まれた。取り調べの結果次第では、精神鑑定だか措置入院だかになるらしいが、ろくに聞いていなかった。ただ、俺はこうして逮捕されたことに、ある種の安心感を覚えていた。これで罪を償える、そう思ったのだ。
きっと、もう大丈夫だ。何故なら俺は、ついに、罪人がたどり着くべきところに辿り着いたのだから。
もう、あの目を恐れる必要はないのだ。
俺は大きく、息をついた。
と、その時。
どこかで、小さな声がした。
赤ん坊?
いや、ちがう。
俺は耳をそばだてる。
これは……鳴き声だ。
なんだこれは。一体どこから。
そう思って見回す俺の目に、二つの光が、飛び込んでくる。
コンクリートに囲まれた部屋の隅に光る、あれは……目だ。
縦長の瞳孔を、じっとこちらに向け、俺を逃すまいと見つめ続ける、二つの目。
やめろ。
俺は後退った。
やめろ。おれはここで罪を償うんだ。
もう、お前に責められる筋合いはないんだ。
やめろ、やめてくれ。
光る目の背後から、ぼんやりと、巨大な影が立ち上がる。
その口から、長く、低く、しわがれた声が上がる。
「にゃあああああああああああ」
それは顔の半分が潰れかけ、歪な体を引きずる、巨大な茶トラの猫。
異様に膨れ上がってはいるが、間違いなく、あの時の猫だ。
俺は悲鳴を上げ、狭い留置所の中を逃げ惑う。
外に向かって叫ぶ。助けてくれ、ここから出してくれと。
だが、なんの反応もない。いるはずの職員の気配もなく、物音ひとつ聞こえない。房の外は闇に包まれている
猫は足を引きずりながら、俺に迫ってくる。俺は絶叫する。鋭い鉤爪を備えた前足が振り下ろされる。鋭い痛み。飛び散る血飛沫。
俺はやっと、気がついていた。
俺が猫を怖がっていたのは、きっと、こうなる運命を、最初から知っていたからだ。
床に倒れた俺を満足そうに見下ろして猫が消え、遠くから警官の声が聞こえる頃には、俺の意識はもう遠のき始めていた
猫嫌い けいりん @k-ring
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