第9話
扉を押すと、煙と光が混じり合った空気に包まれた。
何度も通ったはずなのに、その夜になって初めて入り口のネオンに目がいった。
「STARDUST」
白い光が夜に滲んでいる。
この店に名があることすら、今まで気づいていなかった。
「こんばんは」
カウンターにいた女性店員が、いつもの落ち着いた声で迎えてくれる。
磨かれたグラスの向こうで、彼女はふと笑った。
「そういえば自己紹介してないですよね。私、“コロン”って言います。お客さんのお名前は?」
「……コロン? あ、僕はりょーです」
「香りが残るから、らしいですよ。よろしくね、りょーさん」
肩をすくめながら言う彼女の姿に、少しだけ柔らかさを感じた。
奥のテーブルから声が飛んだ。
「コロンちゃん! そっちのお客さんにも!」
黒髪で目鼻立ちのはっきりした男が、手を振っている。
隣には背の高い男がいて、二人ともネクタイを緩め、シャンパングラスを傾けていた。
「俺、“すぐる”。で、こっちが“りょーた”。よろしくな!」
「どうも」
軽く会釈を返すと、すぐるは笑顔のままシャンパングラスを差し出してきた。
その明るさは場の空気を軽くしてしまうようで、隣のりょーたも少し苦笑している。
「ほら、一杯。煙だけじゃ寂しいだろ」
「いや、あんまり強くないんだけど……」
「大丈夫。軽いやつだから」
コロンがため息を混ぜながら、シャンパングラスを置いていく。
泡の弾ける音が、静かなジャズに紛れた。
しばらくして、すぐるがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……萌ちゃん、やめちゃうんですね」
「そうですよ。今月末」
グラスを拭く手を止めず、コロンは淡々と答える。
萌――
その二文字が、煙の中で思いのほか強く響いた。
姿はもうないのに、名前を知った。
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