透明な壁
ソコニ
第1話
画面に映る自分のコメントを、村井香織は三度読み返してから、そっと削除ボタンを押した。環境問題に関する海外記事の翻訳を担当した彼女への批判的なリプライは、すでに数十件に及んでいた。「意訳が過ぎる」「原文のニュアンスが違う」。どれも的確な指摘とは言えないのに、反論する気力が湧いてこない。
「また、逃げるんだ」
吐息と共に呟いた言葉が、十五畳のワンルームに溶けていく。リモートワークを始めて五年。人との直接的な接触が減れば減るほど、SNSでの些細な軋轢が心に突き刺さるようになった。
四十五歳。独身。フリーランス翻訳者。紅茶のカップを傾けながら、香織は自身の選択の総和を静かに見つめる。「空気を読む」ことを求められ続けた学生時代。派遣社員時代の同調圧力。そして今、バーチャルの世界でさえ、その習性は染みついて離れない。
ノートPCの画面を閉じた瞬間、廊下に響く足音と話し声が聞こえた。珍しい。このマンションの六階は、普段物音一つしない。
「ここで大丈夫そう。気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
若い女性の声に続いて、重たい物を下ろす音。どうやら隣室に新しい住人が越してきたようだ。香織は玄関先まで歩み寄り、ドアスコープを覗く。引っ越し業者らしき作業服の男性と、二十代後半といった風貌の女性が段ボールを運んでいる。
その夜、香織は新しい隣人のSNSアカウントを見つけた。朝倉美月。環境活動家。最新のポストには、マイクロプラスチック問題に関する持論が展開されていた。率直な物言いで、時に過激とも取れる主張。まさに香織が翻訳した記事のテーマだ。コメント欄は賛否両論で賑わっているが、美月は躊躇なく反論を重ねている。
数日後、エレベーターホールで美月と初めて言葉を交わした。
「あ、お隣の方ですよね。朝倉です」
「村井です。よろしくお願いします」
挨拶を交わした直後、エレベーターが到着する。狭い空間で二人きりになった瞬間、美月が唐突に話しかけてきた。
「村井さんって、この前の環境問題の記事の翻訳者の方ですよね?」
香織の背筋が凍る。
「はい...そうですが」
「素晴らしい訳でした。原文のニュアンスを活かしながら、日本の読者にも伝わりやすい表現で」
予想外の言葉に、香織は戸惑いを隠せない。
「でも、批判的なコメントも多くて...」
「ええ、でもそれこそが大事なんです。議論を呼ぶような表現があってこそ、人は考え始める」
美月の瞳が真摯な光を帯びていた。
「私、あの記事のコメント欄で論争になってた件について、ブログを書いたんです。もしよければ」
スマートフォンを取り出しながら、美月は熱心に語り始めた。環境問題に取り組むようになったきっかけ。活動を続ける中での挫折と再起。SNSでの炎上を経験しながらも、信念を貫く理由。
六階に到着するまでの約四十秒。その短い時間の中で、香織は自分とは違う生き方の可能性を垣間見た。
次の更新予定
透明な壁 ソコニ @mi33x
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