第14話 風が流したもの

 風に舞った桜が、凪の唇にくっついた。指でそれを取ると、薄いピンク色の花びらからほんのり春の匂いがした。


 診療所を辞め、またNICUに戻ってきた。別の病棟への勤務をするという話しもあったが、結局人手不足が深刻なNICUに勤務する事が決まった。

 慢性的なスタッフ不足は、いくら派遣職員という制度を使っても追いつく事はない。即戦力になる派遣職員を見つけるために、給料はどんどん釣り上がっていく。

 3ヶ月や半年という契約と共に入れ替えのある状況に、広田が物申した。

「教えるこっちの身にもなってほしい。」

 お昼休み、広田と看護師長と言い合いになっている。

「指導するほうだって悪いから、みんな契約を延長しないで辞めていくのよ。」

「この仕事は短期間で教えてできるもんじゃない。コロコロ人が変わる事は、それだけリスクを伴うんです。あの一件があっても、ここは何も変わらないんですね。」

「広田さん、それはもう忘れましょう。」

 イライラしている広田を残し、凪は休憩室を出た。

 アラームのなっている赤ちゃんのそばに近づくと、

 呼吸が止まっていた。

「先生!」

 凪は医師を呼んだ。

「また、忘れてるのか。」

 医師は素早く呼吸器をつけると、

「時々、息をする事を忘れる子なんだよ。自発呼吸に切り替えてそろそろ呼吸器を外そうと思う度に、これの繰り返し。本当はまだ、お母さんのお腹の中にいなかったのかもね。」

 医師はそう言った。

「松岡さん、大丈夫?」

 広田がやって来た。

「広田さん、ちゃんと見ててよ。」

 医師はそう言って保育器の横を離れた。

「昼残りはどこに行ってるの?」

 広田が凪に聞いた。凪は周りを見渡した。

「ここは一度入ったら、そう簡単には出ないでもらいたいの。外はばい菌だらけだからね。だけど、何回言っても、簡単に外に出ようとするのよ。」

 薬局から戻ってきた昼残りの看護師に、広田はきつく注意していた。

「また、止まっていたよ。」

「師長にはちゃんと断って薬局へ行きました。昼イチで使う薬だったし。」

「それなら薬剤師にここへ持ってくる様に言えばいい事でしょう?」

「広田さんは気付いてないだろうけど、ここの看護師への当たりはキツイですよ。持ってきてほしいなんて言っても、取りに来いって言われるだけ。」

 広田はため息をついた。

「この子の達をなんだと思っているの。せっかく産まれてきてくれたのに。」

 広田はそう言って別の保育器の子の様子を見に行った。


「松岡さん、ちょっと付き合ってよ。」

 仕事を終えた広田は、記録を読んでいた凪に声を掛けた。

「これ、読んでしまってもいいですか?」

「いいよ。先に更衣室で待ってるから。」

 記録を読み終えた凪が更衣室に向かうと、

「今日は車できたの?」  

 広田が聞いた。

「いえ、送ってもらいました。」

 凪が言った。

「彼氏?親?」

「彼氏、です。」

「松岡さん、彼氏いたんだ。田嶋と別れて、ショックを受けてるかと思ったのに、立ち直るの早いんだね。」

 広田はそう言うと、鞄から携帯を出した。

「飲んでから帰るから、帰りに店まで迎えにきて。」

 そう言って電話を切った。

「松岡さんも、彼氏に連絡しなよ。少し遅くなるってさ。」

 

 病院の近くの居酒屋に入ると、広田は慣れた様子でビールとつまみを注文した。

「田嶋から、けっこう飲めるって聞いたよ。」

 広田は凪にそう言った。

「まあ。」

 凪がそう言うと、運ばれてきたビールを持ち、カンパイと言う間もなく、広田はビールに口をつけた。

「田嶋は松岡さんと別れてから、ずいぶん荒れてね。大変だったんだよ。」

 広田が言った。凪は下をむくと、

「大丈夫。今は私と付き合っているから。」

 広田は笑った。

「田嶋の親がダメだったんでしょう?あいつは1人息子だし、母親は田嶋が全てだからね。私は松岡さんと違って、見掛けは普通の女だし、あの母親とも上手くやってるの。」

 凪は静かにビールに口をつけた。

「田嶋には話したけど、私、1回流産しててね。看護師になってすぐの頃よ。当時付き合って彼氏には別の彼女がいて、認知はするけど、結婚はしないって言うから、ずいぶんとモメてね。ケンカを繰り返すうちに、お腹は空っぽになったの。その彼氏とはその後別れた。自分の過去なんて褒められたもんじゃないけど、田嶋の母親は汚れている私の方が、キレイな松岡さんよりもよく見えているんだろうね。」

 広田はそう言った。

「知らなかった。」

 凪はビールを飲まないでテーブルに置く。

「赤ちゃんを見るの、辛くないですか?」

 凪は広田に聞いた。

「そりゃ辛いよ。」

 広田はビールを飲み干し、ビールをまた注文した。

「産まれてきただけで奇跡なのに、どうしてもっと大切にしないんだろうって思ったら、周りに強く当たるようになってね。松岡さんにもずいぶんキツイこと言ったよね。」  

 凪は首を振った。

「田嶋はさ、松岡さんの事、好き過ぎたんだよね。その気持ちが手に負えなくなって結婚を焦ったの。母親が終らせてくれて、本当はホッとしてるんじゃないかな。自分の一部になってほしい気持ちより強くなってきたんだよね。松岡さんはそういうの嫌でしょう?大人しそうに見えて、けっこう芯が強いから。そのうち、お互いすごく傷付く事になるって田嶋はわかっていたの。」

 凪は広田の話しを黙って聞いていた。

「嫌いから好きになった方が、なんとなく上手くいくと思うの。これは私の持論だけど。」

「広田さんは、田嶋さんと同じ年ですか?」

「そう。実は大学も一緒。そんなやつがいたなんて、ぜんぜん気が付かなかったけど。近くても見えない事ってたくさんあるね。」

 凪はビールに口をつけた。

「ぜんぜん酔わないんですよ。だから、飲んでいても楽しくない。」  

 凪はそう言って笑った。

「強いって言うのも、辛いんだね。忘れたい事も覚えてるだろうし。まあ、若い女の子がお酒飲んで愚痴を言ったら、そりゃ救えないか。」

 広田はそう言って凪に食べ物を勧めた。

「食べようか。ここの卵焼き、すごく美味しいから。」


 広田が酔ってきた頃、田嶋が店に広田を迎えにきた。

「久しぶり。」 

 渉は凪を見てそう言った。

「送って行こうか?」

 渉はそう言ったが、凪は首を振った。

「元気そうで良かったわ。」

 そう言うと、渉は広田を抱えるように店を出ていった。

 バスターミナルまで歩き、最終のバスに乗ると、脩からラインが来ていた。

〝迎えに行こうか?〟

〝今、バスに乗った〟

〝じゃあ、家で待ってる〟

 バスの窓にはポツポツと雨粒がついた。

 せっかく咲いたのに、この雨では桜が散ってしまう。少しの風にも逆らう事のできない桜の花は、男の人が潔い死に際と例えるよりも、儚い女の人が嘆き悲しむ涙の様。だから淡いピンク色をしているのかも。 

 雪が被っても真っ赤に色付いたままのナナカマドの実は、いつまでも強がってばかりで、すこし扱いにくい存在に思えてくる。

 バス停に着くと、走って脩の家まで向かった。

 

「雨降ってたのか?言ってくれたら、迎えに行ったのに。」

 脩はずぶ濡れになった凪をストーブの前に連れて行った。

「風呂入ってこいよ。」

「うん。」

 

 脩の部屋に入ると、ストーブの前に座った。

「つけるか?」

「うん。」

「ちゃんと温まったのか?」

 脩は凪の背中を包んだ。 

「お母さんは?」

「仕事だよ。」

「そっか。」

「子供の頃、母親がスナックのママやってる事が恥ずかしくってさ。」

「お母さん、キレイだもんね。私は羨ましい。」

「話しが続かない凪には、この仕事無理だろうな。」

 脩はそう言って笑った。

「脩、聞いて。」

「何?」

「お母さんのお腹の中から、出てこようかなって思うのって、誰が決めるんだろうね?」

「そりゃ自分だろう。産まれてくる赤ちゃんが自分で決めるんだよ。」

「どうやって決めるの?」

「狭くなったから、出ようと思うんじゃない?」

「それだけの理由かな?」

「凪はどう思う?」

「赤ちゃんってそんな意志があるのかな。それなら、誕生日を決めてたのって、親じゃなくて自分自身なんだよね。」

 凪は後ろを振り返った。

 優しい目で微笑んでいる脩の頬を触ると、軽くつまんだ。

「ずるいなぁ。すっかりやられた。」  

 凪が言った。

「何が?」

 凪は脩の唇に近づいた。脩の唇に凪の唇を重ねると、脩は凪をきつく抱きしめた。

「どうする?これ以上一緒にいたら、もっと寂しくなるかもしれないぞ。」

 脩はそう言って凪を見つめた。

「私は寂しくなんかない。」

 凪が言った。

「どこまで意地っ張りなんだよ。寂しくないわけないだろう。」

 脩は凪を胸に抱いた。

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