赤い木の実

@kuromoru320

第1話 赤い木の実

 和綿のような白い雪が被ったナナカマドの実は、まるで毎年やってくる冬の寒さに逆らうかのように、真っ赤なその体を、冷たい風に揺らしている。

 この実をつける木が、夏にどんな葉をつけていたのか、思い出そうとしても頭にそれが浮かんでこない。

 人の目は何もかもよく見えているようで、自分が興味のないものは、切り取って捨てている。

 そうでもしなければ、連れて行く過去を選んでいるうちに、未来のバスが通り過ぎてしまうから。


「松岡?」

 アスファルトの床が、深々と足を冷やす11月のバスターミナル。

 参考書を開いていた松岡凪まつおかなぎの隣りに、同じクラスの平岡脩ひらおかしゅうが座った。

「急に寒くなったな。」

 脩はそう言って両手をポケットに入れた。

「そうだね。」

 凪は脩の顔をチラッと見たが、参考書にまた目をやった。

「いつからここにいたんだ?」

 脩が凪に聞く。

「1時間前。バス、1本遅れちゃって。」

 凪はそう答えた。

「松岡がここで待ってるって珍しいな。いつも学校の前から乗ってるのに。」

 脩は腕時計を見た後、案内版を確認した。

「平岡くんは、何時?」

「俺は19時。松岡は?」

「私も同じ。」

 凪は参考書の次のページを開いた。

「今日は進路相談で遅くなったのか?」

 脩は凪の参考書を覗き込んだ。

「ううん。もうそれは終わった。町の図書館で勉強してたから。」

 凪は脩の顔を見た。いつも横顔しか見たことがなかったけれど、脩の目はくっきりと大きくて、黒く澄んでいた。

「そっか。」

 脩の視線が少し恥ずかしくなった凪は、また参考書に目をやった。

「進路はもう決めたのか。」

 脩が言った。

「うん。平岡くんは?」

 凪は脩の顔を見つめ、答えを持つように静かに微笑んでいた。

「決めたよ。入れるかどうかは、運みたいなもんだけど。」

 凪は脩を真っ直ぐに見つめている。

「平岡くんなら、サッカーの強い大学から推薦が来てるんでしょう?」

 凪が聞いた。

「まあな。だけど、そういう条件で大学へ行くのって、怪我したらそれでおしまいだからさ。松岡は?」

 凪はひとつ呼吸をおくと、

「私は地元の大学を受験するの。」

 そう答えた。

「工大か?」

「ううん。もう一つの方。」

「そっか。松岡はてっきり、町を出るのかと思っていたよ。」

 脩がそう言うと、凪は少し顔が曇った。

「本当はね、好きな勉強をしたかった。」

 視線を落とした凪は、持っていた参考書をカバンにしまった。

「平岡くん、飴食べる?」

 カバンから飴を取り出して、はいっと、脩に渡した。

「俺、この飴好きなんだ。」

 脩はすぐに口に入れた。脩の膨らんだ頬を見ると、凪はなぜか鼓動が速くなり、それを気付かれない様に上着のポケットを探った。

「そう、良かった。」

 脩から離れようと手袋を両手にはめ、マフラーに顔を埋めた。

「平岡くん、じゃあ。」

 そう言って立ち上がる。

「まだ、時間あるだろう?」

 脩が言った。

「そうだけど、けっこう人が並び始めたから。」

 バス停の列の最後に並んだ凪を、脩は見ていた。凪は立ったまま、ずっと参考書を読んでいる。


 凪の母親は今年の夏、凪と妹を残し、別の男と別の町へ逃げたと聞いた。羽田早織はねださおりというクラスメイトの父親が、凪の母親と職場が同じらしく、早織に凪の家庭の事情を話した様だった。おしゃべりな早織は、凪の母親の事をペラペラと誰にでも話していた。


 脩は凪の事が気になっていた。

 父を早くに亡くした脩は、中1の弟と母の3人暮らしだった。脩の母は、昼は介護ヘルパー、夜はスナックを掛け持ちし、好きなサッカーを思う存分に続けさせてくれていた。

 働き詰めの母のために、これからは夢なんて見ないで堅実な道を歩もうと、脩はこれ以上サッカーはやらないつもりだった。

 自分と同じように、家族というパズルのピースがハマらなくなった凪の事を、脩は近くに感じる様になった。

 凪の事を同情するつもりなんてない。自分もそう思われる事が嫌いだから。

 凪は現実を黙って受け入れ、何にも逆らわないで生きているようで、誰にも本当の気持ちは悟られまいと、強がって意地を張っているところに、脩は少しずつ惹かれていた。


 家族が住んでいた家を売り、父の職場の社宅へ住む町に引っ越した凪は、バスで1時間掛けて、高校へ通うようになった。中2の妹は学校を転校したが、凪は残り僅かな高校生活を、なんとか同じ学校で過ごしたいと、長距離通学を選んだ。

 いなくなった母に代わり、凪は妹と2人、交代で家の事をするため、学校が終わるとすぐにバスに乗っていた。

 今日は父も残業で、妹が吹奏楽部の練習で遅くなると聞いたので、町の図書館へ行って勉強しようと、凪はバスを遅らせた。


 バス停に並びながら参考書を見ている凪。

 しっかりと後ろで束ねられた長くて黒い髪。

 目立たない様にしているはずなのに、凪の仕草や表情のひとつひとつが、脩の心にこぼれてくる。

 同じクラスにいたけれど、凪が男子と親しげに話す事はほとんどなかった。それとなく凪と仲のいいクラスの女子冴木優里さえきゆりに、松岡は恋愛なんか興味ないのかと聞いてみたけれど、返って凪の事が気になるのかとからかわれてしまった。


「凪は空想の世界で生きてるから。」

「アニメでも好きなのか?」

「そういうわけではないけど、王子様志向っていうのかな。自分の前に突然現れる男性を待っているみたいよ。」

「ガキかよ、それ。」

「根が真面目だからさ、友達の延長線の恋なんてないの。同級生はしょせん同級生。」

「ふ~ん。」

「平岡、なんでそんなに事聞くの?もしかして、凪の事、気になってるの?」

「違うって。ちょっと2年の男子に、松岡の聞かれたからさ。」

 脩はそう言って気持ちを誤魔化した。


 同級生はしょせん同級生か。

 王子様って、どうやって現れるんだよ。

 

 脩は凪の横に立つと

「ちょっと、」

 そう言って凪の手を引っ張った。

 人気のないターミナルの地下の階段の踊り場まで凪を連れて行くと、

「ごめん。もう行かないと、」

 凪は平岡の手を離して、バス停に向かおうと振り返った。

「松岡、連絡先教えてくれよ。」

 瀧川はポケットから携帯を出した。

「うん。」

 凪はバスがくるのを気にしながら、手袋をとり、携帯をカバンから出した。

「後で連絡する。せっかく並んでたのに悪かったな。」

「大丈夫。」

 そう言って顔を上げた凪に近づくと、平岡は凪に唇を重ねた。

 少し触れた凪の頬は、とても冷たかった。

「バカ!」

 凪は平岡から離れると、バス停に向かって走って行った。

 列の最後に並んだ凪は、手袋で涙を拭っている。

 脩は凪とは反対側のバス停にやってきたバスに乗り込むと、バスの窓から俯いている凪を見ていた。混み合ったバスの中で、窮屈そうに立ってはいるが、凪の周りの空気だけが固まっているように見えた。


 高校生じゃなかったら、もっと自由に凪を好きになれたのに。脩はそう思いながらバスの窓を見ていた。

 

 ずっと遠ざけていた気持ちが、心に張った薄い氷を踏みつけた。凍ってしまったと思っていた水溜りの中から、冷たい水が少しずつ溢れてくる。    

 凪は流れてくる涙を、周りにわからないように手袋で拭いた。

 恋だとか愛だとか、そんな事に時間を使って傷つくくらいなら、誰も好きになんてならない方がいい。寂しいという感情が、1人でいる事は不幸せだと、勝手に勘違いしているだけなんだから。

 走り出したバスが揺れるたびに、体が隣りの人につかないように、しっかりと足の裏に力を込めた。

 

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