第3話 ナツメ餡のパイ

「よかった!」

理央は心底ほっとして、矢継ぎ早に質問する。

「君も日本人なの? ねえ、ここどこ? 僕、電車に乗ってて、気づいたらここにいたんだけど、映画村とか?」

理央は普段、人とあまり話すタイプではない。でも今だけは違った。やっと話せる人に出会えたのだ。

「エイガムラ……? とりあえず、僕は日本人ではない」

そして青年は、感慨深そうに言った。

「初級の頃に、『私は日本人ではありません』という例文を習った。本当に使う日が来るとは……」

「それじゃ、君は日本語を習った中国人?」

「落ち着け。お前が思っているほど単純な話ではない。すぐに学院に来てもらう」

青年は理央の腕を掴んで無理やり立たせると、そのまま引っ張って歩いていこうとする。

「ちょ、ちょっと待って! 痛いって! それに学院って何?」

「もたもたしている時間はない。さっさと歩け。今から帰っても、学院に着くのは夕方になってしまう」

「夕方……!?」

理央は再び地面に座り込んでしまった。森の中を彷徨った後、恐ろしい怪物に出くわしたと思ったら、謎の男に連行されて夕方まで移動なんて。

「無理。心折れた。一歩も歩けない」

暑いし、お腹も空いたし、喉もカラカラだ。青年は呆れたように理央を見下ろしていたが、そのうち腕を放して、村人と何か話し合いを始めた。もうダメだ。ここで処刑されるのかもしれない。

 理央はリュックに入っていたペットボトルの水を飲んだ。もうわずかしか残っていなかったが、最後の一滴まで飲んだ。

 村人との話を終えた青年がやってきて、日本語で言った。

「決まったぞ。立て」

「嫌だ。立てない」

理央は首を横に振る。青年は自分の斜めがけカバンの中から、小さな巾着袋を取り出し、さらにその中から紙に包んだ何かを取り出した。

「これをやる」

手渡された理央が紙包みを開いてみると、丸くて平たいパンのようなものだった。表面はこんがりとしたきつね色で、白ゴマが振ってある。

「食べるといい」

理央はおずおずと、少しだけ噛ってみた。正体不明の食べ物だが、お腹も減っているし、背に腹は代えられない。

 パイのような感じだが、パリパリはしていない。もう少ししっとりしていて、柔らかい。もう少し齧ってみて、驚いた。ザクッとした感触があり、独特の甘い風味が口の中に広がる。

「うま! 何これ!?」

理央はもうひと口食べてみた。ザクザクした食感はザラメ糖のようだ。餡はあずき餡に似ているが、華やかで不思議な風味で、口の中ですっと消えていき余韻が残る。外側のパイのような生地自体にはあまり味がなかったが、中の餡と合わせて食べると不思議とうまい。

「ナツメ餡のパイだ」

青年は言った。

「へえ、ナツメ餡かあ。ガチ中華すごすぎる」

ここがどういう場所なのか、まだわからないが、食べ物が美味しければ生きていけるような気がした。


 村の広場の木蔭に、石の椅子とテーブルがあった。青年と理央がそこに座ると、村人が冷たい緑茶を持ってきてくれた。

「はあ、生き返った……」

「貴様、本当に日本人か?」

青年は怪訝そうに理央を見る。

「日本人に会うのは初めてだが、『現代日本社会史』の教科書によれば、日本人は非常に忍耐強い企業戦士であると書いてあったぞ」

「それは昭和時代の日本人だよ。今の日本人はそうじゃない。……それに、昭和時代だって弱い人はたくさんいたと思うよ。本に書いてあることがすべてじゃない」

「……そうか、それも一理ある」

青年は頷いた。

 理央がお茶を飲んで休んでいる間、青年は鞄から紙と万年筆を出し、手紙を書いていた。書き終わると、紙を丸める。

「木蓮の花ばかりなる空を瞻る」(*)

青年がそう唱えると、空から白い鳩が舞い降りてきて、手紙を掴み、飛んでいった。

「今の、伝書鳩? そこはローテクなんだ」

「ローテク?」

「ハイテクノロジーの逆。魔法が使える設定なら、魔法で電話みたいなのとかできそうじゃん」

「そのような荒唐無稽な技術はない」

青年は言った。

「だが、『現代日本社会史』によれば日本の企業には電話があるらしいな。ファクシミリという新技術もあるとか」

「それは昭和の話だって。今はこれ」

理央は青年にスマホを見せる。

「1人1台電話を持ってるし、チャットやメール、つまり文字や画像も送り合えるよ」

「そんなことがあり得るのか」

青年は怪訝そうにスマホを見て、それから理央を見た。

「どうやら、貴様は本当に日本人らしいな。偽物の日本人ならば、この世界で知られている日本人像を演じるはずだ。荒唐無稽なことを言えば怪しまれてしまう。それが逆に、貴様が何も知らない日本人であることを証明している」

「そ、そうか。結果的に信じてもらえてよかった」

変な青年だが、悪い人ではなさそうだ。食べ物もくれたし。

「君、名前は?」

「僕はリュウセイ。竜に生きると書いて竜生だ」

青年・竜生は筆を執って、紙に名前を書いてみせた。


*夏目漱石『草枕』

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