第2話
「そうだ、スマホ……」
理央はポケットからスマホを出した。指紋認証でアンロックすると、いつも通り、ホーム画面に紫式部のイラストが表示される。電波も三本あった。
「ってことは、普通に日本国内? 山奥に放置してみた、みたいなドッキリ企画?」
理央は混乱する。理央は平凡な一般人で、配信者の知り合いもいないのだが……。混乱した頭でしばらく考えて、理央ははあ、とため息をついた。
「とりあえず、ログインボーナスもらっとくか」
『文學乙女』のアイコンをタップすると、いつも通り起動できた。理央は何よりもほっとした。わけのわからない状況だが、大好きな文學乙女と一緒なら乗り越えられる。
ログインボーナスをもらい、デイリーミッションをクリアして、理央はゲームを閉じた。続いて、マップアプリをタップしてみる。
「……え?」
電波があって、ゲームもできたのに、マップはいつまで経っても読み込めず、真っ白のままだ。続いて、写真アプリもタップしてみた。レンズ越しに風景が映るはずだったが、画面は真っ黒だ。
理央はホーム画面に戻り、日付と時刻を見てさらに驚いた。今日は12月のはずなのに、8月27日になっていた。そして、西暦は8888年だ。
「ひっ……こわ……」
バグなのか、本当に未来にきてしまったのか。
「そうだ、スマホ電源切っとこ……」
充電スポットが今後見つかるかわからない。リュックの中にポータブル充電器が2個入っているが、節約するに越したことはない。ズボンのポケットにスマホをしまうと、不意に暑さを感じた。体がじっとりと汗ばみ、喉も渇いている。
「本当に8月なのかも」
理央はジャケットを脱いで、少し迷ってから、さっきまで乗っていた電車の車両の中に投げ込み、扉を閉めておいた。夜までに事態が好転しなかったら、この車両で寝るしかない。
リュックに入っていたペットボトルの水を飲むと、生ぬるかったが、多少渇きが紛らわせた。
理央は森の中を歩いていった。森の中には、奇妙なものがたくさんあった。ボロボロになったソファ、折れたアンテナのようなもの、崩れかけた駅舎。気味が悪くて、駅舎の中は覗かず、足早に通り過ぎた。一刻も早く、安全そうな場所に辿り着きたい。
1時間ほど森の中を彷徨って、やっと畑や人家が見えた。
「すみません、どなたかいませんか?」
理央は精いっぱいの大声で言ったが、人の気配はない。理央は仕方なく、そのまま歩き出す。
(でも、無闇に声をかけてヤバい人だったらどうしよう……)
理央は急に心配になり、なるべく気配を殺して歩くことにした。最初は小さな農道だったのが、舗装こそしていないものの車一台通れそうな大きな道になり、家も増えてきた。
初めは日本かと思っていたら、どうやら中国のような場所らしい。木造の家もあるが、日本の家よりも塀や柱が大きく、幾何学的な模様の飾り窓がある。煉瓦造りの家もあり、家の前には獅子の像が立っていた。
そのとき、道路の向こうから数人の男が走ってきた。
「え、えっと……に、ニーハオ?」
すると男が怒鳴った。
「アア!? ニーゼンマザイジャー!」
「ひえ~!」
どうやら本当に中国人らしいが、残念ながら理央はニーハオとシェイシェイしか知らないので、なぜ怒っているのかわからなかった。
「ジャーリヘンウェイシェン!」
「そ、そうだ、翻訳アプリ……」
理央がポケットからスマホを出したとき、近くの民家の門が勢いよく開いた。唸り声を上げて出てきたのは、巨大な白い虎の化け物だった。牙も爪も大きく鋭い。何より、赤い霧がその体に纏わりついていた。
「ぎゃああああ!」
理央はスマホを握りしめたまま、道端に座り込んでしまう。一歩一歩、虎が理央のほうに近づいてくる。男たちも虎に手出しができないようで、心配そうに遠巻きに見ていた。
理央は怖くてぎゅっと目を閉じた。走馬灯が見えた。うまくいかないことばかりの人生だった。真面目に生きてきたつもりなのに、気が弱いだけでいじめられたり、バカにされたり。
『恥の多い生涯を送って来ました』
太宰治『人間失格』の名言が頭に浮かぶ。しかし、あの小説の青年のドラマティックな生涯と葛藤は、文学の主人公にふさわしく、多くの人の共感を呼んだ。理央には何もない。誰にも共感されない、地味で平凡な弱い一般人。そして、誰にも知られずに死んでいく。
その時、理央の耳に聞こえてきたのは、美しい美少女の声……ではなかった。若い男の声だ。でも、その響きは――
「なつのおわりのかみなり」
理央は目を開けた。
「日本語……」
目の前に立っていたのは、銀髪の青年だった。青年は理央をちらっと見てから、もう一度話した。
「夏の終わりの雷」
凛とした声が虚空に響くと、次の瞬間、バリバリバリッと音を立てながら銀色の雷が落ちてきて、虎に命中する。虎は白い煙を上げて消えた。
青年はもう一度理央を見る。理央は青年の瞳が金色なのに気づいた。青年は流暢な日本語で言った。
「お前、日本人か?」
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