嘔吐

ぬはは

第一話

 さて、久方ぶりに彼の顔を拝むことができた。しかし、僕から声をかけるわけにはいかない。中学の時分は彼から僕に話しかけるのが常だったから、自分から声をかけるのは、何だか過去への裏切りのように感じて気が引ける。


 そもそも、話の切り口が全く思いつかない。いや、思いつかないというのは正しくない。頭の底では、ああ言おうこう言おうと言葉の渦が巻いている。だが、そのいずれも話の枕だと考えると、途端に浮上をやめ、沈没する。


 したがって、彼を遠巻きに眺めつつ黙々とグラスを重ねることしか、策がなかった。やはり同窓会なんて来るんじゃなかった。


 彼は馬鹿であった。視線の先にいる彼の姿を見ても、その認識は揺らぐどころかより強固となる。あの頃と同じだ。僕から離れたテーブルのところで、白い歯を見せながら笑う彼の顔。まさに昔と変わらぬままのアホ面のままだ。


 ただし、愚鈍ながらも親切であった。薄気味悪いほどに。こんな話がある。


 小学生の頃、僕はトマトが嫌いだった。青臭い風味と黒い果汁が滴るそれを、どうしても食べ物だとは思えなかった。震える箸で口中へ入れれば、プラスチックの給食皿に戻す。教師にガミガミ言われようとも、咀嚼すらできなかった。そんな行き詰まりのとき、向かいに座る彼の姿が目に入った。空の牛乳パックを手早く折りたたむ手つきに、ぼんやりと称賛したくなる気持ちがあった。


 そのうち、教師はため息をついて教室を出た。こわばり遠ざかる背中を見送る内、この粘液で包まれた物体をゴミ箱に捨ててしまおうか、いやいやそんなことをしてバレたら怒られると、意味のない事を考えていた。焦燥感と無力感に耐えきれず、天井の黒いシミに視線を移す。飲み込みがたい現実を完全に持て余していた。

 

 不意にがたっと、音がした。視線を下げると、空の皿。前をむけば、ごくんと彼の喉。

 唾液まみれのトマトを、彼は飲み込んでいた。


「気にしなくていいよ」


 そんな彼を、同窓会の今、久しぶりに見た。彼の笑声が騒がしい会場の喧騒を貫通して、僕の耳へ届く。その声が耳に障るのか、それとも心地よいのか、自分では判然としない。僕はただグラスを重ねることで、自分の落ち着きのなさを隠そうとしていた。


 酔いが廻ってきた。彼の声を聞き入っていたからか、自分は酒に弱くある事実を、いつの間にか忘れてしまった。体の揺れをどうすることもできない。地面が粘ついてくるように感じ、頭が揺蕩う。吐き気で限界だ、そう思った僕はホールを抜け出し、壁に手をつきながら歩き、ようやくトイレまでたどり着いた。洋式便座の前に膝をついたとき、僕は内心呟く。


「気持ち悪い」


 その嫌悪の理由は、単純に吐き気そのものにあるのか、それともグラスを重ねた愚かな行動にあるのか、自分でもわからない。ただ一つ確かなのは、僕が情けなく、腹立たしく、そしてどこか寂しかったということである。


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嘔吐 ぬはは @Fururu1

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