午前0時、ドレスを脱いで。

早坂綴

午前0時、ドレスを脱いで。

私はこの国のお姫様。

国王であるお父様と、お母様の間に生まれた一人娘。

それはそれは大切に育てられたと思う。まるで、壊れ物に触れるみたいに、丁寧に。優しく。

後継が生まれなかったことを悩んではいたものの、それでも愛情は注がれた。

メイドのサラをはじめとして、私は愛されている。

そう、断言できる。

けれどそれは、人形を愛でるようなものだ。この国のたった一人の王女である、エレナお姫様を愛しているだけ。

私自身を愛してなんか、いない。

「さすがは、エレナ様」

「王女らしい、可憐で、美しいお姫様ですわね」

「本当に、素晴らしい方です」

そんな言葉が降り注ぐたび、私は貼り付けた笑顔で笑う。

お姫様らしく、口元に手を当てて。目は優しく細めて上品に。

「ありがとう」

そう囁くのだ。

そんな自分も、この世界も嫌いで仕方がない。

自分ではない誰かになりきることも、他人を羨んでばかりも自分も。

市場で口を開けて、大声で笑う人々が羨ましい。

誰に気を使うこともなく、ただ幸せそうに笑う姿が羨ましい。

私にそんなことは許されていない。

笑う時は、必ず口元に手を添える。ふわりと花びらが宙を舞うように、品に気を使って微笑む。

小さい頃から、ずっと、身に刻まれ続けた。

もちろん、走ることも、人前で泣くことも全てしてはならない。体型維持のためにスイーツだって、特別な日にしか口にすることができない。

大好きだった乳母が亡くなった時だって、泣くことは許されなかった。

「あなたはこの国のお姫様なのよ。人前で泣くなんて、はしたないことはやめなさい」

この言葉は、今でも耳を疑う。

けれど、当時初めて見たお母様の皺が寄った眉に、

「はい」

と頷く以外の選択肢しかなかった。

たった一人の大切な人を失って、何をするにも全身が痛かった時。その気持ちが形を成して、涙となることも許されなかった。

そのせいか、私は泣くことが出来ない。

どんなに悲しいことが起こっても、苦しくても、涙なんて出ない。

そうして私は、お父様とお母様と人々が望んだ、お姫様になった。

美しく、可憐で、品があるエレナお姫様に。

そんな日々が、私が、憎くて、苦しくて仕方がない。

生まれてからキラキラと煌びやかなものに囲まれて、贅沢な暮らしをしているのに、さらに何かを求めてしまうのは、あまりにも貪欲すぎるだろうか。

そう、ため息をついた。

私の周りには、何人ものメイドが忙しく動き回っている。

今日も、だ。

今日も私は出かけなければならない。

どこかの王子と婚約するための、舞踏会へ。

「わぁ……! お美しいです、エレナ様」

「本当に! どの国の王子様も、エレナ様を放っておかないでしょう」

頬を紅潮させたサラをはじめとして、メイドたちは綺麗に着飾った私を褒める。

「そうかな」

「もちろんです!」

目の前の鏡に映る私は、そう。エレナお姫様、そのものだった。

くるくるにウェーブを成した髪の毛は、ハーフアップに結われ、真っ赤で派手なドレスにはたくさんのジュエリーが取り付けられている。

童話に登場するお姫様そのものだった。

そんな自分を見ていられなくて、私は俯いた。

けれどそんな反抗は意味もなく、舞踏会の時間は刻一刻と迫ってくる。

たくさんの着飾った人で溢れ、月光さえも遮ってしまうほどの光に満ちた世界へ。偽りと甘い匂いだけが漂う、その世界へ。

私もその中の登場人物の一人にならなくてはいけない。

「しっかりね。エレナ」

「エレナ様、いってらっしゃいませ」

お母様とメイドたちに見送られながら、私はお城を発った。

そう私に告げる表情は、あまりにも純粋だ。

そして、その瞳が、苦手だ。

私を過信して、心の底から期待をしているのがひしひしと伝わってくる。

その目は、私を、私自身を殺せと言われてるみたいで。

そしていざ、会場の扉の前に立つと。

その丁寧に飾り付けられた派手な扉を開くと。

「っ」

意図せず、足が怯んだ。

扉を開けた先に広がっていたのは、やはり地獄だった。

私と同じように着飾られた衣装を身に纏った人々が、ワイングラスを片手に談笑している。誰も彼もが本音を押し殺して、この眩しい世界に酔っていた。

そんな人々で、会場は溢れかえっている。

やはり、私はここにいたくない。

ここに、いられない。

そう思った。

お姫様らしく上品で、可愛らしく。そして男性に気に入られるように、愛想も良くして……。それが、求められているエレナお姫様だ。

そのエレナお姫様を失ってしまったら、私にはもう何も残らない。

そう、分かっているのに。

どうしても、この一歩が踏み出せない。

だって、私が憧れているのはこんな世界なんかじゃないから。

お屋敷の一角にある部屋で、庭の花を眺めながら、静かに読書をしたり。

軽やかなワンピースを纏って、駆け回ったり。

時には好きなメロディーをピアノで奏でたりして。

好きな人と、秘密の視線を交わしたりなんかして。

そんな世界に、憧れている。

そんな平凡な日々を望んでいる。

「こちらです」

案内の男性が、扉の前で凍りついたように動かない私を呼ぶ。

その声に私は顔を上げた。

視線を上げると、ふと会場の中にいた男性と目が合った。何かに取り憑かれているような、欲に塗れた瞳が、そこには合った。獲物を狙うような視線だった。

「……やっぱり」

「はい?」

「やっぱり、私には無理よ」

「エレナ様っ!」

どこかの国の王子に気に入られるように。

国の評判を落とさないように。

そんな風にエレナを演じるなんて、いやだ。

そして気がつけば、私は真っ赤なドレスを持ち上げて、逃げ出していた。

もう、限界だったのだと思う。

私は私らしくいたい。

これ以上、自分を殺したくない。殺せない。

好きなものは好きと叫んで、可笑しいことはたくさん笑って、好きな時に涙を流せるように。

今からお城に帰れば、きっと怪しまれる。

どこかテラスにでも出て、月を見上げよう。靡く風を感じて、遠くからの喧騒に耳を傾けて。そうして、またあの窮屈なお城に帰るんだ。

そう、長い長い廊下を一人で歩く。

足を踏み出すたび、ヒールが床に当たって、短い旋律を奏でる。カーペットの感触がするたびに、私の運命を恨んだ。

そんな時だった。

ポロンッ

まるで暗闇に漂う海月のような、美しいガラス玉のような音の旋律。一音だけ奏でられたその音に、私の足は止まる。

ピアノの音だった。

点と点が繋がるように、その音は美しいメロディを奏でだした。

なんて、綺麗なんだろう。

胸に抱いていた邪念なんて消え去って、ただその音に惹き込まれる。

これほど素敵な音は聞いたことがない。どんな音楽家が奏でた音よりも、綺麗だ。

誰が、奏でているんだろう。

私は思わず、音のする方へ引き寄せられていった。

その音は、ある一室の中から聞こえた。

この宮殿の中では質素で、誰も出入りしていないように見える、この部屋。それも相待って、暗い雰囲気を漂わせている。扉の持ち手には、月光に反射して埃が舞っていた。

ここには誰もいない。

私を守る騎士も、案内人も。

ずっと、誰かに守られてきた日々で、こうして一人で行動するのは初めてだった。

怖い。けれど、それ以上の胸の高鳴りに、私は迷うことなく扉を押した。

「……わっ」

思わず声が喉をついた。

想像もしなかった光景に、息を呑む。

ただ、綺麗だった。

扉の向こう側に存在していたのは、まるで美術品のように、繊細で、美しい空間だった。

私の憧れていた世界が、広がっていたのだ。

気がつけば、視界がぼやけていた。涙が私の瞳をくるりと一周し、形を成して床へ落ちていく。

泣いていた。

普通の人みたく、泣いていた。

そこは、とても広い空間だった。舞踏会の会場と同等の広さすらあるかもしれない。その中に、ポツンと置かれているピアノ。

真っ黒なピアノの前には、タキシードを纏った男性が座っていて、優しく鍵盤を撫でている。光も何もないこの部屋は、窓から注ぎ込まれる月光だけが頼りだった。

その僅かな光が、ピアノに反射して、まるで水底に沈んでしまったかのようだった。

心地の良い、春の真夜中の夢を見ているみたい。

その中で、今もずっとピアノの美しい旋律が響き渡っている。

その男性の素性だって知らないのに、私はまるで魔法にでもかかったかのように動けなくなった。先ほどまでの舞踏会とは全く違う。静かで、綺麗で、澄んだ空気に溢れている。

この時だけは、自分にかけられていた呪いが解けたような気がした。

そして、男性の指先が鍵盤から離れる。

パチパチパチ

手が痛むほど、拍手を送った。

こんな私は、知らない。

人前で涙を流して、音が出るほど手を合わせるなんて。

そして、男性がゆっくりと私を振り返った。

窓から差し込む月光が、男性の顔を鮮明に映し出してはくれない。

けれど、その高い鼻筋や、整った唇が視界に入る。光を溜めて柔らかく動く髪は銀色で、その瞳は吸い込まれそうなほど青かった。

「おや、エレナお姫様ではございませんか」

その男性は私を見ると、綺麗に、そして静かに笑った。どこか懐かしいその微笑みが私の心臓に負荷をかける。

ドキン ドキン

と心臓が早く鼓動する。

こんな風に綺麗に笑う男性は初めてだ。こんなにも純粋に笑いかけられたことなんて、合っただろうか。

「素晴らしい演奏でした。……それと、私のことをご存知なのですか?」

「もちろんです。エレナお姫様を知らない人は、きっといませんよ。ところで、どうしてここに? 舞踏会は始まったばかりではないですか」

彼は小さく笑い声を落とした後、私を見上げた。

その優しい瞳が、私の心を溶かしていく。夢見心地のまま、私は口を開いた。

私はこの国のお姫様だ。

だから決してこのようなことは口にしてはならない。けれど、魔法にかけられた私は、不可抗力だった。

「嫌いなんです」

ハッキリと、そう告げた。

見開かれた瞳が視界に映る。

「昔からずっと、嫌いなんです。舞踏会という、偽りで染まった明るいところが。私には性に合わないんです。限界で、逃げしてしまいました」

「それは、驚きました。女性はみな、舞踏会がお好きなのだと」

「いいえ、そんなことはありません。私には、お姫様の肩書きが重いんです。いずれ、婚約を取り付けられることも、怖くて仕方ありません。自由に生きたいだけなのに」

嘲笑をこぼす。

今晩、お城に帰って、お父様とお母様になんと言われるだろうか。きっと逃げ出したことをきつく叱られて、またお姫様の肩書を背負わされるだろう。

そう考えただけで、この酔いからも覚めてしまいそうな気がした。魔法から解かれたように、ジュエリーで纏った体が重くなる。

けれど、この男性はまた私に魔法をかけた。

「わたくしもですよ。わたくしも、あのような場は苦手でして。今日も逃げ出してしまいました。お姫様と一緒です」

「そうなのですか?」

驚いた。

私以外にも、あの場所が苦手な方がいるなんて。

身なりからして、高貴な方だろうに。

「はい。何もかも捨てて逃げ出したいと思うことも、よくあります。だからこうして今日も、人気のない場所で、ピアノを奏でておりました」

「……!」

男性から語られる言葉は、私の心に全て飛び込んできた。

今まで、数え切れないくらいこの運命を恨んできた。けれど、他人に話すことなんて出来なくて、寒くて震えていた夜。

けれど、このように同じ心を持つ方がいたなんて。

「私たち、似たもの同士のようですね」

「そうですね」

そうして、私たちは笑い合った。

口元に手を当てることもなく、声を出して。

イアンという男性は、私よりも二つ上の方らしい。そして私と同じ傷を持っていた。

イアンは舞踏会で私を見かけたこともあったという。

「どこか他の女性とは違う、美しい雰囲気に、目を惹かれました」

そう端正な顔立ちのイアンから放たれる言葉に、私の心臓は高鳴った。イアンの唇から放たれる美しいという言葉は、嫌ではなかった。

むしろ、嬉しかった。

そして、その笑い声も尽きるころ、イアンは私の目の前で膝を立てた。余裕のある笑みで、静かに瞳に弧を描いたイアンは、不思議なくらいに魅力的に映った。

急なことで驚く私をよそに、イアンは胸に手を当てて、もう片方の手を私に差し出した。

「エレナお姫様」

「は、はい」

「あの世界から、わたくしと共に逃げませんか?」

彼の後ろから、揺蕩うような綺麗な月の光が差し込んだ。


そうやって、私とイアンは出会った。

私はあの国のお姫様。けれど今となっては、もう過去のこと。

これはエレナお姫様がお城から姿を消した、二日前の晩の出来事だった。


あの晩のことは、今でも思い出す。

全てが、私が作り出した幻想のように感じていた。

けれど、違ったのだ。

惜しむように私から手を離したイアンは、二日後の晩にお城に現れた。私の部屋の窓から、まるでお伽話のワンシーンのように。

広い部屋の中で一人いた私は、響いたノック音に体を震え上がらせた。けれど、その正体が彼だと分かった瞬間、嬉しさが形となって、涙となった。

「お迎えに上がりました」

あの晩のように、後ろから月光が差し込んでいて、またイアンの顔を見ることができない。肝心な顔の部分は不明瞭で、けれど不思議と惹きつけられた。

妙に落ち着いたその喋り方は私に魔法をかけた。

「本当に、来てくれたのですね。てっきり、騙されたのかと」

差し伸ばされた手をすぐに取らずに、私はそんなことを言った。そう思っていたこともまた事実だった。一夜の夢に惑わされたのだとすら思っていたのだから。

けれど、イアンはこうして現れた。

銀色に光る髪を靡かせながら、吸い込まれそうな青い瞳で私を見つめる。

「ははっ」

乾いた、だけど温かい笑い声が響く。

「わたくしは本気でした。それとも、エレナ姫は違うと?」

「まさか」

視界の隅で、意地悪に口角を上げる。

その仕草に、私は胸がまた高鳴った。

そんな顔を私に向けるなんて。そんな意地悪で、ずるい笑い方を。

そして、私は手を取った。

首に掛けていた宝石のネックレスをベットに投げ捨てた後、私はイアンと共に窓の外から飛び出した。

不思議と怖くなかった。

ようやく自由になれた気分だった。

私とイアンを繋ぐその手の温かみが、ただ愛おしかった。

「バイバイ、エレナお姫様」

これが、エレナお姫様としての最後の言葉。

美しくも、上品でも、可愛らしくもない、ただの別れの挨拶。エレナとしての始まりの言葉だった。


それからは二人で、色んな場所を転々とした。

ある時は、神殿が多く聳え立つ国へ。

ある時は、漁業が盛んな活気のある国へ。

ある時は、市場が有名な国へ。

そうやって転々として、私は何もかも脱ぎ捨てた。走ることができないドレスなんて早々に売って、軽いワンピースを買うお金にした。

幸いドレスは高く売れて、余ったお金でパンを買った。

何も手の加えられていないパンは、ほのかに甘くてふんわりしていて、舌でなぞるとすぐに溶けていった。

お城で出された甘いパンよりも、美味しかった。

今までのどんな日々よりも危険で、そしてずっと胸の高鳴りが抑えることができない時間を過ごしている。

そして、転々としていくうちに、私たちはもといた国へと戻ってきた。

あのお城が見える場所に、家を借りて、そこで二人で暮らしている。

「エレナ。まだお城に未練があるのかい」

不意に感じた体温に、私はゆっくりと振り返った。

高くもなくて、低くもない。けれど、イアンの王子様のような見た目とはギャップのある声が心地いい。耳に優しく触れるその声を、頭の中で反芻させた。

「いいえ。そんなことないわ」

小さな家の窓から覗く、白く輝いたお城を見据える。

街から見ると、本当に全てが大きくて、眩しい。そんなところに数年前までは住んでいたのだと思うと、身震いしてしまう。

きっと、今の私なら耐えられない。

こんなにも自分を曝け出しても平気な居場所がある。私を肯定してくれる人がいる。あの城ではもう、満たされない。

「そうか。それは良かった」

イアンが私の隣に腰掛ける。

ふわっと漂う、花びらのような甘い香りに手が痺れた。

「もう、あの場所から抜け出して、二年ほどか」

「そうね。あっという間だった。ありがとう。逃げようなんて言われた時は、揶揄われるのかと思ったけれど。こうして、私は私の人生を歩めてる」

私はそう、イアンを瞳の中に捉えた。

ずっと不明瞭だったイアンの素顔は、それはそれは見惚れてしまうほどに整っていた。太陽の下で意地悪そうに微笑めば、花が咲くようで、月の光の下で言葉を紡げば、美しいピアノの旋律を奏でているようだった。

その大きな、魔性の瞳に見つめられてしまえば、私は冷静を保つことで精一杯だった。

心臓が煩く鳴り響いて、平生を保つことすらままならない。

あれから、王女が姿を眩ましたという事実は、海さえも渡って広まった。

管理不足だったお城の人を責める者、私を心配する者。度々号外にもなって、暫くは街を歩くことすら出来なかった。

噂が根付くたび、私たちはまた一つ大好きな国に別れを告げた。

けれど、どれほど広く燃え広がった火でも、いずれ時間が炎を消し止める。

王女と貴族の失踪という物語は、もう幕を閉じかけていた。

そうしてあの日から、時間は溶けていった。

エレナお姫様だった私を、笑って振り返るくらいには時間が過ぎ去った。

そんな日々を振り返ってみると、自然と笑みが溢れる。そんな私を見て、イアンは小さく笑った。

「いや、僕の方こそだ。あの夜エレナと再会して、こうして二人で過ごせているなんて。人生何があるか、分からないものだね」

「……え?」

イアンは、柔らかく目を細めて、また視線を夜の闇へと溶かした。

まるで、何事もなかったかのように振る舞う様子に、音を上げたのは私の方だった。

「再会……って? イアンとは、あの舞踏会の晩に初めて出会ったはずよ」

「エレナはもう覚えていないと思うよ」

思わず声を上げそうになったのを抑える。

やっぱり。

何処かで感じていた違和感が、ようやく形になる。

私とイアンは、あの晩が初対面ではなかった。

イアンが初めて微笑んだ時の、あの懐かしさ。初めて出会う男性であったはずなのに、恐怖よりも胸の高鳴りが勝っていた。

ずっと、あの月の輪が私たちを導いてくれたのかと思っていた。出会うことは運命だったかのように、二人揃って魔法にかけられているのだと。

でも、もしも、違うのだとしたら。

「知りたい。教えて」

あの辛かったエレナお姫様としての人生の中に、もしもイアンがいたのなら。

あの記憶を、もう少しだけ美しくできる。

イアンは私を見つめると、困ったように眉を寄せた。けれど、その美しい顔立ちは変わりなくて、私の方が先に目を逸らしてしまった。

「あれは……。あれは、初恋だった」

ドクン、と心臓が乱れたような気がした。

思わずイアンを振り返ると、イアンの指先が頬に当たった。柔らかく目を細めて、まるで何かを愛おしいというような瞳が、視界に映る。

「一度、城に招かれたことがあったんだ。だが、僕は両親とはぐれて、あの広い庭を一人で彷徨っていた。当時の僕は、弱くて、一人が怖くて、泣いてしまったんだ。けれど、そこに一人の女の子が現れた。誰だと思う?」

「さ、さあ」

「エレナお姫様、君だよ」

「っ!」

頬に熱が集まって、きっと私は情けない顔をしていると思う。

けれど、イアンの言動一つ一つに体は反応する。

まるで、その続きを求めているかのように。

「エレナお姫様は僕にこういったんだ。『迷子? 泣かないで、一緒にかくれんぼしよう』って。そう、優しく声をかけてくれた人は、エレナお姫様が初めてだった。権力者争いで、日々兄たちにいじめられていたからね。嬉しかったよ。そうして、日が暮れるまで遊んだんだ。涙なんかとうに枯れて、笑顔で走り回るお姫様の綺麗さに、心を奪われた」

「そんな日が、あったのね。覚えていなくて、ごめんなさい」

なんて残酷で綺麗な記憶なのだろう。

兄たちにいじめられていたイアンと、王女という言葉に縛り付けられていた私。

私たちはもう、とうの昔に出会っていたなんて。

エレナお姫様だった私も、大地を駆け回って。そんな、お姫様じゃないエレナだった時が、少しでもあったなんて。

こんな魔法のような物語があっても良いのだろうか。

「ううん。僕は今、こうしていられるだけで嬉しいんだ。だってエレナは知らないだろ? 君が扉を開けて、姿を現した時の、僕の心の揺れようを。どれだけ、嬉しかったか。僕のピアノに涙する君を、どれだけ抱きしめたかったか」

イアンが、私の頬に置く手に力を込める。

もう視線の行き先は、イアンしかない。

逃げられないと、本能的に悟った。目の前に広がる彼の顔に、小さく語りかける。

「だから、逃げようと言ってくれたの?」

「泣いていた君を早く連れ出してあげたかった。僕の方が、君を笑わせられるからね」

イアンは、頬に当てていた手の力を緩めた。

そして、お城を見据えながら静かに微笑んだ。

「随分、自信があるのね?」

意地悪だと分かっている。

可愛くないとも、分かっている。

素直に、喜べる人の方が、いつだって可愛らしい。私もそう教育させられてきた。

でも、あなたが好きになったのは、こういう私なんでしょう。

その綺麗な顔に降り注ぐ月光を眺めながら、そう告げた。

そんな私を見ると、イアンも意地悪な笑みを浮かべた。

眉を少しあげ、大きな双眸を少し見開いて。

「ああ。だから、これからも共に逃げ続けよう。そして、ずっと二人で過ごすんだ」

ピアノの旋律が、私をイアンの元へと運んだ。

そして、イアンは私を縛り付けていたものから、解放してくれた。何があっても静かに微笑んで、手を取ってくれる。

私たちが出会ったのは、ただの偶然ではないのかもしれない。ただの偶然と済ますには、あまりにも非現実的だ。

そしてイアンは、私の指先を絡め取り、優しいキスを降らした。

窓から漏れ出る月光が、ゆらゆらと揺蕩うようにそのワンシーンを照らしていた。

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午前0時、ドレスを脱いで。 早坂綴 @hayasaka_tsuzuri

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