秋の光の中で

文化の学び舎の計画が進み始めてから一週間後、エドマンドとエレーヌは領地の巡視の途上にあった。秋の陽光が野原を黄金色に染め、穏やかな風が二人の髪を揺らしていた。


「この丘からなら」エドマンドが手で遮りながら遠くを指さす。「領地の大半を見渡せます」


エレーヌは馬上から景色を眺めていた。緑の谷間に集落が点在し、川が銀色の帯のように大地を縫っている。畑では、収穫を前にした作物が風に揺れていた。


「美しい土地ね」彼女の声には深い愛着が滲んでいた。「来たばかりの頃には、気づかなかった魅力がたくさん」


二人は馬を並べて丘を下り始めた。通りかかる村人たちが、恭しく、しかし温かな笑顔で挨拶を送る。もはやそこには、最初の頃のような緊張感は見られなかった。


「領主様」一人の農夫が声をかけた。「学び舎のことを聞きました。私の息子も、是非」


エレーヌは優しく頷いた。「もちろん。扉は誰にでも開かれているわ」


しかし、その穏やかな空気を破るように、一人の騎士が急いで近づいてきた。


「エレーヌ様」騎士は息を切らせながら告げる。「ロンドンからの使者が」


エレーヌの表情が引き締まった。「どんな用件?」


「詳しくは存じませんが、重要な書状を」


エレーヌはエドマンドに向き直った。「申し訳ないけれど、急いで戻らなければ」


「私も同行させてください」


二人は馬を返し、急ぎ足で館に向かった。途中、エドマンドはエレーヌの横顔に浮かぶ不安の色を見逃さなかった。ロンドンからの使者は、めったに良い知らせをもたらさないことを、彼も知っていたのだ。


館に到着すると、厳めしい表情の使者が待っていた。エレーヌは書状を受け取り、その場で開封する。読み進むにつれ、彼女の表情が徐々に曇っていった。


「どういった...?」エドマンドが恐る恐る尋ねる。


エレーヌは深いため息をつき、ゆっくりと顔を上げた。「私に、新しい任地が与えられたの」


エドマンドの胸に、冷たいものが広がった。「新しい...任地?」


「北の辺境の城塞」エレーヌの声は、感情を抑え込もうとするかのように平板だった。「そこの守備隊を率いるように、との命令」


沈黙が二人を包む。窓から差し込む陽光が、まるで皮肉であるかのように明るく室内を照らしていた。


「いつまでに?」エドマンドの声が、かすかに震えている。


「一月以内に」エレーヌは書状を机の上に置いた。「これまでの改革は、高く評価されたそうよ。だからこそ、より重要な任務を...」


その言葉は、誰に向けられたものなのか、明確ではなかった。


「でも、学び舎は」エドマンドが言った。「そして、この土地との約束は」


エレーヌは窓際に立ち、遠くを見つめた。「分かっているわ。でも、これは命令。騎士として、従わねば」


その時、扉が開き、ロベールが入ってきた。彼もまた、事態を理解したような表情を浮かべている。


「準備を始めましょうか」彼が静かに尋ねた。


エレーヌは小さく頷いた。「ええ。でも、その前に」彼女はエドマンドの方を向いた。「今夜、ゆっくり話をさせて」


エドマンドは無言で頷いた。陽が傾き始め、館の影が長く伸びていく。二人の築いてきたものは、この影のように、今まさに違う形に変わろうとしていた。


その夜、二人は修道院の薬草園で言葉を交わしていた。月明かりが、ハーブの葉を銀色に染めている。ここは、二人の物語が始まった場所だった。


「北の辺境は」エレーヌが静かに語り始めた。「スコットランドとの緊張が高まっているの。経験ある指揮官が必要とされていて」


「理解できます」エドマンドが言った。「エレーヌ様の手腕が認められたからこそ」


「でも」エレーヌの声が感情を帯びる。「この土地での仕事は、まだ途中なのに」


エドマンドは月を見上げた。「私たちが始めたことは、きっと」


「続けていって」エレーヌが彼の言葉を継いだ。「あなたとマチルダ、そしてロベールの一部の騎士たちを残していくわ。学び舎も、計画通りに」


「はい。必ず」


二人の間に、言葉では表現できない何かが流れていた。それは惜別の情であり、未来への希望であり、そして名付けられない感情だった。


「エドマンド」エレーヌが月明かりの中で彼を見つめた。「あなたと出会えて、本当に...」


その時、遠くで夜警の角笛が鳴った。現実の世界が、二人を呼び戻すかのように。


「明日から」エレーヌが気持ちを取り直すように言った。「引き継ぎの準備を始めましょう」


エドマンドは黙って頷いた。薬草の香りが、夜風に乗って漂っている。始まりの場所で、新たな展開が告げられた夜。二人の心に去来する思いは、月明かりのように静かで、そして深いものだった。


翌朝、エレーヌの異動の知らせは村中に広がっていた。文化の学び舎の建設現場では、作業の手が止まり、人々は不安げに議論している。エドマンドが現場を訪れると、エセルレッドが杖をつきながら近づいてきた。


「若様」老人の声には深い憂いが滲んでいた。「このまま、全てが元に戻ってしまうのでしょうか」


「いいえ」エドマンドは強い口調で答えた。「エレーヌ様は、私たちを信頼して任せていかれるのです。その信頼に応えねば」


その時、馬蹄の音が近づき、エレーヌが到着した。彼女は馬から降り、集まった人々に向かって話し始めた。


「皆さん」彼女の声は凛としていた。「私は確かにこの地を離れます。しかし、ここで始めたことは、決して止めはしない」


マチルダが通訳を始める。人々は固唾を呑んで聞いている。


「文化の学び舎は、予定通り開設されます。エドマンドが中心となって運営し、ロベールの指揮下の騎士たちが治安を守る。そして」彼女は一瞬言葉を置いて、「私も定期的に戻ってきて、進捗を確認します」


最後の言葉に、人々の表情が明るくなった。エドマンドは、エレーヌの賢明な判断に感心した。完全な別れではなく、継続的な関与を約束することで、人々の不安を和らげたのだ。


「さあ」エレーヌが続けた。「残された時間で、できるだけのことをしましょう」


その日から、館では矢継ぎ早に準備が進められた。エレーヌとエドマンドは、今後の運営について細かな打ち合わせを重ねた。


「この記録は」エレーヌが一冊の帳簿を示す。「税の減免措置を記したもの。状況に応じて柔軟に」


「はい。村ごとの特性も考慮して」


「そしてこれは」彼女が別の書類を取り出す。「学び舎での教育内容の計画。あなたの意見を」


二人は机に向かい、夜遅くまで話し合った。それは単なる引き継ぎ以上のものだった。二人が共に描いた未来の青写真を、より確かなものにする作業。


「心配ですか?」エドマンドが尋ねた。


エレーヌは窓の外を見やった。「ええ、正直に言えば。でも」彼女が彼を見つめる。「あなたがいるから」


その言葉に、エドマンドの胸が熱くなった。二人は、もはや言葉以上のものを分かち合っていた。


準備作業の合間、エレーヌは各村を回り、人々に直接説明して回った。その姿を見守りながら、エドマンドは彼女の中に芽生えた、この土地への深い愛着を感じ取っていた。


「エドマンド」ある夕暮れ、エレーヌが彼を呼び止めた。「最後に、もう一度あの丘に」


二人は、領地を見渡せる丘に向かった。夕陽が地平線に沈もうとしている。


「初めてここに来た時」エレーヌが懐かしむように言った。「私には単なる征服地にしか見えなかった。でも今は」


「何が見えますか?」


「家よ」彼女の目に涙が光った。「必ず、戻ってくる場所」


エドマンドは静かに頷いた。夕陽が大地を赤く染める中、二人は並んで立っていた。別れは近づいているが、それは終わりではない。新しい物語の、また別の一章の始まりなのだ。


出立の朝を迎えた館は、静かな緊張に包まれていた。早朝の光が中庭を照らし、露が石畳の上で静かに輝いている。エレーヌの荷物を積んだ馬車が準備を整え、騎士たちが装備を確認している。


「全ての準備は整いました」ロベールが報告する。「いつでも出発できます」


エレーヌは頷き、館の中を最後に見回した。一月の間に、ここは彼女にとって単なる任地以上のものとなっていた。


中庭には、村人たちが三々五々と集まってきていた。エセルレッドを先頭に、これまでエレーヌと関わってきた人々が、静かに別れを告げに来たのだ。


「領主様」老人が杖をつきながら一歩前に出る。「短い間でしたが、本当にありがとうございました」


マチルダが通訳を始めようとしたが、エレーヌは手で制した。そして、ゆっくりと、たどたどしい古英語で答えた。


「私こそ、感謝しています」


その言葉に、村人たちの目が潤んだ。エレーヌが彼らの言葉を学ぼうとしてきた努力が、心に響いたのだ。


「皆様にお願いがあります」彼女は続けた。「エドマンドと共に、この地を守ってください」


一人、また一人と、村人たちが深々と頭を下げる。それは約束の印だった。


その時、修道院からブライアン神父が姿を見せた。手には小さな包みを持っている。


「これを」神父は包みをエレーヌに差し出した。「旅のお守りとして」


開いてみると、それは二人が共同で作成していた医学書の写本だった。まだ完成していない部分もあったが、これまでの成果が丁寧に記されている。


「完成を待って」神父が優しく微笑む。「また戻ってきてください」


エレーヌは写本を大切そうに抱きしめた。「必ず」


最後に、彼女はエドマンドの方を向いた。周囲の人々が、自然と距離を取る。


「エドマンド」彼女の声が小さく震えた。「あなたには、言葉では言い表せないほどの」


「分かっています」エドマンドが静かに答えた。「私も同じです」


二人の間に、短い沈黙が流れる。その中に、これまでの全ての記憶が詰まっていた。


「文化の学び舎を」エドマンドが言った。「必ず成功させます。そして」


「戻ってきた時に」エレーヌが言葉を継ぐ。「誇れる成果を見せてください」


朝日が高く昇り、出発の時が迫っていた。エレーヌは馬に跨がり、最後に館を、そして集まった人々を見渡した。


「行きましょう」


騎士団が動き出す。村人たちが手を振り、子供たちが走って後を追う。エドマンドは動かずに立ち、その背中が小さくなっていくのを見つめていた。


最後の曲がり角で、エレーヌが振り返った。遠く離れていても、二人の目が確かに合う。それは約束の瞬間だった。必ず、また会うという。そして、その時には新しい物語を携えて。


朝靄の中に騎士団の姿が消えていく。エドマンドの耳に、かすかな角笛の音が届いた。それは別れを告げる音であると同時に、新しい始まりを告げる音でもあった。

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