異なる空の下で
風見 悠馬
異なる空の下で
朝露が薬草の葉を潤す頃、エドマンドは静かに薬草園の畝の間を歩いていた。修道院の石壁に遮られた日の光は、まだ柔らかく、露に濡れた葉は宝石のように輝いていた。彼は慎重に足を踏みながら、昨日ブライアン神父から言付かった薬草を探していた。
「セージ、タイム、そしてローズマリー...」
エドマンドは心の中で復唱しながら、一つ一つの薬草を確認していく。昨日、村で熱病を患う子供が出たという知らせが入っていた。ブライアン神父は彼に、伝統的な解熱用の調合薬を準備するよう頼んでいたのだ。
その時、遠くから馬のひづめの音が聞こえてきた。普段なら耳を貸すこともない音だったが、この早朝の静けさの中では、それは異様に響いた。音は次第に大きくなり、やがて修道院の正門に到着したようだった。
「誰か!」
女性の声が中庭に響き渡る。フランス語なまりの強い、しかし力強い声だった。エドマンドは薬草を摘むのを中断し、声のする方を振り向いた。
そこには一人の若い女性が立っていた。金髪を後ろで束ね、実用的な騎士の装備に身を包んでいる。背筋を真っすぐに伸ばし、周囲を見渡す姿には威厳が感じられた。
「私はエレーヌ・ド・ブリュッセル。この地の新しい領主だ」
彼女は古英語で、ゆっくりとだが、はっきりとした口調で言った。その声には、少し不自然な抑揚があったが、言葉の意味は明確に伝わってきた。
エドマンドは一瞬躊躇した。目の前の人物が、噂に聞いていた新しい領主だとは想像していなかった。しかし、すぐに我に返り、丁寧に答えた。
「修道院の写字生、エドマンド・オブ・サマーセットと申します」
「写字生?」エレーヌは眉をひそめた。「その服装からすると、貴族の家の出のようだが」
「はい、確かに...」エドマンドは言葉を選びながら続けた。「父の代からこの地に住む家の者です」
「そうか」エレーヌは薬草園を見渡しながら言った。「この修道院は重要な拠点になりそうだ。特にこの薬草園は...」
彼女は畝の間を歩き始め、様々な薬草を観察し始めた。その動きは素早く、効率的だった。
「待ってください」エドマンドは思わず声を上げた。「その靴で土を踏むのは...薬草にとってよくありません」
エレーヌは立ち止まり、エドマンドをじっと見つめた。「効率的な管理のためには、すべてを把握する必要がある。それに、単なる草ではないか」
「単なる草ではありません」エドマンドは、普段の穏やかさを保ちながらも、芯の通った声で答えた。「これらは何世代にもわたって、この地の人々の命を救ってきた大切な薬草です。今も、村の子供のために必要としている方がいます」
エレーヌは少し驚いたような表情を見せた。彼女は一歩後ろに下がり、改めて薬草園全体を見渡した。
「確かに...私の考えが及ばなかったようだ。この土地には、まだ知らないことが多いということか」
その言葉には、わずかな苛立ちと共に、何かを認めようとする柔軟さが感じられた。エドマンドは、その反応に少しの希望を見出した。
「もしよろしければ」彼は慎重に言葉を選んで続けた。「これらの薬草について、お話しすることもできます」
朝日が少しずつ高くなり、薬草の葉は一層鮮やかな緑を帯びていった。二人の間に流れる空気は、まだぎこちなく、しかし何か可能性を感じさせるものに変わっていた。
昼過ぎ、エドマンドは村の広場に立っていた。朝の出来事から数時間が経ち、エレーヌの一行による領地視察が始まっていた。彼女の後ろには、ベテラン騎士のロベール・ド・モンフォールと、地元出身の侍女マチルダが控えている。
村の長老エセルレッドが、杖をつきながら広場の中央に進み出た。その表情には、長年この地を治めてきた者としての威厳と、新しい支配者を迎える緊張が混ざっていた。
「我らが村へようこそ」
エセルレッドは、ゆっくりと、しかし確かな声で言った。マチルダが素早くフランス語に通訳する。エレーヌは馬上から領民たちを見渡し、マチルダの通訳を待って答えた。
「この土地の民として、私を受け入れてくれることを期待している」
その言葉が通訳されると、群衆の間で小さなざわめきが起こった。エドマンドは、村人たちの表情に浮かぶ不安と期待を見て取ることができた。
エレーヌは馬を進め、広場の中央で降り立った。彼女の動作は軽やかで、鎧の重さを感じさせない。ロベールが彼女の後ろに立ち、警戒の目を光らせている。
「まず、税制の改革から始めよう」エレーヌは、事前に用意していた羊皮紙を取り出した。「これまでの慣習は複雑すぎる。もっと効率的な方法がある」
マチルダが通訳を始めると、エセルレッドの顔から血の気が引いていくのが見えた。エドマンドは思わず一歩前に出た。
「その件について」彼は静かに、しかし確かな声で言った。「我々の土地には、代々伝わる徴税の方法があります。それは季節ごとの収穫に合わせて...」
「古い方法は時として非効率的だ」エレーヌが遮った。彼女の青い目には決意が宿っていた。「新しい制度の下では、すべてが明確になる。それは領民のためでもある」
エドマンドは言葉を続けようとしたが、ロベールの鋭い視線を感じ、一瞬躊躇した。しかし、エセルレッドの疲れた表情を見て、再び口を開いた。
「確かに、新しい制度には利点があるかもしれません。しかし、私たちの慣習には深い理由があるのです。春の収穫前は支払いを緩め、秋の収穫後に精算する。それは、この土地の気候と、人々の生活に根ざしているのです」
エレーヌは眉をひそめた。彼女の表情には苛立ちと、わずかな興味が混ざっていた。「具体的に説明してみろ」
エドマンドは、季節ごとの収穫量の変動や、伝統的な共同体の相互扶助の仕組みについて説明を始めた。村人たちは静かに、しかし熱心に耳を傾けている。エレーヌは時折、鋭い質問を投げかけた。
日が傾きはじめ、広場に長い影が伸びていった。エレーヌは最後にもう一度、群衆を見渡した。
「分かった」彼女はようやく口を開いた。「新制度の導入は段階的に行うことにしよう。マチルダ、その旨を伝えてくれ」
その言葉が通訳されると、村人たちの間から安堵のため息が漏れた。エセルレッドは深々と頭を下げ、エドマンドに感謝のまなざしを向けた。
エレーヌは馬に戻りながら、エドマンドの方を振り返った。「修道院の写字生、明日、お前に話がある」
夕暮れの空が赤く染まり始める中、村人たちはゆっくりと家路につき始めた。エドマンドは広場に残り、沈みゆく太陽を見つめながら、明日の会話に思いを巡らせた。変化は確実に始まっている。それが良い方向に向かうかどうかは、これからの努力次第なのだろう。
修道院の医務室は、午後の陽光に満ちていた。ブライアン神父は窓辺の作業台で、朝方エドマンドが集めた薬草を丁寧に束ねている。その傍らには、昨日から熱に苦しむ村の子供が、今は平穏な寝息を立てていた。
扉が開き、エドマンドが入ってきた。その後に続いたのは、今度は騎士の装備を脱ぎ、質素な上等な布地の衣装に着替えたエレーヌだった。
「お二人とも、よくいらっしゃいました」
ブライアン神父は作業の手を止め、穏やかな笑顔で二人を迎えた。彼の表情には、長年の経験から来る深い洞察が宿っていた。
「昨日の子供の熱は下がりましたか?」エドマンドが尋ねた。
「ああ、お前が集めてくれた薬草が効いたようだ」神父は寝台の子供を見やりながら答えた。「伝統的な治療法は、時として最も確かな効果を持つものだ」
その言葉に、エレーヌが興味深そうに眉を上げた。「その薬草の知識、どこから得られたのですか?」
「この地に代々伝わる知恵です」エドマンドが答える。「修道院では、その知識を記録し、研究してきました」
「記録と研究...」エレーヌは考え込むように言葉を繰り返した。「私の故郷でも、アラビアの医学書を参考に、新しい治療法の研究が進められています」
ブライアン神父は、二人の会話に耳を傾けながら、静かに微笑んだ。「知識は、時として異なる道を通ってきます。しかし、その目指すところは同じ。人々の健康と幸福です」
エレーヌは窓の外を見やった。そこには、薬草園で働く修道士たちの姿が見えた。「昨日の税制の件で、私は早急すぎたかもしれません」
「いいえ」エドマンドは静かに答えた。「改革の必要性は理解しています。ただ、この土地には...」
「この土地なりの知恵がある」エレーヌが言葉を継いだ。「それは認めよう。だが、新しい方法も必要だ。この修道院のように、古い知恵と新しい知識を...」
「組み合わせることができるかもしれません」エドマンドが言葉を完成させた。
二人の視線が交差した瞬間、そこには昨日までの対立とは異なる、何か新しい可能性が垣間見えた。
ブライアン神父は作業台から離れ、古い本棚の前に立った。「この修道院には、様々な時代の知識が集められています。古いものも、新しいものも」
彼は一冊の写本を取り出した。「エドマンド、これは最近のフランクの修道院から送られてきた医学書の写本だ。ラテン語への翻訳が必要なのだが...」
「私も手伝わせていただけますか?」エレーヌが一歩前に出た。「母国語での理解は、より正確な翻訳の助けになるかもしれません」
「それは...」エドマンドは少し驚いた表情を見せた。「ありがたい申し出です」
陽光が斜めに差し込み、部屋の中に柔らかな影を作っていた。寝台の子供が小さく身動ぎし、穏やかな寝顔を見せている。
「明日から、一緒に作業を始めましょう」エドマンドが提案した。「写本室を使って」
エレーヌはうなずいた。彼女の表情には、昨日見せた鋭さの中に、新しい好奇心が混ざっていた。
ブライアン神父は、再び薬草を束ねる作業に戻りながら、密かに満足げな表情を浮かべた。時として、対立するものの間にこそ、最も価値のある出会いが生まれるのだ。夕暮れの光が、静かに医務室を包み込んでいった。
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