東京都如月駅高架下、ハードボイルドな異能力者は左手でコーヒーを嗜好する。

青葉凉

プロローグ




「貴様のことを、心を読む悪魔ダンタリオンと呼ぶ輩がいるようじゃないか」

「ダンタリオン!! それは博識な方もいたものですね。作者不明のグリモワール、『ソロモンの小さな鍵』とも言われる『レメゲトン』をご存じだなんて」


 五十代の、幾千もの交渉に打ち勝ってきた証である皺が深く刻まれた顔に睨まれても、青年が物怖じすることはなかった。

 東京都新宿区、駅から離れた歌舞伎町とは反対の高層ビル五十階フロア一室。全面ガラス張りの窓からは、ネオン輝く新宿の夜景を一望することができる。


「では、秘密裏の会食にも関わらず秘書というかボディーガードというか……彼を控えさせているのはそのためで?」

 青年は薄ら笑いながら男の後ろを見た。正しくスーツを着てはいるが、その圧倒的な軍人のようなオーラと肉体は隠せていない。どう見ても後者の方だと判断できる。

 男がピクリと眉を動かし、左手に付けているロレックスの時計を触りだした。ホーランドシェリーブランドの、上質な生地でオーダーされたであろうスリーピーススーツ。社長という肩書き上間違ってはいないのだが、英国紳士を気取るには日本の頑固オヤジという貫禄に負けている。着物の方が、よっぽどその人相に合うと青年は観察していた。


「……何かあるといけないからな」

「私が心を読んだとしても、暴力で解決はできないでしょう」

 キッと睨まれる。それでも青年は明るい声で返し、全てを見透かしたように目を細める。男の持つワイングラスが微かな振動を見せた。

 防音の壁はウッド調で、赤を基調としたペルシャのカーペットにはガラステーブルを挟んでダークチョコレート色の革張りソファが置かれている。入り口側に座っているのは老年の男の方であった。


「では、本題に移りましょう。我がグループは来月の米国大統領訪日に関して主な手配を請け負っています。あなたはどの情報が欲しいのでしょう。時間? 場所? 警備?」

「食事だ」

「ほう」

 青年はワイングラスを置き、チーズをつまむ。これら全ては男が用意したものだが、何も彼は食品会社の社長ではない。

「食事に……が出るかどうか知りたい」

ですか。ワインにもよく合いますが、確かにアレルギーの一因として名が上がりますからね」

 熟成カマンベールを舌で堪能しながら、世間話の調子で言う。男の舌打ちが聞こえた気がした。誰が好き好んで他国の大統領のアレルギー事情など気にする必要があるだろうか。青年は、ではシェフに聞いておきましょうと言うと、グラスに指を添え、注いでくれるかな、とボディーガードに目配せをする。


「こいつは私のモノだぞ」

「では社長が自ら汲んで頂けますか? 私は一応招待客なので」

「……おい、このガキに注いでやれ」

 不服そうなボディーガードは、近づけばやはりそのガタイの良さが一目瞭然であった。慣れない太い指で白ワインの口が狭いグラスにゆっくりと注ぐ。そのとき、青年は微かに右の薬指でグラスの脚を叩いた。わずかに動いたことでもボトルのワインは行き場を失い、どっとテーブルに湖を作る。

「はは、不器用な方のようだ」

 袖口についた染みをハンカチで拭こうと、青年が下を向いた時だった。


 頭に、激痛。


 キラキラとしたガラスの破片が空中に舞った。目を丸くする老年の男の顔が小さな鏡に映る。入っていた白ワインが返り血のようにそこかしこに飛び跳ねる。そしてカーペットに、その赤をより染めるような血液が、ぼと、ぼと、と青年の頭から滴り出した。

 ボディーガードは、ボトルで彼の頭を殴ったのである。一瞬恐怖で動けなかった老年は、次第に口の端を吊り上げた。


「よ、よくやった、よくやったぞ!! コイツ、のこのこ敵地に単身で踏み込んできやがって!! 悪魔がよく言うわ!!」

 唾を飛ばさん勢いでそう吐き捨てる。

青原あおばらもこんな社会を知らない若造を『裏』に出しよって。子供は寝てる時間なんだよ」

 プレートにのったチーズやクラッカーを一掴みして口に入れ、一気にワインで流し込む。ビールでも飲んだようにぷはっと気持ちの良い声を上げた。


「ダンタリオンを知っているのは、名前だけですか」


 その時、二人の男はピタリと止まる。それはまさに、地獄から這い上がってきたような静けさを含む声音だった。青年は血を流し下を向いたままであったが、確かにあれだけの強打を与えられれば気絶で前のめりに倒れていてもおかしくない。それが姿勢を保っているということは、正気があるということで。


「ダンタリオンは老若男女無数の顔を持つと言われています。私のこの姿が本物かどうかは、お分かりにならないでしょう?」

 青年が顔を上げる。男二人はひっと声をあげてしまった。こめかみからの血が頬を伝う先──首筋から鎖骨のあたりに、青いインクで描かれたような印章スティグマが浮かび上がっていたからだ。丸と、線と、斧の先のような形で作られた意味の分からない記号は、見ているだけで気持ち悪さを感じてしまう。


「あ、お前、本当に、あ、悪魔なの、か!?」

「私は人間です。ただ、グリモワールに出てくるの力を持っているだけ」

 腰が抜けて動けない老年になんとかボディーガードが盾として立ちはだかる。が、青年はついっと指揮者のように右手の人差し指を空中で動かした。


「《自己に溺れよアーティオ》」

「あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!?」


 途端、頭を抱え込み膝をつくボディーガード。


「貴様、何をっ」

「彼には幻覚を見てもらっています。この方、陸軍のパイロットだったんですね。何年か前に墜落事故を起こし同僚を殺してからタガが外れたのか……闇の闘技場で腕を奮っていたらしいですが」

 呆気に取られ口をぽかんと開ける男に、青年は冷ややかな目を向ける。

「アーモンドとは回りくどい言い方もしましたね。この力がなければだと分かりかねました。私はもう少し、穏便に情報を引き出したかったんですけどね」

 喚きのたうち回る大男を避けながら老年に近づき、その心臓部分に向けて握手でも求めるように右手を差し出した。


「た、たすけてくださ」

「さぁ、あなたの秘密を全て教えてください」


──《自己を暴けアンアース


 首元の印章スティグマが淡く光る。彼は開いていた手を、ドアノブを開けるように捻った。頭の中に膨大な量の情報が流れ込み、演算が始まる。

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東京都如月駅高架下、ハードボイルドな異能力者は左手でコーヒーを嗜好する。 青葉凉 @AOBANP

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