第二十一話
あの春の日、アルヴィアは竜の一途さを知った。竜に心変わりは無い。変わるのはアルヴィアのみだ。
憧れる在り方があっても、人が誠実に生きることは難しい。意図せず影響を受け、朝に決心したことが夕刻には翻る。己の中で理由を付けて正当化を行い、遂には自意識の化け物に成り果てる。
自家中毒の意識はあれど毒が回りきったアルヴィアは手遅れであった。
(こんなに醜い私でもセイケイ様は必ず愛してくれる)
竜王からの愛をアルヴィアは疑わない。
人と亜人、竜の真の違いはからだのつくりでは無く心だ。一つを決めれば彼らは揺るがない。気高いものは気高いまま。卑しいものは卑しいままに。変化すらも緩やかで人の身では見届けることもできずに己の生が先に終わる。
アルヴィアは今が幸福だった。
死にたいのかと問われたことがある。その時は否定をしたが、本当はあの時に息の根を止めてほしかった。永遠を生きられないのなら一瞬を留めて彼の永劫の記憶に存在したい。
そんな願いをアルヴィアは抱いてしまった。
人の心は移りゆく。変化は悪いことでは無い。新たな情報を取り入れ、常識を更新していくことこそ、か弱き彼らの生存戦略だ。
その心をこそ竜王は愛おしく思う。
ひと目見た瞬間、群青の中の凜然とした輝きに囚われた。時を重ねる内にその輝きは老いることへの恐れを含んだ非晶質の光を持った。
その変化を一番近くで見取ることこそ竜王の幸福だった。共に時を重ね言葉を交わし影響を及ぼしあう。望外の喜びだった。
永劫の中での移ろいはひどく緩慢で、番との目まぐるしい日々はあまりに甘美だった。
死にたいのかと番に問うた。請われれば殺さねばならないはずだった。番の意思を尊重せねばならない。望まれれば望まれるままに。己はそのように生きてきたはずだった。
骨が砕けるほど拳に力を込める。
(手放したく無い)
答えはもう決まっていた。
岩屋は絶えず風が吹いている。アルヴィアが留め置かれた場所からは見えないが、風が抜ける箇所があるためだ。
食料は言葉の通り日に二度運ばれたが、時間はまちまちで長らく来ないと思ったら食事が終わる前に次の食料が運ばれることもあった。岩屋に来てからは不思議と空腹を感じぬアルヴィアにとっては充分すぎる量であり、差し当たっての命の危機は無かった。
(それよりも時折不自然に目が霞む)
栄養の偏りも毒物の混入もなされていない食事にも関わらず、視界の端を白い花弁のようなものがかすめる。
(岩屋に散らばっている欠片かしら)
風化した薄片は砕け、至る所に散らばっていた。だが、物を浮かばせるほどの大風は吹いていない。
アルヴィアが瞼を閉じれば竜の姿が浮かび上がる。竜王では無い。白い鱗を持つ美しい竜。
(ああ、でも。よく似ている)
かつて竜王が見せてくれた本性をアルヴィアは思い出していた。高楼を超すほどの巨躯。薄明かりの中でも輝く鱗。そして、人の姿と変わらぬ理智を灯した金色の瞳。
目通りの際に乱心を晒したことを今でも悔いているためか、竜王は番に自分の竜身を見せることを忌避していた。それでもアルヴィアにとって愛する男を構成する掛け替えのない側面だった。
幻想の竜が頬を撫ぜる。朱い瞳は欲と慈愛、初恋を孕んでいた。
気まぐれに人身を取れば白い鱗がふわりと舞う。アルヴィアの美の基準はタウメだ。彼女の艶やかな美しさをこそ最上とするが、この竜もまた美しかった。
女はアルヴィアを胸に抱く。言葉こそ無かったが、愛おしみが痛いほどにアルヴィアに伝わった。
口付けが額に落とされようとした瞬間、竜は霧散した。
「すまない。来てしまった」
途端、岩屋の中の竜気が塗り変わる。真白い霞のように漂っていた幻惑が青天の昼日中に様変わりしたようだった。
「私も好きにしてここにいるので、お相子ですわ」
竜気が払われれば途端にアルヴィアを飢餓が襲う。倒れ伏しそうになる身体を壁に凭れさせた。
「すまない。君を自由にしてやれない」
言葉と共に竜王は跪き、手ずからアルヴィアに糧を与えた。
「物わかりの良いふりすらおれはできない。死なないでほしい。君がいないなら全ての物事から意味が消え失せる。それは死んでいるのと変わりが無い」
王は勝手を通すことを決めた。番の意思であろうと自死を選ばせることができない。今までの竜王の姿勢とは相反する言葉だった。
理想を生きることを放棄した竜の姿に覚悟を決め、アルヴィアも胸襟を開いた。
「私、最初はあなたを助けたい思いで竜域に残ったの。本当よ」
かつて女は聖女だった。
「自分ではどうしようもないのに私に謝るあなたが気の毒で、少しでも助けになりたかった」
幼心に竜域の支配者を哀れみ、助けたい一心だった。竜と人の隔たりも無く、眼前にうずくまる男を放ってはおけなかったためだった。
「なのに、あなたを好きになりだしてからおかしくなってしまった」
成長は毒を孕む。綺羅々々しいものを見上げるだけの思いならばともかく、アルヴィアが抱いた物は純正の恋心だ。
毒はたちまちに彼女の身を巡った。
「このまま心も体も醜くなって、あなたの前から穏やかに消えて思い出になるくらいならいっそ。身体だけは若いまま惨たらしく死んで、あなたの傷になりたかった」
矛盾に塗れた嘆きだった。
アルヴィアにとって己が醜いことは紛れもない事実であり、選べるのは人生の終わり方だけだった。
「あなたの番でなければ、こんな私など目に留まることなんて無かった」
一息に思いを告げたアルヴィアは息も絶え絶えに竜王を見上げた。竜王が跪いていても両者の目線は同じ高さには無い。
「アルヴィア」
番の名前は竜王にとって至上の音だった。だからこそいつも舌に乗せることをためらっていた。その音を今、竜王は喜びと共に口にした。
「君の言葉を聞いて、おれはいまどうしようもなく嬉しいよ」
歓喜は洞に溶けていく。柔らかな表情はいつものように形作るまでも無く、竜王の顔に表れた。
「確かに、おれは番でもないものを宮に留め置こうとはしない。恋い焦がれるのは番だけだ」
竜王は今までも幾度か他国から姫君を送られたことがあった。その度に書状を添え、彼女らを祖国に帰してきた。宮に留め置き、半世紀も経てば後腐れ無くこの世を去る仮初めの妃ですら竜王はこの数千年受け入れることも無かった。
「おれは、ほんとは真面目でも何でも無い男だ。君が昔、『まじめですてき』と言ったから、それから真面目な男になったんだ」
我欲に塗れる竜たちの中でセイケイは異様だった。欲という物がおよそ存在せず、自我すら希薄な男は亜人達が住まう領域を作るため、竜域を制定した。
己の願いあってのものではない。理に沿って生きる奇矯な竜の、他者に請われたが故の行いだった。
「君も知っていることだが、竜は恋では死にはしない。狂うだけだ」
竜王は番と会った瞬間から狂った。人の真似事をし始めた。好かれるためだけに振る舞いを改め、性格と言える物を用意し、見目形を整えた。
「おれも君も狂っている。気持ちの天秤が釣り合っていたことが喜ばしい」
四肢に力の入らぬアルヴィアを竜王は抱えた。鉄の輪はいつの間にか外れている。
「星の終わりを君と見たい」
歩は迷い無く洞の入り口を目指す。少しずつ、少しずつ風の匂いが新しくなっていく。
「でも、私あなたより先に死んでしまいます」
遠い星の輝きは光が届くにも永い時を必要とする。今この時星が死のうともその瞬きが消えるまでの永劫を人は生きていけない。
「だったら死ななければ良い」
こともなげに竜王はアルヴィアの不安を掬い取った。
「老いることが、醜くなることが怖いんだろう?」
「はい」
結局のところ、アルヴィアの恐怖を腑分けしてしまえばそれに尽きる。
変わらぬものに囲まれ、己だけが醜くなり続ける。ならば彼らの記憶の中に最も美しい姿を展翅してしまいたい。
「いっそ根本的にその不安を取り除こう。蔵に腐らせていた貢ぎ物や各国の秘術を合わせれば実現も叶う」
外道ともいうべき提案だった。死ぬのが怖いと泣く少女を諭すことなく欲のままに生かす。
アルヴィアを人として死なせることが竜王にはもはやできない。
「できるのでしょうか」
アルヴィアの疑問は最もだった。死の超越は数多の権力者が欲しながら、いまだ叶えられたことは無い。帝国の国教でも、みだりに命に執着することは推奨されていない。
「やったことはないが、する。永劫を無私で生き続けてきた報酬に、愛するものの延命を願うくらいささやかな望みだろう」
真珠色の薄片が竜王の歩みと共に割れていく。
「彗星を何度だって君と見たい。あらゆるものが死に絶えても君さえいれば世界は意味を持つ」
洞からでれば黎明の光がアルヴィアの目を灼いた。草木は露に濡れ、雲雀は遠くで鳴いている。
「狂ったと、思われてしまいますよ」
厚い胸に頬を寄せ、アルヴィアは呟いた。
今まで竜域を治め、理に従って生きてきたはずの竜王が妃のために不死を求めだしたと知られれば列強はその動向を注視することになる。
「今までがおかしかったんだ。所詮おれはただの竜。番に殉じ、欲のままに振る舞う方がよっぽどらしい生き方だ」
言葉と共に竜王は腕の力を強めた。失われかけた命が竜王にとってはあまりに惜しかった。恥じらいから触れ合いをためらっていた己があまりにも愚かで幸福で盲めしいていたことを実感した。
「おれは大事なことにいつも気付けない。君を竜域から帰そうとしたときも、今回も、目を逸らそうとしてしまった」
竜は強大だが全能ではない。心を持て余し、番に命運を握られ、選択を誤る。
「だから、一番大事な君はずっと傍にいてくれ」
竜王の懇願をアルヴィアは静かに聞いていた。完璧ではなくなってしまった王。愛で狂ってしまった竜。星の終わりを共に見たいと願ってしまった男。
天秤はもう傾かない。
「そうですね。ずっと、ずっと一緒にいましょう」
アルヴィアは己の醜さを厭うていた。不変の美に囲まれ、己のみが老いさらばえることを恐れた。
恐れはいまだにある。それでも隣に寄り添う男が同じ心を持つなら万代の先も生きていたいと願った。
旭日の白に包まれながら竜王と番は宮への道を行く。
朝はもう、恐ろしくなかった。
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