第二話「押し寿司の誘惑」

寒風が吹き抜ける横浜。

クルツは大手メーカーでの機械学習モデルの実装についての打ち合わせを終えたところだった。


時刻は午後2時。

朝から続いた熱のこもった議論で、すっかりお腹が空いていた。

特に今日は、画像認識モデルの精度向上について、かなり突っ込んだ議論となり、頭も心も疲れ果てていた。


「そういえば、この辺は魚が美味しいって聞いたな…」


港町の空気を吸いながら、クルツは歩を進める。


観光客で賑わうメインストリートを避け、地元の人々が行き交う路地へと足を向けた。

古い商店が立ち並ぶ通りを進むと、古びた木の暖簾が目に入った。

「寿司 まつば」。


観光客向けの派手な看板もなく、静かに佇む店構えに、

データサイエンティストの直感が反応する。


長年の経験から、クルツは店の雰囲気を読み取るのが得意だった。

それはまるで、機械学習モデルが特徴量を抽出するように。

暖簾の使い込まれ具合、店先の清潔感、そして漂う微かな酢の香り。

全ての要素が、この店の確かな技を物語っていた。


店内に入ると、カウンター越しに職人の後ろ姿が見える。

昼時を過ぎているせいか、店内は空いていた。

カウンターに座ると、職人が振り返る。

年季の入った手つきで包丁を研ぐ音が、静かな店内に響く。


「いらっしゃい。お昼は終わりかけですが、まだ握れますよ」


「あの、押し寿司は…」


「ああ、鯖の押し寿司なら、まだありますよ」


その言葉に、クルツの目が輝いた。


しばらくして運ばれてきた押し寿司。

艶やかな鯖の身が、程よい厚みの酢飯の上に美しく鎮座している。

青じその緑が差し色となり、視覚的な満足感すら覚える。

まるで完璧にデザインされたインターフェースのように、無駄のない美しさがそこにあった。


まずは見た目の分析。

鯖の表面は程よく締められ、皮の艶が美しい。

酢飯は適度な粘りを保ちながら、一粒一粒が立っている。

職人の長年の経験が生み出す、絶妙なバランス。


箸を持ち、一切れを口に運ぶ。


最初に感じるのは、鯖の旨味と脂の調和。

しっかりと締められた身は、適度な歯応えを残しながらも、口の中でとろけるような食感。

その下から、程よい酸味を帯びた酢飯の味わいが広がる。


「これは…」


普段は冷静に分析的な思考を保つクルツだが、この味わいの前では理性が崩壊する。


「めっっっっちゃウマーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!!!!!!!」


思わず声が大きくなり、職人が微笑む。

その笑顔には、客の素直な反応を喜ぶ職人としての誇りが垣間見えた。


青じその香りが鼻腔をくすぐり、鯖の脂と酢の絶妙なバランスが口の中で踊る。

まるで完璧に調整された機械学習モデルのように、全ての要素が最適な状態で組み合わさっている。

塩加減、酢の量、締め具合、全てが絶妙なバランスを保っていた。


一切れ、また一切れと、クルツは夢中で食べ進める。


普段のプログラミングでは味わえない、職人技の粋を感じる。

データと向き合う毎日の中で、こうして人の手による完成度の高さに触れることは、新鮮な驚きだった。


最後の一切れを口に運ぶ前、クルツは一瞬立ち止まる。

この味わいを、もう少しだけ味わっていたい。

しかし、最後まで美味しく食べるのも、また至福の時。


完食後、クルツは深いため息をつく。

充実感と共に、不思議な感動が込み上げてきた。


「ご馳走様でした」


カウンターを立つ際、職人と目が合う。

言葉は交わさなかったが、互いに職人としての敬意を感じ取っていた。

技を極めることの美しさは、分野が違えども通じ合うものがある。


外に出ると、寒さも和らいでいた。

スマートフォンを取り出し、メモを開く。


「押し寿司のバランス、まるで理想的な重み付けのような完成度。この考え方、今開発中のモデルに応用できるかもしれない」


クルツは足早に駅へ向かった。

今日の発見は、仕事にも活かせそうだ。

美味しい食事は、時として新しいインスピレーションをもたらしてくれる。


帰りの電車の中で、クルツは今日の体験を振り返っていた。

機械学習の世界では、全てがデータと論理で動いている。


しかし、人間の感性と長年の経験が生み出す職人技には、また違った種類の完成度がある。

その両方を知ることで、自分の仕事もより深みを増すのかもしれない。


その夜、自宅でコードを書きながら、クルツは時折、昼の押し寿司の味を思い出していた。

舌の上に残る余韻のように、心地よい満足感が彼の心を満たしていた。

そして、この店の味は、きっとまた彼を呼び戻すことだろう。


横浜の路地裏に佇む小さな寿司屋で、クルツは新たな発見をしたのだ。

それは単なる美味しい食事以上の、何か大切なものだった。

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