闇と魔術
榊 薫
第1話 獣道
人がほとんど通っていない山道をバリエーションルートと呼んで正規な道ではないところを切り開いて楽しむ登山もあるようですが、異世界からやって来た悪役令嬢ポカがミスを誘いに潜んでいることがあります。人の通ることのできる道が枝分かれするところにあって、どちらも通れそうで何の違和感もない分岐がその入り口になっていました。一方の道は少し険しそうに見え、歩き疲れてきたので楽な方を選びました。分岐を歩き始めたときは人の足跡があったのですが、暫くすると足元は落ち葉で覆われ、やがて顔の高さに枝葉が伸びてきました。手で払えば通ることができないほどの枝葉でないのでそのまま進んでいくとだんだんと深い茂みになってきました。木の根の表面は、擦れたような光沢があるので、人が通ることで光っていると思って、進んでいくとやがて枝葉が重なり合って手で払い除けるだけでは追い付かず、前に体重をかけ枝葉を押し込まないと前に進めなくなってしまいました。もう少し先に進めば人が通る道に繋がるのではないかと思いながら進んでいくと、茂みはますます深くなっていきます。分岐点まで戻るには茂みを押し分けながら登って後戻りしなければならない状況になって、前に進むことに比べて何倍も体力が必要になるので、獣道に入ってしまったことに気が付きました。木の根の表面に光沢があっても一部ささくれていれば固い靴底で傷つけられ、人が通った跡ですが、そうでなければ、その時点で獣道と気付いて引き返すべきであるということを後になって知ったのです。油断につけこむ悪役令嬢ポカの仕業でした。当時は若気の至りで判断力がなかったために登って分岐点まで引き返すより、このまま下って行けば人の通るところに出会すのではないかと都合よく解釈し、戻ることなく前に進んでしまいました。
体重を茂みに目一杯預けると、重なりあった茂みの反発力で足は地面から離れながらも、手で前の茂みを引き寄せて押さえ付け、足を手のところに引き上げて茂みを踏みつけ、少しずつ茂みの上を這いずりながら前の谷に向かうことになってきました。茂みはますます深い藪になりましたが、地図上ではこの谷を下って行けばその先には林道があるので、一歩進むごとに藪に体を覆い被せて、「何で獣道を選んでしまったのか」と何度も後悔しながら進むことで、普通に歩く道の何十倍も時間を掛けて進んでいきました。谷にたどり着く手前に崖が現れました。藪に生えている草木を引っ張っても抜けそうもないしっかりしたところを探して、滑らないように両手で左右の草木を握りしめながら腰を浮かし足場の位置を探して三点確保しながら、残りの空いている足で下側の体重が乗せられる場所を探して体重をかけて、手を片方ずつ下側の草木の根元をしっかりと掴み、下側の体重が乗せられるところを足で探しながら下へ下へと降りていきました。やがて小さな湧き水が現れました。水の流れに沿って濡れないように降りていき、しばらくすると足掛かりのない一枚岩の落差のある滝が現れました。その滝を回り込むためには、いったん滝の横にある崖を這い登らなければならなくなりました。滝の横を回り込めそうな岩場を見つけ、そこまで這い登って行き、降りられそうなところを選んで両手で岩を掴み、三点確保で腰を浮かして足で体重確保できるところを探しながら、「ここで滑落して行き倒れになっても白骨になるまで発見されることもない」ことが何度も頭をよぎりながら一つずつ体重確保と体重移動を繰り返していると、日没も近づき辺りは薄暗くなって、手掛かりになりそうな岩をさがしていると、岩の間に蛇が現れました。マムシだと噛まれると大変なので、慌てて刺激しないように、そこから離れた手掛かりになりそうな岩を探しながら、遠巻きに回り込んで蛇から離れ、滝つぼの先を流れる小川までやっとの思いでたどり着きました。日がとっぷりと暮れて辺りはほとんど見えなくなってしまいました。沢の横で岩が比較的平らなところにポンチョになる簡易なツエルトを張り、蛇が入ってこないように、すき間を塞ぐことにしました。始めは横になるだけで、付近にどんな獣がいるのか緊張してほとんど寝ることはできませんでしたが、それまでの疲れが出て「うとうとしながらも物音がする度に目が覚める」ことを繰り返していると、やがて夜が白み始めました。昨日は昼から食べるどころでなかったため、湯を沸かして即席麺を食べると体が暖まり少し落ち着いてきました。荷物をまとめ、ゴツゴツした岩場なので一歩ずつ足場を確かめながら下って行くと沢の幅は少しずつ広くなりました。ごろごろと転がっている岩の比較的平らなところを踏みながら進んでいくことができるようになると、川沿いの少し離れたところに、上が平らな崖が現れました。そこを這い上がるとやっと林道に出ることができました。これでようやく人間のこしらえた世界に戻れたことになります。人間の手が加えられた道は、獣道から続いていた不安から解放されました。人のいる世界に戻れたときの安堵感は同時に、真夏の茹だるような暑い最中に長袖を着ていても、暑く感じることのない無欲な心境をもたらしました。
想定外のできごとが続いて起きても冷静な判断力を養う上で、若くて気力、体力がある時期に、獣道を体験したことは生きて帰ること以外の「欲に執着しない心境」とはどういうものか知る上で有意義でした。第一回南極越冬隊の西堀栄三郎隊長は想定外の事態での対応について「計画していなかったことが起こったら、臨機応変に対応するしかないので、冷静沈着でなければならない。」と語っています。第一回南極越冬隊は未知の自然環境で起こる想像を絶する出来事が主ですが、初めての作業など未知の出来事に遭遇するときにも昔から悪役令嬢ポカが潜んでいて、想定外のことが起こりミスを誘っていたようです。
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