第3話

視線を感じて顔を上げると、先生がそっと視線を逸らしてしまう。


「あの、助けてもらってありがとうございました。助かりました」

「いえ、たまたま飲みに行ってた帰りで、通りがかって良かったです。お綺麗だけど、その格好で外に出ちゃ危ないですよ」


先生の口から綺麗って言葉が出た事で頭の中が真っ白になる。

大好きな先生。

先生が学校に赴任してきた春から、ずっと、ずっと好きだった。


「ほんとにすみません」

「この辺りのお店で働いているんですか?」

「はい。ごみ出しにきたんです」


先生はにこやかに笑う。

その笑顔は私へと向けられていて、華やかなドレスを着た私の足の先から頭のてっぺんまでを観察するように見ている。


どうやら私が、三年二組の関谷梓だとは気付かれていないようで少しホッとする。

この姿を先生には知られたくない。

だけど、先生はなぜか興味津々な様子で、ここから立ち去る気配もない。


こうやって繁華街で見ると、二十三歳の先生はまだ若者といったくくりに入る気がする。

学校だと先生という風に見るから、大人のイメージだけど、街で見かけるはしゃいでいる大学生たちと大して変わらない。


それなのに、この頭の中には、素敵な詩や恋愛の和歌や、難しい論説文が詰め込まれているのだから、やっぱり先生は素敵だ。


「今度お店に行ってもいいですか? って、何のお店か分かんないけど」

「……ふふ。私の働いているお店、高いですよ」

「ああー、じゃあ、俺じゃあ、払えないかな」


先生が男の人だ。

いつもの清潔そうで、どこまでも溌剌としている先生じゃない。

駆け引きするように、窺うように私を見つめる。


その瞳に込められた色を私は知っている。

店の中で毎日目にするから。

そっか、先生はこういう派手な女が好みなのか、こんな大きなサングラスをかけていて顔もよく分かんないのに、こういう華やかなドレスを着ているセクシーな女が好きなんだ。


じゃあ、やっぱり三年二組の関谷梓じゃ相手にもされないね。

先生はこの私だから興味を示してくれている。

どれも私なのに、なんだか心をどこに持って行っていいのか分からなくて、複雑な表情のまま、この場から立ち去る事を決意した。

あまり長居してお喋りして、関谷梓だとバレたら困る。


「さっきは本当にありがとうございました。じゃ、失礼します」


深く頭を下げて歩いて行こうとする。

夜のこの通りは、年齢層の高い大人で溢れていて、私や先生なんてのは若い方だ。

もちろん高校生なんてほとんどいない。


夜十時を過ぎたこの街は、すっかり昼の時の賑やかな雰囲気を潜めて、歓楽街へと変貌する。

道行く人が私のドレス姿を食い入るように見る。

その視線にも慣れきった私は、最後に先生じゃない先生をチラッと見て笑顔を作った。


店へ向かって歩き出そうと方向転換をすると、先生のたくましい手が私の華奢な腕を掴む。

特別がっちりしているわけじゃない先生だけど、さすがに女の私と比べると、まざまざと男の人だと意識させるような手。

熱を持った手首をじっと見つめると、先生がまた慌てたように手を離した。


「あの、名前。教えてくれませんか? ってこれじゃあ、ナンパみたいか。ナンパじゃないんだけど、いや、これってナンパになるのか」

「……名前」

「無理かな?」


関谷梓だよ、先生。

先生の学校の生徒だよ。

喉の先まで出かかって、それを声には出さずに飲みこんだ。


「あなたは?」

「俺? 川上淳樹(かわかみ あつき)」

「そっか。また……会えたらいいですね」


私は結局名前を言う勇気も、嘘をつく根性もないまま、その場を去った。


「ちょっと待って……っ!」


先生が呼びとめる声が後ろから聞こえて来たけど、早足でビルの中へと駆け込んだ。

慌ててエレベーターに乗り込んで、店へと戻る。

三階の店へ着いた瞬間、エレベーターを飛び出した私はそこで誰かとドンとぶつかって、エレベーターの扉にぶち当たった。


「うわ」

「きゃっ」


痛む腰を押さえながら、前方を見ると、馴染みある人が心配そうにこっちを窺っていた。


「すみません、大丈夫でした?」

「あ、うん。ごめんなさい。ありがと」

「痛くないですか?」

「大丈夫です。全然」

「あずちゃんが全然帰ってこないから、ママが心配してて、探しに行けって言われて、今行こうと思ってたんです」

「そうなんだ。ごめんね、大丈夫です。知り合いに偶然会ったからちょっと話してたの」

「そっか。良かった」


彼はホッとしたように息を吐いて、ママに顔見せてから帰ってあげてと告げて、ドリンクスペースに戻って行った。

彼は私と同じくウエイターのように働いている男の子で、大学生だったと思う。


いわゆる黒服っていうやつで、女ばかりの店だから、なにかトラブルがあった時には用心棒のような事もしている。

何でもボクシング部に在籍しているらしく、体格はよくて、普通の大学生よりはしっかりしていると思う。

私を可愛がってくれて、私もつい彼には甘えてしまう。

橋本くんって言って、彼はカクテルを作るのも上手だ。


何でも彼はママの事が好きらしく、あからさまな熱視線を送っている事も多い。

絶対に叶わないのに健気だから、たまに私とかぶることがある。


「ママ。ごめんね、遅くて。心配させちゃった」


私が店に入ると、ママが席を抜けてこっちに歩いて来て、それに苦笑する。

心配性のママにかなり心配をさせてしまったらしい。


「こら、上になにか服ひっかけて行きなさいっていつも言っているでしょ。さらわれたらどうすんの」

「そんな事にはならないよ」

「分かんないんだからね。世の中は怖いんだから気を付けなさい」

「はぁい、ごめんなさい」

「ん。お疲れ」


ママはまた席へと戻って行き、私はそれを見ながら着替えに向かった。

今でも心臓がドキドキしている。


先生と会った。

違う、先生じゃない。

ただの川上淳樹に出会った。

先生じゃなかった。いつも爽やかな笑顔で文学を愛する先生じゃなかった。水商売の私に興味津々で、ナンパしてきた男の人だった。


先生じゃなかった。

だけど、やっぱり先生だった。

ぐちゃぐちゃになる思考の中で、思い浮かぶのはやっぱり授業の時に教壇に立つ先生だった。


「はぁ、……先生かぁ」


一人ぽつりと出た言葉が、控え室に反芻する。




――先生と出会った春を思い出す。

先生は、最初の授業がうちのクラスで、とても緊張しながら教室に入ってきた。

若くてかっこいい先生という事で、生徒たちはみんなざわざわとしていて、好奇な視線にさらされながら、先生は言ったんだ。


「みんな、国語は好きかな?」


その一言にクラスメートたちはぽかんとした。

私も同じように、何言ってんだ先生と言った感じで、しらけた視線を向けていた。

先生はみんなの微妙な空気も物ともせずに、スピーチのように切りだした。


これと言って、上手なスピーチではなかった。

だけど、心に響いたのはみんなも同じだったと思う。

あれが先生の初舞台だったんだから、やっぱり先生には教師としての才能があると思う。


「国語はすごく必要だから精一杯勉強した方がいい。あ、もちろん他の教科も必要だけどな。国語力が豊かな人は、人間関係も人生の選択肢も、その時の判断力も何もかもが豊かになるって先生は思うんだ」


先生は続ける。

いきなりの独壇場にみんなはぼんやりとしていたのだが、新任の先生の言葉に興味を抱いているのは事実だ。


「先生は詩とか和歌とかの短文の文章が好きなんだけど、高校二年の時に、谷川俊太郎さんの『生きる』という詩を読んで、授業中に涙が込み上げてきた。その詩は特別長くもなかったし、難しい言葉でもなかったけど、生きるっていうのはどういう事か教えてもらえた。国語の教科書に生きたいと思わせてもらった」


先生の声はよどみなく私たちに伝わる。

この時点で私たちは先生の話を積極的に聞こうとしていた。


いきなり喋り出した先生をださいだとか恥ずかしいだとか、そんな風に思っていたけれど、今はみんなが頬を少し赤く染めて、この人の話を聞きたいと思っていた。


「国語の教科書ってたくさんの文章が載ってるだろ? この中でどれか一つはきっと感銘を受けるものがある、そのどれかなのは、人それぞれ違うけどね。それは戦争の嘆きの文かもしれないし、子供ができた人の喜びの文かもしれない。文っていうのは心に残って、夢を見つける助けになって、人生を歩く道しるべになる」


先生は耳を真っ赤にしながら、私たちに懸命に訴えかけていた。

高校一年で難しい高校受験を突破してきた私たちに、今更国語の素晴らしさを語る人たちはいなかった。

現代文や古典というのは、受験に必要だから、今更文章力や読解力を高めるのは無理かもしれないけど、古典の単語を一つでも多く覚えたり、漢字やことわざを吸収しようとした。


先生のように熱く、国語というものを語る先生なんて、今までどこにもいなかった。


「君らには未来がある。その素晴らしい未来へ進むために、少しでも助けになれたらいいと思って、先生は国語の教師になった。戦争の怖さも、恋愛の素晴らしさも、生きる事の大切さも、全部国語の教科書に載っているから、今から三年間、一緒に勉強しながら成長していきましょう」


しんと静まり返った。

先生が演説のような喋りを終えると、生徒たちは物音一つ立てるのも拒むように、ピタリと静止していた。

私はなぜか涙が込み上がってきて、思わず何度も瞬きを繰り返した。


誰が初めかは分からない。パチパチという乾いた拍手の音が一つ鳴ると、次第にその音は大きくなった。

私もつられるように手を叩いて、新しく出会った先生を歓迎した。

先生は照れるように頭をかいて、大切そうに国語の教科書を抱きしめた。


私はこの時点で、先生の事が大好きになった。

きらきらと光るような文学が頭にいっぱい詰まっている先生に、愛されてみたいと思った。

文学を愛している先生が、愛する女性はどんな人なんだろう。

やっぱり高尚な人を好きになるのかな。それとも、夢に向かって一生懸命努力する人を好きになるのかな。

私は先生に釣り合うような人になりたい。

心に熱い感情を携えた先生に見合うような人になりたい。


その一心で二年以上もの日々を過ごした。

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