君が僕を想ってくれるなら【完】

大石エリ

第1話

「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな」


先生の言葉は、耳当たりがいい。

詩のようにすらすらと出てくる言葉に、胸が詰まる。


「この歌は切ないよなぁ。お前らにはまだこの気持ちわかんねぇだろ。え?」


からかうように話す先生に、クラスメートが四方八方からブーイングを飛ばす。


「あっちゃん、分かるしぃ、バカにしないでよぉ」

「淳樹。子供扱いすんなよー」


クラスの明るい子たちからの言葉に、周りがけらけらと笑った。


「おい、誰だ、今、先生を呼び捨てで呼んだのは!」

「はいはい、俺でーす」

「お前なぁ、そんなんだから先生が、教頭先生に怒られる羽目になるんだろうが」

「先生、怒られてんだ。笑えるー」


カッターシャツを腕まくりした先生が、教科書を片手で持って、威圧するように握りこぶしを上にあげた。


「お前ら、先生の威厳を返せ!」

「元々ない、でーす」


仲がいいのか、からかわれているのか、分からない先生が、メリハリはきっちりと授業を再開した。

そうすると、クラスメートたちはしんと静まり返る。


「じゃ、この和歌の解説いくぞ」


この状況で教科書を見ていないのは、クラスを見渡しても私だけだった。

進学校のうちの高校の生徒たちは、先生をからかいながらも越えてはいけない境界線を知っている。


ちゃんと授業に戻って行く優秀な生徒たちの中。

私だけ、先生を見ていた。


「この和歌は小倉百人一首に載せられている歌の一つで、切ない恋の歌の代表って感じだな。出だしから切ないんだぞ」


先生の言葉は私の脳裏に突き刺さって、ビリビリと全身を刺激して、背中がぶるりと粟立った。

一人顔をあげている私に気付いたのか、一度先生が教科書から顔を上げて、私を視界に入れる。


目が合った瞬間、思わず視線をそらしてしまう私の視界の端に、困ったように笑う先生の姿が見えた。


「今はただっていう出だしは分かるよな。その後の、思ひ絶えなむっていうところは、思い絶えなんって読むんだぞ。あなたへの想いを絶ってしまおうとっていう意味だ」


生徒たちはこくこくと頷いている。

さっきまで堅苦しい政治経済の授業だったせいか、恋の和歌にみんな興味津々だ。


昔の言葉は難しいけど、先生の砕けた説明は、頭にすんなり入ってきて、恋愛を熱く語る和歌にみんなそれぞれ思いを馳せる。


「下の句の、人づてならで いふよしもがなは、人づてじゃなく、直接あなたにお話しする方法があったらいいのになぁ……という意味だ」

「えぇー切なぁい」


前の方の席に座る女生徒が、吐息混じりに言葉を発する。

それに先生は優しく笑って、「だろ?」とにこやかに笑った。


「この和歌の恋の相手は、皇女で、その時代皇女は一生独身、恋愛禁止みたいな事があって。すなわち、二人は禁断の恋に落ちてたって事だな。それを皇女の父親、いわゆる天皇の耳に入り、二人は引き裂かれたのちに、この歌を男が詠んだと言われている」

「どろどろじゃん、先生。昼ドラ並み」

「昼ドラみたいだよなぁ」


軽いクラスメートの言葉にも先生はいちいち相槌を打ってあげている。

私は教科書に載っているその和歌をじっと見つめた。

禁断の恋、引き裂かれた二人。


教師と恋をすればきっとそうなる。

前方の教団の前に立つ、新任教師の先生を見つめると、現代文担当らしからぬ若々しい容姿がきらきらと眩しく見えた。

無表情だと冷たくも見えるのに、笑うと違う人みたいに可愛くなる。

目がくしゃっとなって、目尻に小さな皺ができるところが大好き。

綺麗に整えられた細めの眉は、先生がプライベートでは“先生”でない事を思い知らされる。


授業をしている先生は、色気なんてものを感じさせないように溌剌としているけど、夏休み間際のうだるように暑い教室で汗を拭う姿は、男の人の色気を感じさせた。

適度に整えられた無造作の黒髪は、授業に集中するあまりか、汗の雫が髪を伝った。


今時、クーラーどころか、扇風機すらない教室。

うなだれる生徒が多い中、先生の授業だけはみんなが生き生きと授業に参加していた。


「要するに、俺はもうあなたの事を忘れるよ。忘れるから、最後にせめてあなたに直接会ってから別れを伝えたい。人づてなんかじゃなく、自分の口からあなたに言いたいっていうような歌」

「ふうん」


隣の席の友達の奈乃香が興味深げに呟いた。

それをチラリと見ながら、もう一度先生の顔を見る。


担任じゃなく、授業担当の先生と会えるのは、一週間にたった四時間だけ。

その時間を無駄にしたくなくて、教科書を見ずに先生を見つめる私の成績はなぜか上がっている。

先生の言葉を逃したくないと集中しているからかもしれない。


「直接会って別れを告げたら忘れられるとでも思っているのかなぁ。どっちにしても切ないな、うん」


先生は何度も切ないと繰り返し、和歌に浸るようにしみじみとしていた。

だけど、私は何となく解釈が違うような気がした。

先生をじっと飽きずに見つめていると、やっぱり困ったように笑った先生が、私に視線をやって名前を呼ぶ。


「なんだ、関谷(せきや)。この和歌が理解できるか?」


いきなり当てられて、少し首を傾げた私は、この和歌に思いを馳せながら言葉を発した。


「直接会って別れを告げたって忘れられない事は分かってると思います。そういうので会いたいって言ってるのじゃなくて、別れる事を口実にしてでも、あなたに一目会いたいっていう歌じゃないかな……って、私は、思ったり……」


ついつい熱く語ってしまって我に返った私は、慌てて先生から視線を逸らして机に俯いた。

クラスのみんなには、「関谷ロマンチック」なんてからかわれたりして、余計恥ずかしい目にあった。


「そっか、なるほど。そういう考えもあるのか」


先生は感心するように頷きながら、しばらく教科書と私の顔を交互に見て考え込んでいた。

授業はそれから何事もなかったように進み、違う和歌への解釈へと移った。


無機質なチャイムが鳴ると、先生が教室を出ていく。


「お前ら、ちゃんと復習しとけよ。来週小テストだぞ」


「えぇーまじかよ」

「先生、テンション下がった」


口々に告げられる文句に先生は楽しそうに笑って、教室を出て行った。

私は慌てて教室を飛び出して、廊下に立つ。

先生が歩いて行っている方に身体を向けて、先生の後ろ姿をじっと目に焼き付けた。


「あず? 何してんの、廊下のど真ん中で」

「え? ううん、何でも」

「変なの」


隣の席の奈乃香が私を追いかけてきて、隣に並ぶ。

視線の先の先生が一瞬こっちを振り返って、視線が絡み合った。

それからすぐに角を曲がって出て行った先生の残像を思い起こすように目に力を入れた。


「ねぇ、奈乃香」

「ん?」

「先生ってさ、彼女いると思う?」

「えぇーどうだろ。結構かっこいいし、いそうじゃない?」

「だよね」

「なに? 狙ってんの?」

「違うよ、興味あるだけ」


奈乃香は楽しげに笑いながら、手に持ったアップルジュースの紙パックをストローでちゅうちゅうと吸った。

それを一口もらいながら教室に戻ると、ロマンチック関谷と友達にからかわれて、笑いながらその輪に入った。

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