第27話
次の日の朝。
除菌シートを片手に掃除する私。
理由はもちろん、午後から神白くんがこの部屋に来る予定だから。
余計なものをしまって、トイレ掃除も済ませて、ふうと息をつく。
先週リョウちゃんと偶然再会してから、その日に神白くんと付き合うことになって、そして昨日リョウちゃんが同じアパートに住んでいることを知って。
ここ最近になって、平凡だった日常が目まぐるしく動き出してる。
まるで高校生の時の日常の続きを経験しているような――――……。
リョウちゃんと再会したことがきっかけで、こんなにも日常が変わるなんて……それが、なんだか怖い。
そんなの、まるでリョウちゃんを失った世界が色褪せていたかのようだから。
このままじゃいけないと分かってる。
リョウちゃんと私は、再会したところで結ばれることはない。
だから、断ち切りたい。
今度こそ、リョウちゃんへの想いを――――。
(神白くんのことを、リョウちゃん以上に好きになればいいんだ)
カヤちゃんの言葉を思い出す。
『少なくとも神白くんは、もっとプライベートで会いたいんじゃないかな』
(……そうだよね。付き合ってるんだもん。普通だよね)
部屋に呼ぶことなんて。
特に何もない部屋だし、神白くんには勉強道具を持ってきてもらって、二人で勉強しようと昨日約束したのだ。
――――そして午後。
インターホンが鳴って、出るとエントランスのカメラ越しに神白くんの顔が見えた。
「はい」
『あ、神白です』
「神白くん。今、開けるね」
エントランスドアの解錠ボタンを押すと、私はすぐに玄関に向かい、神白くんを迎えに行こうと靴を履く。
私の部屋は三階にある。三階のエレベータ前で待っていると、すぐに神白くんが上がってきた。
神白くんはいつものリュックを背負って、手土産らしい袋を持って、何だか緊張してるような面持ちでエレベータから出てきた。
「お、お邪魔します」
部屋に招き入れると、きっちりと靴を揃える神白くん。
散らかってはいないと思うけど、なんせ東京の利便性の良い一人暮らしの狭い部屋なもんだから、見えるところに生活用品を収納していて、ちょっと恥ずかしい。
何だか自分の内面を見られているみたい。
「本郷さんの部屋、さすが女の子の部屋って感じだね」
感心したように、神白くんが言う。
「そ、そうかな」
べつに普通だと思うけど。むしろシンプルな方かなと思うので、どの辺のことをそう思ったのか分からない。インテリアも全部ニ◯リだし。社交辞令かな?
神白くんの表情がいつもより固くて、何だか私も緊張してくる。
大学で会うのと違って、空気感がこそばゆい。
だから早々にキッチンへ逃げることにした。
「お茶淹れるね」
「あ、お構いなく。そうだ、これ。休憩時間に一緒に食べようと思って買ってきたんだ」
有名ケーキ店の袋に入った箱をそっと両手で持ち上げて、神白くんが言う。
「それと、これも」
そしてもう一つの小さな袋には、神白くんと行ったあのメンヘルチックな外観の本格派珈琲店の名前が書いてある。
きっと持ち帰り用のドリップ珈琲だ。
「わ、ありがとう」
思わず笑みがこぼれた。ここの珈琲好きだから、嬉しい。ケーキも確か結構並ばないと買えないんじゃなかったかな。
二つの袋を受け取って、廊下に面したキッチンへ移動する。
ケーキの箱を冷蔵庫に入れると、ティ◯ァールでお湯を沸かす。
珈琲はケーキと一緒の方がいいかなと思って、ひとまずお茶のティーバッグをマグカップに入れた。
お茶が入ると、マグカップをリビングのコタツ机に置いて、座布団付きの座椅子に腰掛ける。
神白くんはコタツ机前のソファに腰掛けている。
お茶を飲みながらしばらく何気ない話をしているうちに、いつもの雰囲気に戻ってきた。
と、思ったら。
少しして、突然神白くんが改まったように口を開く。
「あ、あのさ、こんなこと聞くのもどうかとは思うんだけど……」
「何?」
「本郷さんって、今までに付き合った人、いるのかな?」
え?
付き合った人?
……なんでそんなこと聞くんだろ。
神白くんは、「そういえば聞いたことなかったなと思って」と付け加える。
確かに。話したことないかも。
「いないよ」
正直に答えると、神白くんは驚いたような顔をする。
「え!? ほ、ほんとに!? 一人も!?」
「うん」
「そ、そっかぁ」
そしてまた緊張したような顔をする。
まあ彼氏だし、恋人同士の会話としては普通なのかも。今まで聞かれなかっただけで。
そう思って、同じ質問を返してみた。
「神白くんは?」
「え!? 俺!?」
「うん」
「お、俺は…………います。何人か」
いるんだ。
それも何人も。
白状したように言う神白くん。
「そうなんだ」
「う、うん」
不思議と何とも思わない。ほんとに、そうなんだーとしか。こういうことを聞くと、ちょっと複雑な気持ちになるのかなと思ったけど。
過去のことだからかな。
むしろ、逆に興味本位でさらに聞いてしまった。
「何で別れたの?」
「え!? な、何で!? …………幻滅しない?」
「うん。大丈夫」
幻滅するような内容なのかな。
ちょっと気になる。
「俺、当時は恋愛に興味なくて。告白される度に、まあいいかって気持ちで軽く付き合ってたんだ。それで、たぶん大して好きじゃなかったから、あんまりちゃんと愛情表現してなくて。毎回女の子に泣きながらフラれるのが定番になってた」
反省。
というように、しゅんとした顔で背中を丸める神白くんを見て、意外だと思ってしまった。
そんな冷たいタイプに見えないのに。何人もの女の子を泣かせてきたなんて、ほんとに意外。
「何人かって、何人?」
そして、項垂れる神白くんにさらに追い打ちをかけるように聞いてしまう。
「え!? ……えっと、十人……くらい」
「十人っ!?」
思ったより多くてびっくりした。
神白くん、やっぱりモテるんだ。
神白くんが早くこの話を切り上げたがったので、二人でコタツ机に向かって大人しく勉強を始めることにした。
本当はもっと聞きたかったんだけど。
彼女なら、普通は嫉妬したりするものなんだろうか。
彼氏を家に呼んでそれぞれ別々に勉強するのもどうなんだと思ったんだけど、ある意味それが私たちらしいかもしれないと思って、大人しく教材と向き合ったのだった。
――そして約二時間後。
勉強が一段落したところで、ケーキと珈琲で休憩タイムに入る。
一緒に勉強するとは言っても教え合ったりするわけじゃないから、勉強中の会話はほぼなかった。
神白くんは、見たところどんどん課題を終わらせていてすごいと思った。さすがは優等生。
私も案外集中出来たけど、お家デートとはこれでいいんだろうかと疑問は残る。
「あの……本郷さん」
ティータイム中、神白くんが話しかけてくる。
何だか改まった表情で。
「今日部屋に入れて欲しいって言ったのは……君ともっと距離を縮めたいと思ったからなんだ」
精一杯のカミングアウトというように、また緊張が伝わってくる。意を決して話してくれてるんだなと思って、真剣にその顔を見つめる。
「うん」
「……キ、キスをしたり、その先のことも、君としたいんだ」
「……」
ダイレクトな単語が出て、少しドキッとした。
キスをしたり、その先のことも……?
私は漠然と恋人同士がするであろうスキンシップを思い浮かべる。
自分がそれをするなんて、非現実的だと思ってしまうけど。
「さっき、付き合った人がいるか聞いたのは、経験があるのかを知りたかったから。君が怖がるなら、慎重にしたいし、急ぎたくない。でも、焦ってしまうんだ。あの人の存在が、ものすごく脅威に感じて……」
『あの人』……。
昨日の出来事を思い出す。
リョウちゃんが、私たちの真横から声をかけてきたことを。
神白くんは、リョウちゃんのことを脅威に感じてるんだ。
私を、リョウちゃんに取られると思って……?
「……大丈夫だよ」
反射的に口が動く。
リョウちゃんと別れたあの日を思い浮かべながら。
リョウちゃんは、突発的にあんな行動を取る人じゃない。
覚悟を決めた上での、別れだったんだから――――。
だから、昨日のことは本当にタイミングが悪かっただけだと思う。
私は真っ直ぐに神白くんを見つめる。神白くんも、私から目を逸らすことなく見つめてくる。私の内面を探るように。
「今は、ただの幼なじみよりも遠い存在なの。私も、あの人も、そう思ってるから」
「……」
神白くんが、ゆっくりと席を立って、無言のまま近付いてくる。
「じゃあ、証明してくれないかな?」
いつの間にか、座椅子に腰掛けた私のすぐ前に神白くんの体がある。
私の太ももの真横に手と膝をおいて、反対の手は座椅子の背もたれへ。
目の前には、神白くんの整った綺麗な顔が――――。
その行動力に驚いて一瞬フリーズしてしまった。でも、私の運命は神白くんと共に動き出してしまった。もう、止められないんだ――。そう思って、覚悟を決めて目を瞑る。
でも。
何故か手が、神白くんの胸を押してしまって、その動きがピタリと止まる。
恐る恐る目を開けると、神白くんがじっとこちらを見ていた。
「……嫌、かな?」
そう聞かれて、首を横に振る。
でも何故か、手は神白くんの胸を離れてくれない。
(なんでだろう)
目を合わせられなくなって、さっと俯く。すると神白くんの体の方が、スッと私の手を離れた。
「ごめん。焦りすぎたみたいだ」
神白くんは、波が引くように私から離れてソファへと戻る。
「う、ううん、ごめん。私も、嫌じゃないのに、何故か手が動いちゃって」
「初めてだもんね。当たり前だよ」
そう言う神白くんの表情は少し傷ついているようで、胸が痛んだ。
本当に分からない。
どうして、拒んでしまったんだろう。
覚悟を決めたはずなのに。
リョウちゃんのことを忘れたいから、神白くんと付き合うなんていう失礼なことをしたから、体が受け入れてくれなかったのか。
神白くんとは、神白くんとのこととして、ちゃんと向き合わないとと反省する。
「本当にごめん」
神白くんが謝るたびに、胸が痛んで苦しい。
それからしばらく気まずかったんだけど、神白くんが気を取り直したように「食べよっか」と言ってくれたので、買ってきてくれたケーキを二人で食べて、珈琲を飲んだ。
それでも、少し気まずいなぁと思っていると、
「考えてみたら、いきなり部屋に来るなんてびっくりしたよね。焦りすぎたといえば、そこからだよね」
と、ハハッと笑いながら神白くんは言う。神白くんはいつも本音で向き合ってくれる。
だから私も、正直に言うことにした。
「うん……びっくりしたのは、そうかも。でも、嫌っていうわけではなくて。ただ、キ、キスとか、そういうのはまだ、心の準備が……」
「うん、分かった」
本音を言ったからなのか、神白くんは少しホッとしたように笑ってくれた。
それを見て、私もホッとする。
もしかすると昨日キスされそうになった時も、リョウちゃんが止めなくても、自分の手が止めていたかもしれないとも思った。
「その……私こそ、ごめんね。不安にさせちゃって。昨日のことがあったからだよね」
「いや、……嫉妬深くてごめん。ちゃんと否定してくれてたのに」
「ううん。私も、神白くんとの今後のこと、ちゃんと考えるね」
「ありがとう」
それからは穏やかなティータイムを過ごして、夕方神白くんは帰っていった。
エントランスまで送りたかったけど、もう薄暗いから危ないと言われて、大人しく部屋で見送った。
アパートの敷地内なのに。
神白くんは過保護だ。
(神白くんとのこと、ちゃんと考えないと。キス……出来るかな)
一抹の不安はありながらも、一先ずお家デートは無事終わったのだった。
◇◇◇
お互いに、同じタイミングで気付いたと思う。
本郷さんと別れて、エレベータを降り、エントランスに向かう廊下の途中で、鉢合わせてしまった。
――――“あの人”に。
「……」
「……」
相手は目線を外して、素通りしようとしていると感じた瞬間、思わず口が動いた。
「あの!」
「……」
チラリとこちらに寄越す、冷たい目線。
昨日といい、店で見た人物と本当に同一人物かと疑ってしまうほどの豹変ぶりだ。
いや、昨日ともまた違う。
何者も信用していないというような、野生の獣のような雰囲気を感じ取る。
……構わない。
どんな人物であろうと、怯むものか。
「昨日はどうも」
斜め前にいる相手の方に顔を向け、話しかける。
すると、相手も立ち止まった。
「…………ふーん。今日はちゃんと部屋でしたんだ。えらいえらい」
ほぼ初対面に近い人間に対して発する言葉ではない。
常識がないのかと疑ってしまう。
店で会った時は常識人に思えたが、どうやらそうではなかったらしい。
「瑠夏さんとお付き合いしている神白です。ちょっといいですか?」
「……なに?」
「昨日、何で邪魔したんですか?」
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