2. 徒に酔い
駅は、閑散としていた。
人の姿はあるけれど、目的を持って行動しているようには見えない。たいていは、端末を覗いているか、目線を落として視界に表示された何かを見ているか、あるいは虚空を見つめている。
違う場所へ移動するという行為自体が、もう古いのかもしれない。
向かいのホームのベンチで、男が横になっている。乱れた髪。やつれた服。どこか緊張しているようにも見える姿勢。きっと、眠りの訪れを待っているのだろう。
エリュカは腕時計を操作した。数秒遅れて、男の姿が消える。
残ったのは、空のベンチ。
このコンタクトレンズは、懸賞で当たったものだった。高級品で、お薦めとして広告にすら表示されないようなものだ。
とはいえ、普段使うことはあまりない。
見たくないものを風景として消去するのがほとんど。あの人には悪いけれど……。
見たいものを見せることもできるが、それはしていない。
虚しいだけだからだ。
電車が来た。
中も同様に閑散としていて、まるで何かの芸術作品のように非現実的だった。
席に座る。
わずかな揺れ。そして、窓の向こうが動き出す。
流れてゆく灰色の街に見るべきものはなかった。
都市の外周部なのだから、もう少し風景に緑があっても良さそうなものだけれど、実際そこにあるものは、どことなく頼りない姿の植物くらいだった。
都市の外には、何もない。
いや。自由があるとも言われている。
過激な評論家がニュースで話していた。都市では自殺もできないと。
もちろんそれは比喩で、やろうと思えば、物理的に死ぬことはできるだろう。
しかし、社会システムに張り巡らされた思い遣りと助言者の気遣い――両者の見守りによって、たいていの人は自殺を思い留まるのだという。
つまりその評論家は、住民は生を強要されている、と言いたいのだろう。
電車が止まり、ホームに降りる。
またしても閑散な駅を通り抜け、外へ出る。
そこから更に外周部へ近づく方向へしばらく進むと、ライブハウスの看板が遠くに見えてきた。
生を強要されるというが、生とはなんだろう。
求め、それを得ようとすることの繰り返し?
わからない。
わからないけれど、楽しいという気分を求めている自分は、まだいる。
かろうじて。
エリュカはビルの前に立った。ライブハウスの看板は地下を指している。どこかから漏れ出ている籠った音。まるで頭の中で響いているように。
地下へ続く階段を下りていく。
扉。
開けると、音は音楽となり、空間を包み込んだ。
まだ曲目は始まっていない。
密集した人々。こちらへ向けられる眼差しがいくつか。探査、吟味、そして容認。悪い気はしない。
少しすると音楽が静まり、無音が舞い降り、周囲は闇に落ちた。
冥暗。
紡がれる言葉。呼び覚まされる音。飛び交う光。
現れ、消え、そして再び現れ、消える。
あやふやな存在の裏に潜む虚ろ。
対して、人々は熱狂している。
手を振り、飛び跳ね、声を放つ。
彼らは、まだそこにある。
消えることはできない。
逃れる息。流れ落ちる汗。
かすかな人間の匂い。
悪い気はしない。
エリュカはいつの間にか、外にいた。
ひんやりとした外気。良いライブの条件の一つは、終わったことを聴衆に気づかせないことだ。
浮遊感に包まれながら、夜空の下を歩く。
生とは、生きることに気づかないことかもしれない。
そんな考えが浮かんだことに少し満足し、「はぁー」と息を吐いた。まだ白くはならない。
静まり返った街。
暗い路地裏を通り過ぎようとしたときだった。
視界の端で、何かが動いたような気がした。暗がりが一瞬、ひずんだような。
エリュカは立ち止まり、路地裏を覗いた。
黒い影。
人の形をしている。
よく見ると、実際、それは人だった。
黒いレインコートのような、風変りな服装。コンタクトレンズがなんらかの補正を掛けていると疑ってしまうほどに。
立ち上がった烏のようなその人物は、どうやら、頭上を眺めているようだった。
思わずこちらも上を見る。
空間を隔てる建物の縁。黒い空。瞬く星がいくつか。
視線を戻すと、烏はまだ空を見ていた。
何をしているのだろう。
そう思っていると、烏はわずかに羽を――体を揺らし、そして……その場に倒れ込んだ。
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ミセリコルデ 輿水葉 @ksmz
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