ミセリコルデ

輿水葉

1. 朝の問い

 「あっ」という声を出したときには既に遅く、卵の殻から抜け出た中身は滑るようにコンロの上を這いずり、そのままシンクへと零れ落ちた。


 エリュカは溜め息を吐きながらフライ返しで黄身と白身を掬い、生ゴミ用の小袋にその哀れな残骸を捨てた。

 目玉焼きは諦め、トーストだけを皿に乗せ、テーブルに移る。

 咀嚼。


 小さな罪を感じながらも、実際に考えていたことは、ついさきほど自分が出した声についてだった。戸惑い。喉の緊張。声を出すその一瞬まえに声を出そうとまごついている意識……。なんだか、久しぶりに生の声を出したような気がする。


 そんなふうに朝の小さな――よくある失敗に対して思考をこねくりまわしている自分を眺めてみると、少し愉快な気持ちになれた。

 けれど、そのささやかな昂ぶりは、生命を無駄にしたという逃れられない事実をかえって強め、結局のところ、気分を落ち込ませた。


「おはようございます。今日の気分はいかがですか?」

 やや籠った音声が頭の中に響いた。助言者からのメッセージだ。朝というには遅すぎる時間だけれど、ユーザーの生活リズムに合わせ、気を利かせてくれたらしい。


「少々気分が落ち込んでいるようですね。冷蔵庫にあるオレンジジュースを温め、シナモンを振りかけて飲むのはいかがでしょう? あるいは――」

 エリュカは耳に掛けている小さな機器に手を翳し、音声を中止させた。併せて、腕時計を操作し、いくつかの表示を確認する。


 助言者。着用機器を介して生体情報を得、社会システムに直結した人工知能がデータを処理し、ユーザーにとって好ましい影響を与える可能性の高い行動を提案する。


 そう説明されれば聞こえはいいけれど、正直に言って、むっとさせられることのほうが多いような気がする。

 落ち込んでいるときは、気分が盛り上がるようなことを持ち掛け、珍しく有頂天になっているときは、心が静まるようなことを持ち掛けるわけで、わかりきったことを指示されているというか、つまりは、大きなお世話なのだ。


 ニュースによると、その人工知能は都市計画を任せられるほどに強力なものであるらしい。そうであるならば、ユーザー自身の思いも寄らない、新しい未来を切り拓くような、斬新な行動をそれとなく提案してほしい……と願ったことは特にない。


 空になった皿を持ち、キッチンへ向かう。コンロの上でかすかに光る、ナメクジが這ったあとのような白身の痕跡。

 人工知能はデータの集まり。

 人間のことは知っているかもしれないが、一人一人が持つ心の奥底までは見通せないのだ。

 そんな存在に、自分の未来を切り拓いてほしいだろうか?


 皿を洗っていると、耳掛けがわずかに震えた。通信だ。視界の端に母と表示される。

「もしもし」

「エリ、元気ぃ?」

「元気だよ。どうしたの?」

「どう? 毎日?」

「べつに普通」

 皿を水切りラックに立て掛ける。

「お仕事は?」

「普通」

「なによ、それじゃわからないでしょ」

 手をタオルで拭く。

「で、どうしたの?」

「あのね、引っ越しの話、決まったから」

「うん」

「あんたのもの、もうまとめたから、そっちに送るからね」

「はいはい」

「今日は? 仕事?」

「休み」

「なに? 忙しいの?」

「え? 休みだってば」

「だって、その話しぶり」

「あー、ごめん。ちょっと、忙しくて」

「しっかりしないと。女の一人暮らしなんだから」

「はいはい。わかってます」

「それじゃあね」

「はい」


 通信を切る。

 母からの提案。これも指示といえるだろう。

 では、これも大きなお世話?

 いや。そこまで薄情ではない。


 母はもちろん、こちらのことを知っている。赤ん坊の頃からだ。生み、育て、いままで面倒を見てきてくれた。心の奥底とまではいわなくても、人工知能よりはこちらのことを知っているだろう。

 では、母に未来を切り拓いてほしいだろうか。

 ……それも嫌だな。


 エリュカはリビングに向かい、窓の前に立った。

 よそよそしい日差し。気怠い建物たち。

 腰に手を当て、大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

 要するに、自分は我儘を言っているだけだろうか。

 未来は自分自身のものであると。

 あるいは……。

 諦めているのだろうか。

 血の繋がった親にも、偉大なる知性にも、自分の強張った未来を解かすことなどできるはずがないと。

 人のいない、忘れ去られた林に淀む、凍り付いた沼のような未来を。


 エリュカは目を瞑り、小さく震えるように首を振った。

 やめよう。こんな暗い考えは。


 今日は、せっかくのライブの日なのだから。


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