涙茉はずっと、掃除をしなくてはならなくなった。

 広大な香山家の屋敷の掃除を、ひとりで、毎日、ずっと。不浄な〈蠅〉のお嬢様にはそれがお似合いだと、瑠陽は笑った。瑠陽の機嫌が悪いときは、一日中雪隠せっちんの掃除をすることを課された。

 涙茉の食卓には時折、生肉が並んだ。食べないことは許されなかった。咀嚼するとねちゃねちゃとした食感がして、吐きたくなったけれど我慢して食べた。

 満月の綺麗な夜が怖かった。障子から零れる月明かりを纏いながら、瑠陽が包丁を持って、涙茉の手首を丁寧に切り刻むから。貴女は〈蠅〉なのだから、溢れた汚い赤色の血を舐め取りなさいと言われるから。


 十八歳の誕生日を翌日に控えた夜も、空高くに美しい満月が昇っていて。

 もう真っ白な傷跡だらけになった手首に、今日も瑠陽は赤色の線を生む。


「涙茉からは、いつも、気持ち悪い匂いがするわ」


 その言葉に、涙茉は悲しそうに、悔しそうに目を伏せる。


「……まあ、〈蠅〉のお嬢様だから、当然よね」


 瑠陽はそう言って、包丁に付いた涙茉の血の匂いを嗅ぐ。

 それから、忌々しげに涙茉と目を合わせた。


「昔からずっと、お前のことが嫌いだったわ。私が受け取るべきだった愛を、お前が全て奪っていったから。どうせ私のことを見下していたんでしょ?」

「……見下して、なんか、」

「口答えするな」


 瑠陽は包丁の切っ先を涙茉の首筋にあてがう。ひゅ、と涙茉は短く息を吸い込んだ。


「でももう、いいの。お前は〈蠅〉で、私は〈百合の花〉。上下関係が覆ることは、絶対に訪れないから」


 涙茉の首から、とろりと淡く血液が零れた。

 にんまりと、瑠陽は笑う。


「そういえば私ね、結婚することになったのよ」


 その言葉に、涙茉は目を見開いた。

 期待、した。瑠陽が嫁入りで香山家からいなくなれば、涙茉はほんの少しだけ、今よりも人間らしく扱って貰えるかもしれない。やさしかった両親はもうやさしくないけれど、無関心な分、瑠陽よりは、やさしい。

 そんな涙茉の期待を、表情から読み取ったのか。

 瑠陽は、くすくすと嗤った。


「ああ……結婚と言っても、婿よ?」


 涙茉の黒い瞳が、段々と絶望に染まっていく。

 それなら、瑠陽は、この家からいなくならない。


「香山家の家柄を考えれば当然でしょう? 力だけでなく思考も愚かなのね」


 瑠陽は涙茉の首筋から包丁を離すと、口角をつり上げた。


「涙茉、ずっと一緒にいようね。お前が襤褸雑巾ぼろぞうきんのように事切れるまで、ずっと、一緒よ」


 涙茉は痛々しい真っ赤な手首をさすりながら、さらさらと透明な涙を流した。


 *


 着物の袖をはたはたと揺らしながら、涙茉は満月の綺麗な夜空の下を駆けていた。

 行く宛てなど存在しなかった。それでももう、限界だった。

 走れば走るほど、体力は朽ちてきて。

 疲労で痛む足をどうにか動かして、涙茉は香山家の屋敷から遠ざかっていく。


 気付けば涙茉の前に、深い森があった。

 涙茉は少しの間逡巡した。夜の森はきっと暗くて、涙茉も人間だから暗い場所は怖い。

 でも――涙茉の脳裏にふとよぎったのは、昔読んだ物語。

 何もかもに絶望した王女様が、森の中で優しい木漏れ日を浴びながら、首を吊って安らかに死ぬ物語。

 涙茉の眼差しは確かな憧憬に染まっていた。


 ゆっくりと、涙茉は森の中へと足を踏み入れる。

 暗い世界は空高く昇る満月によって微かに煌めいていた。

 ここで死ぬことができたらどんなに幸せだろうか、と涙茉は思う。このまま生きていても、苦しいことばかりなのだろう。それならばただ、自分の意思で、死にたい。

 死に場所を探すように、涙茉はふらふらと歩き続ける。

 そんな彼女の視界に、が映り込んだ。


 ――――血とはらわたを零して死んでいる、兎の死骸だった。


 どくんと、涙茉の心臓が脈打つ。

 動物の死骸に惹かれるようになったのは〈蠅〉の力を授かってからだ。そんな自分が嫌だった。不純な気持ちを振り払うかのように、涙茉は二、三度首を横に振る。

 兎に何があったのか涙茉にはわからない。けれど、この世界は弱肉強食だ。この兎はこの兎より強大な何者かによって、殺されてしまったのだろう。

 その姿に、気付けば涙茉は自分自身を重ねていた。

 涙茉はそっと、兎の死骸を両手で包み込む。


 それから――〈蠅〉の力を、使った。


 兎の死骸は黒く輝く光の粒に包まれて、それが終わる頃にはまるでただ眠っているかのような綺麗な亡骸へと変貌していた。


「……どうか、安らかな場所へ」


 そう言って、涙茉は兎を地面へと下ろす。

 埋葬しようと思って、適切な場所を探そうと視線を彷徨わせた。

 そうしてようやく、気が付いた。



 ――――涙茉の側に、一人の麗しい青年が立っていた。



 黒い髪には艶があり、月光を浮かべる瞳は赤色と緑色が混ざり合ったような不思議な色彩をしている。

 上背があり、細身ながら男性らしいしなやかな筋肉が付いているのが、着物の上からでもわかった。

 二人は暫くの間、見つめ合っていた。

 静寂を破ったのは涙茉の方だった。


「…………どなた、ですか」

「ああ、すみません……余りにもいい香りがするから、つい」


 青年はそう告げて、申し訳なさそうに微笑んだ。

 涙茉は数度瞬きを繰り返して、それからぐにゃりと表情を歪める。

 震えてしまう声で、言葉を紡いだ。


「……わたしは、いい香りなどでは、ありません」



『涙茉からは、いつも、気持ち悪い匂いがするの』



 瑠陽の言葉は正しいと、涙茉は思う。

 だって涙茉は〈蠅〉だから。〈百合の花〉の力を持つ瑠陽からは、本物の百合の花のような気高く美しい香りがする。自分の匂いは自分ではよくわからないけれど、〈蠅〉の力を持つ涙茉からはきっと不浄な匂いが漂っているに違いない。町で人とすれ違うときも、何だか皆、顔を顰めているような気がするのだ。


 きゅっと唇を引き結んでいる涙茉に、青年はゆっくりと歩み寄って。

 そうして涙茉の、傷跡の残る首元に顔を近付けた。


「え……えっ、」


 涙茉の驚きの声など気に留めた様子もなく、青年はすんすんと鼻を動かして。

 それからもう一度、涙茉へと微笑いかけた。


「やはり、いい香りです」


 涙茉は呆然と、青年を見つめて。

 気付いた頃には、彼の胸に顔を埋めて、わんわんと号泣していた。

 気持ち悪い匂いって何度も何度も言われ続けて、年頃の娘である涙茉にはそれが嫌で、〈蠅〉であることを突き付けられているようにも感じて、でもその匂いは絶対に覆すことができないって信じ込んでいた。


 だから、救われたように思ったのだ。


 名前も出自も知らないこの青年の言葉が、涙茉にとってはどうしようもなく温かかった。

 泣いている涙茉の背中を、青年は優しくさすってくれる。

 彼からも、綺麗な香りがした。今まで涙茉が嗅いだ香りの中で、一番、いい香りだった。

 まだ死ななくてもいいのかもしれないな、と涙茉は嗚咽を漏らしながら考えた。

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