女神の祝福が少しななめ上だった結果

穂高奈央

第1話 最初から没交渉

 それはうららかな昼下がり。


 メルクーリ公爵家の広大な庭園。大きめのガゼボの下、テーブルの上には淑女でも気にせずつまめる一口サイズの焼き菓子が何種類も並んでいる。

 侍女が鮮やかな色の紅茶を、鮮やかな手つきでティーカップに注ぎ落とし、アルティミシアの前に音もなく置き、一礼して下がっていった。

 さすが公爵家の侍女。あの高さからしぶきもあげずに茶を淹れるなんて常人にはできない。


 アルティミシアの向かいに座るのは、同い年の14歳、メルクーリ公爵子息。

 嫡男で、筆頭公爵家の次期公爵だ。


 少し大きな声で呼べば来てくれる程度の距離を保って、侍従と侍女が控えている。大きめとはいえ屋根があるだけの、見晴らしのいいガゼボだ。何か間違いが起こるわけもなく、実質上の二人きり。

 この距離でかわす会話の声が、誰に聞かれることもない。


 少し伏し目がちにして目を合わせないようにしていたアルティミシアは、意を決してまっすぐに前を見据えた。

「メルクーリ様」

「ミハイルと呼んでほしいと言ったのに」

 アルティミシアを見つめたまま、甘やかな声で、しかし食い気味にミハイルはアルティミシアの言葉を訂正した。

 空気がおかしい。前回会った時、つまり最初に会った時は、こんな風ではなかった。

 アルティミシアはぐっと息を呑み込んだが、こんなところでくじけていては話が進まない。


「ミハイル様」

「ミハイル」

 様付けもするな、と。無茶なことを言う。こちらはしがない伯爵家の三女だというのに。

 少し胃がきりきりするが、仕方がない。

「・・・ミハイル」

「何?」

 ミハイルはとろけるような笑みを見せた。怖い。

 正直怖いが、これはアルティミシアが事情を抱えているがゆえのことで、一般的にはこの笑みは、「国の至宝」と呼ばれているものだ。

 蜂蜜を溶かしたような金の髪は少しだけくせがあるが、短くきれいに整えられている。そして切れ長の深い碧の瞳、すっと通った鼻梁。笑みを浮かべる、薄い唇。

 まだ14歳だというのにすでに完成されたその顔立ちは、社交界デビューもしていないのに貴族の間ではすでに有名になっている。


 今年15歳になり成人、立太子したばかりの王太子よりも話題に上ってしまい、筆頭公爵家としてはいたたまれず、沈静化を図ろうとしていることはアルティミシアも貴族のはしくれとして知っていた。

 情報として、知ってはいた。

「やはり無理があると思うのです」

「何が?」

 ミハイルは小さく首をかしげた。

 全部です。

 アルティミシアは言いかけた言葉を飲み込んだ。

 ここでそれを言っても仕方がない。中には解決しようのないことも含まれている。

 ただ、現時点で言えることも一つある。

「この婚約には、無理があります」

「いやない。もう決まった。両家の署名が入った婚約誓約書も提出して受理されている」

「え」

 アルティミシアはつい令嬢らしからぬ声を漏らしてしまった。

 仕事が速い。速すぎる。


 ミハイルから、いやメルクーリ公爵家から婚約の打診があってまだ3日しか経っていない。

 筆頭公爵家から弱小伯爵家に婚約打診があって、そもそも断れるはずもないのだが、この速さは打診と同時に両親は署名を迫られていていいレベルだ。

 つまり、アルティミシアが両親からこのことを聞かされた時にはすでに、婚約誓約書に署名がされた後だった可能性が高い。

(仕方がないとはいえ、お父様、お母様・・・)

 それならそうとあの時に、婚約打診の話をした時に、言ってほしかった。


 いつも穏やかでぽんよりしているあの二人が、妙に固まった表情で死刑宣告のように娘に婚約打診を告げたのは、平凡な日常に現れた突然の筆頭公爵家というビッグネームに慄いていたからではなかったらしい。

 いやそれもあるだろうが、もう決まっていることなのに「打診があった (がどうする?)」と娘に言わなければならなかったことに、動揺が隠せなかったのだろう。

 言葉数がやけに少なかったのは、このせいか。

 見抜けなかった自分が恨めしい。

 善良な両親なのだ。あまり心労をかけないでほしい。どのみち「どうする?」と言われたところでこちらに断る選択肢など残されていないのだ。

 あるとすれば、公爵家の方から「やっぱりやめよう」と申し出てくる場合のみ。

 それも、口約束の段階でのみだ。婚約誓約書がすでに提出済みであるなら、この婚約を解消する場合、解消届をさらに提出しなければならない。片方が長期間行方不明になるか、死んでも自動的に解消にはなるが、その場合でも形式的に解消届は必要だ。

 だから、通常婚約しても、確実に婚姻が為されると判断されるまで、婚約誓約書は届けられない。

 何ならすっとばして婚姻契約書しか提出されない場合すらある。

 出さなければならない書類ではないのだ、婚約誓約書は。


「どうして」

 婚約誓約書なんか出したんですか、とはさすがに続けられないので、アルティミシアは濁した。

 婚約了承後、いや正しくはアルティミシアが婚約打診があったことを知らされた時にさっそくミハイルからお誘いがあり、お茶会を設けてもらったこの席で、アルティミシアはこの婚約を公爵家の方から解消してほしいと願うつもりだった。

 だがこうなってしまっては、解消届を提出しないとそれはかなえられない。

「どうして? 婚約をしたから必要な書類を提出しただけだよ」

 ミハイルが困ったように微笑む。

 おかしなことを言う子だなあ、みたいな雰囲気になっているが、いや。

 提出必須の書類ではありません。

 口ぎりぎりまで言葉があがってきたが、アルティミシアはすんでのところで飲み込んだ。

 言ったところで「だから何?」だ。


 わざわざ婚約誓約書を提出する理由。

 アルティミシアは考えた。

 メルクーリ公爵家は、今年成人し立太子した王太子よりも「眉目秀麗で冷静沈着」と名声が上がり騒がれている自家の嫡子に頭を悩ませている。嫡子ミハイルに非があるわけではないのでなおさら頭が痛いはず。

 その嫡子が特定の女性と婚約した。相手はどこの派閥にも属さない、国政に影響力のかけらもない弱小伯爵家の三女。しかも、婚約誓約書まで提出している。

 となると、年頃の娘も声を上げられなくなるし、その親も下手に縁談話などの手を出せなくなる。何せ相手は筆頭公爵家。婚約誓約書を提出した相手を覆させることは普通の貴族には難しい。

 このばか騒ぎは瞬く間に鎮火するだろう。なるほどスマートな案ではある。

 自分が関係していなければ、の話だが。


「火消しのためですか?」

「ありえない」

 ミハイルはまた食い気味に否定した。美しすぎる顔が真顔になると鋭さを増して怖い。

「婚約誓約書を提出したのは、俺の本気を示すためだよ。マリクのことは心底どうでもいい」

 マリクとは王太子の名前だ。さすが筆頭公爵家とあって、王族と幼いころからの付き合いがあるのだろう。

 だが幼馴染だからといって、王族に暴言を吐いていいわけではない。

 外では絶対に言わないでほしい。

「本気・・・ですか」

「そう、俺の本気。もし君にもう好きな人がいたとしても君を逃がす気はないし、ごちゃごちゃうるさい外野に邪魔をさせるつもりもない、という本気」

「・・・」

 重い。さわやかな笑顔で言われても重い。


 これは、『一目ぼれしたから』という口実で打診された婚約だ。だから、その筋書きを忠実にたどって演じているだけだろうとわかっていても、なんだかずしりと来る。

 この婚約話が持ち込まれた本当の理由は、アルティミシアにはわからない。

 貧乏伯爵家に生まれたとはいえ、アルティミシアも一応貴族令嬢ではある。だから、結婚とは家と家との契約であり、必ずしも恋愛が伴うわけではないことは理解している。だから、断れない婚約話に「好きな人がいるのにこんなのひどい!」などという気持ちにはならない。いやそもそも好きな人がいるわけでもない。


 アルティミシアがこの婚約を解消してほしい理由は、別のところにある。


 ミハイルは表情をやわらげて微笑んだ。

「伯爵家の人間が公爵家に嫁ぐということに不安を抱いているのなら、次期公爵夫人としての教育はこれから受ければいい。君なら大丈夫だと思っている。すでに兄君を助けて経営に携わっているそうだね? 優秀だと聞いている。それに婚姻後も、もちろん継続してくれてかまわない」

 その情報、この短期間で誰から聞いた。

 ミハイルと初めて会ったのは5日前のはずだ。

 アルティミシアは内心で慄いていた。

 ストラトス家の嫡子である兄は、すでに後継ぎとして父の補佐に入っており、幼いころから本が好きで勉強が好きだったアルティミシアは、その兄の仕事を手伝っている。

 商家の娘だったなら称えられもするだろうが、貴族令嬢が、しかもまだ14歳の娘がそんなことをしているというのは外聞が悪いとされるため、このことは伏せられているはずだった。それなのに。

 怖ろしい、筆頭公爵家の情報網。

 あと婚約を解消してほしい理由はそれも一つではあったが、根本的にそこではない。


 アルティミシアは意を決した。このままでは埒が明かない。はっきり言うしかない。

「もちろんそのことも懸念事項の一つではありますが、メルクーリ様」

「ミハイル」

 必要だろうか、このくだり。思ったが、アルティミシアは従った。

「・・・ミハイル」

「うん?」

 ミハイルを見ることはできなかった。うつむいたまま、言葉にする。

「あなたは本当に、私のことを、その、女として見ることができますか?」

「・・・」

 賭けだった。どういう答えがかえってくるのか。

 沈黙が怖い。顔を見て言えばよかった。

 今ミハイルがどんな顔をしているのか確かめたかったが、うつむいたまま、動けない。

「アルティミシア」

 優しく、初めて名を呼ばれて、アルティミシアは顔を上げた。

 ミハイルは一分の隙もなくきれいに微笑んでいた。

「確かに俺たちはまだ未成年だ。だから婚姻なんてまだ少し遠い話ではある。君は少し年齢より幼く見られる傾向があるようだからそれを気にしているのかもしれないけど、どこから見ても君は美しい女性だよ。少し強引に婚約を進めてしまったことは自覚している。だからそうやって不安を口に出してもらえるのは嬉しい。俺も話すから、これからも話してほしい。たくさん話をしよう」


 アルティミシアの意図した質問の答えに、それはなっていなかった。


(はぐらかされた? それともやっぱり、記憶は戻っていない・・?)

 アルティミシアには判断がつきかねた。

 あと、『少し強引』ではない。かなり強引だ。有無を言わさずだ。

 ミハイルの笑みが深くなる。

 ご令嬢がたが見たら卒倒するやつだろう。

 できることなら自分も卒倒したかった。

 でも無邪気に「かっこいい! きゃー!」と卒倒できる性格でも状況でもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る