ルスラエク・コデックス/聖なる鎖の姫君と物語を喰う竜 ~逆さ吊りの都と千霊の監獄~

よしふみ

序章 『ワンス・アポン・ア・タイム』




「昔々、あるところに。勇敢で足が長く、顔の作りも良いが、なんともバカで無謀な若造がいました……なんて始まりをもつ、おとぎ話みたいなもんだぜ」


 その老男爵は、半ば隠居したような立場だ。執着があるのは、せいぜい三つだけ。愛しい黒馬への異常な興味。今も、その愛馬に語りかけている。二つ目は、ライフルでおこなう猟。あれは人生最高の遊びだ。三つ目は、大嫌いな親戚ども……。


「家族だからこそ、憎むってこともあるんだよ。その逆も、ちゃんとあるけれどな。だが、貴族の人生がありふれた庶民的な幸福と相性がいいとは限らん。ああ、人間ってのは、まったくもって……あの若造も大変だ。枢機卿の息子か」


 まさか、ひとりで砦に向かってしまうとは。


「ワシが言い出したわけじゃない。戦争のせいかね。どいつもこいつも、最近は死に急ぎやがる。『お姫さまを助け出す騎士殿』なんてものは、おとぎ話のなかだけでやるべきものだ。現実にやって、どうするんだよ、まったく馬鹿げてるぞ!」


 酒が飲みたくなるが、ガマンするほかない。愛馬をなでたあと、集めた部下をながめた。十分に鍛えてきたつもりだが、こういう形で使うことになるとは。親戚どもと、受け継ぐ領地の分配をめぐって戦うときのために、兵隊を用意していたはずだったのに。


「現実は、いつも予想を超えてきやがるから厄介だぜ……」


 親戚の一万倍は厄介な敵と戦うはめになるとは……。


 うなだれた首を持ち上げて、周りにいる兵隊たちを確認した。どいつもこいつも緊張と不安と恐怖に満ちているが、ギリギリで勇敢だ。「逃げ出しちゃいないだけで、百点満点だぜ」。このきびしい現実に向き合っているだけでも、感心すべきだ。戦には、そこそこ男爵もくわしい。怖いのは、十分にわかってやれた。


「さあて、始めるとするか。大砲の準備だ! 外すんじゃねえぞ! 外したヤツは、ワシが直々に再教育として、ぶちのめしてやる!」


 兵隊たちは男爵閣下に忠実だった。作業を開始した彼らを今にも噛みつきそうな態度で監視しながら、老男爵は砦に視線をやった。


「気に入っていたんだぜ」


 誤解のないように。あの若造のことではなく、あの丘に立つ砦のことがだ。勇壮さと幽玄さ、そのどちらもある。


 領民のガキどもが幽霊話におびえてくれる。「あの砦は男爵に殺された大勢の敵が憑りついているんだ」。若い愛人が大喜びする豪奢な部屋も、カード仲間がうらやむ遊戯室も作っていたのに。酒のコレクションもある。地下には、いろいろとため込んでいたのだが。


「ぜんぶ、くれてやるよ。領地経営の大変さを知らぬ若造め。お前のためじゃない。お前の『目的』のためにだ。心の底から感謝しやがれ!」


 怒りっぽくてケチな男爵殿にしては、大盤振る舞いだ。それをさせるほどには、感動した。「あの子を助け出す」。いい言葉だ。おとぎ話のかわいそうなお姫さまには、気の利いた王子さまがいてやるべきだ。男爵にしては、じつに『おやさしい』。普段と比べると、ありえないほどに。


 黒馬がそう思ったのかどうかは定かではないけれど、男爵はこのうつくしい生き物にだけは甘い。秘密をひとつ、ささやいてやるのだ。


「……じつはな。ずいぶんと大昔のハナシになるが……『あの子の母親』に、助けてもらったんだよ。先日、見舞いに行くと、頼まれた。無言だったがね。顔に投げつけられたんだ、絵本を。あれはね、おそらくワシが分析するに……愛情表現だ。絵本を渡す相手が誰かは言うまでもない」


 昔々、あるところに。


「母親がいた。もちろん、子供もね。母親になるためには、どうしたって子供がいなくちゃならん。そうだ。ワシだって、昔はあの絵本を読んでもらったのさ。あれは貧乏くさいハナシだが、それでもファンタジーは愛おしい。わかるだろう? ワシはね、古風な男になるべく育てられた。だから、届けるのさ。お姫さまにな。どいつもこいつも、やりたいようにしちまえばいい」


 とっておきの酒が詰まった、ちいさな酒瓶。それを懐から出して、一口も……飲まないまま。影へと落とす。自分と黒馬の影に。それは地面に当たってくだけることはなかった。まっすぐに影の奥へと『落ちていく』。大地の底に向かって、どこまでもまっすぐに。


 男爵は、「ううむ」と、うなる。不思議な現象だが、最近ではそんなものになれっこになっていた。むしろ、安心までする。自分の領地を襲った『脅威』に対して、この力が再び戦ってくれるというのだから。


「……『竜』よ。貴方は、『物語』が好きな御方だ。それを喰って、力を出すという。こいつは先代の男爵が、戦で敵将から奪った酒。略奪という物騒な名誉の物語が、たっぷりとつまっている。捧げますよ。だから、どうか。哀れな親子どもを、丸ごとお救いください。何組かいるんだ。この酒だけでなく、あの砦も捧げますので」


 すべて、燃やそう。


 火にくべて。


 思い出は、いつも過ぎ去るものだが。


「ときどき、しぶとく。足首をつかんで離さねえんだ。若造、あのお方の小娘、そして、長い旅に疲れた尼さんよ。昔々、あるところに……テメーらが、やってきた」




 ……ひとりでいることが、どうしても耐えられない苦痛だとは思わないけれど。


 すべては、時と場合による。


 かびくさくて、まっくらで、しかも、とびきりせまい地下室に閉じ込められているときには、せめて光にはげましてもらいたい。なにせ、闇というものは絶望と恐怖を呼び寄せてしまうから。


 生きているように思える。


 闇は実在するはずのないものを、実感させてきた。


 まるで正体のわからないまっ黒な獣が、すぐそばにいるような気持ちになる。そいつらは、こちらに襲いかかるタイミングを、息をひそめて待っている。視線を動かせば確認できた。足もとにも、天井にも。闇がいた。この厄介な獣たちは体にも、それ以上に心を好み、容赦なくまとわりついてくる。


 暗がりに閉じ込められると、自分自身と闇の区別さえもつけられない。


 本当に、見えない足もとは今でも無事だろうか。


 闇から這いずり出てきた獣に、食べられていないか確認したくても、見ることは叶わない。まだ食べられていなくても、指のすぐ先で、よだれを垂らした獣が口を開いていないとたしかめる方法もなかった。


 闇のなかで、ひとりぼっちでいることは耐えがたい。そこに長くいれば、やがて心は壊れてしまう。


「怖がっちゃ、ダメだ……」


 だから、この少女は闇から目をそらして、光だけを見つめているのだ。


 あまりにも短くなったロウソクの先。そこで燃える弱々しい炎に、どうにか少女は勇気づけられている。闇の獣どもを打ち負かして、恐怖が呼び起こす妄想から救ってもらえた。オレンジ色のあたたかさ。それに集中しよう。


 闇はただでさえ恐ろしい敵ではあったが、ここの闇は、ふだんのそれよりもずっと厄介だ。揺れている。音を立てて。ああ、これについては妄想などではない。もっと現実的で物理的な危険も、ここでは闇の獣といっしょに暴れているだけ。


 ズズズズズ。また地鳴りがした。不穏な揺れを少女は感じる。こわくなった。だからこそ、ロウソクの先にある光がついに弱まってきたとき、彼女は泣きそうな顔で祈るのだ。


「お願いだから。消えたりしないで……もう少し。もう少しだけでいいから……」


 ちいさな炎は少女の必死な願いを裏切ってしまう。彼女に対して、すこしは悪いと思ったのか、最後の一瞬だけは、とくべつに強いオレンジ色の光を放ってくれたけれど。やがて少女に見つめられながら消えてしまった。


「そんな……」


 まっくらになる。


 少女は落ち込んだ。闇の獣どもは、きっと喜んでいるにちがいない。


 ……しばらくこの闇に耐えられるかどうか試そうとしたものの、闇がもたらす不安は際限なく、ふくらんでいった。


 深い穴にでも埋められたような気持ちになる。もっと、ろこつに言えば、墓に埋められた気持ちなのだ。


 埋葬者は、こんな気持ちなのだろうか。永遠の闇のなかで、どんな期待をいだいても報われないと知ったまま、それでも棺を内側から叩きたくなっているのかも。死んだあとでも、闇は、きっと怖いと思う。


 出してほしい。


 この闇の奥底から。


 勇気はガリガリと削られていく。怖い。しかも、また揺れる。ズズズズズ。いやだ。みじめに泣きだすまえに、ギブアップした。


「しかたない。魔法のロウソクよ」


 闇のなかで手探りだ。拘束された両手で。不自由な状態の体で苦労しつつも、ロウソクの交換作業に取りかかる。ロウソク立てのとなりに用意はしておいた。この部屋にある道具という道具は、すべてちいさな卓上に集合させている。見えなくても、どうにかなった。


 ……交換用のロウソクが、溶けて広がる蝋に上乗せするように重ねられたはず。アタマのなかで前もって練習していたから、失敗することはない。たぶん。「これで、いけるはず」。


 さて、最後の仕上げだ。一本だけ残っていたマッチ棒をこする。ちいさくて赤々と燃える炎が生まれた。リンのにおいが鼻をくすぐる。あわてなくては。それが消えてしまわないうちにロウソクへと使った。


 オレンジ色の灯が復活する。明るさがもどってくれたおかげで、どうにか心が落ちつきはしたものの、新たな問題も生まれている。


 最後のロウソクに火をつけてしまったのだ。


 これもまた、新品ではない。使いかけのもので、かなり短くなっていた。あきらかに質も悪いし、保存環境も劣悪だったようで、安定した燃え方さえもできない。


 ケチな職人が法律違反の混ぜものを入れたはず。においがおかしく、浴びたくない煙まで立てていた。闇を退治してくれるのはありがたいけれど、これが燃え尽きるまで、せいぜい一時間……いや。おそらく、実際にはそれ以下しかもたないだろう。


「……もうすぐ。このせまい『地下牢』は、ほんとうにまっくらになる」


 先ほど思い知らされたばかりだ。闇は怖い。ここは四方に三メートルずつしかない、ちいさな『地下牢』。


 だから逃げられない。せまい場所も怖い。監禁のためにつくられたここには、窓もなく。あげくのはてに監視がのぞき見するための穴も閉じられていた。

遮断され、隔離され、本来は音さえも奪われる場所。恐怖と絶望を囚人に絶え間なくあたえて、素直にさせるか、心を破壊するための意地悪な空間だ。ありもしない罪でも、自白してしまう者がいる理由が少女にはわかった。「ここから出るためなら、何でもする」。


 ズズズズズ。


 また地響きを立てながら、地下の全体が揺さぶられた。たいして高さのない天井から、ホコリが大量に落ちてくる。ロウソクが消えてしまわないように、守る必要があった。


 壁のレンガもギシギシという悲鳴をあげるものだから、つい視線を向けてしまう。ああ、ダメだ。あえて見ないようにしていたのに。数十分ぶりに目撃した。この地下空間の崩壊を心配させるには十分なほど、壁も天井も、ひびだらけになりつつある。泣きたくなった。


 こんなとき。


 恐怖と戦う方法は?


 光以外にもある、知性で挑むという選択だ。状況を理解すれば、ちょっとは恐怖がやわらぐかもしれない。どうして、揺れている?


「これは、きっと、戦いだ……地上じゃ、どんなヤツが派手に暴れてるっていうのよ」


 この恐ろしい振動がはじまってから、どれくらいの時間が経っているのか。少女にはわかっていない。闇は時間の感覚を奪ってしまう。


 牢のすぐ外にある荷物入れには、手入れの行き届いた懐中時計も預けているはずだが。手元になければ無意味だ。少女を閉じ込める分厚い鋼鉄のドアだけは、何もかもが古いこの場所で、ゆいいつ真新しいものだった。蹴りつけても、足が痛くなるだけ。


「ああ、もう。振動で、このドアだけが外れてくれたらいいのに」


 せめて手がつかえたら……両手を拘束する『手枷』に視線を落とした。ロウソク交換もマッチをするのも、これが難しくした原因である。彼女のために用意されたそれは重犯罪者用の特注品であり、きわめて丈夫なつくり。どうやっても壊せそうにない。


 ズズズズズ。また、地上ごと地下が揺れる。


「……不毛なことだ。間違ってるわ。だって。私だって、敵と戦えたはずなのに……」


 時間に縛られている。昼間はともかく、夜はこの場所に閉じ込められて……尋問を受けるという約束だった。異端審問官は、彼女に大きな執着を示していたから。


「あの人だって、敵と戦いたかったはず。私は、敵じゃない。たとえ、ややこしい立場であったとしても……」


 ……「あなたが罪深い者か、そうでないのかは、私が判断いたします」。異端者を探し出して、根絶やしにするのが仕事の女だ。いつも彼女は微笑む顔で見つめてきたが、その目には怒りと知性がある。ひとつでも間違った言葉を口にすれば、殺されるかもしれない。


「やってられない……」


 イスに座る。落ちつけ、落ちつけ。まだしばらくロウソクは燃えていてくれる。混乱して自暴自棄になるのは、もう少しあとでもいい。ためいきを吐いた。火を吹き消してしまわないように注意しながら。


 ……背もたれに頼って背中を伸ばしてみたいのに、このイスにはなかった。これも尋問する対象に、不安を与えるためのデザインだ。それが確かな有効性を持っていることを、少女は痛感する。また……揺れた。不安のせいか、どんどん疑問がふくらんでいく。


「何時間、戦っているんだろう。それに。どうして、誰も私をここから出してくれない」


 それほどの罪だろうか。生まれたことは。


 ロウソクを横目で見つめる。これだけは消えて欲しくない。まっくらになれば、闇の底にいることになるからだ。そうなれば、恐ろしい幻覚でも見るかもしれない。数百年の歴史がある地下牢では、どれだけの罪人が死んできたのか。幽霊は見たくない。


 心細さがきわまって。口にしそうになる。言いたくなかった願いを。それは幼いころからガマンしていたのに。ずっと、ずっと。「だれか、わたしをたすけてよ」。


 ドン!


「……っ!?」


 少女を閉じ込める鋼鉄のドアが、大きな音を立てた。次いで、声も聞こえる。


「そこにいるのか?」


「い、いるわ! ここよ。ここから……出してくれるの?」


「ああ。待ってろ」


 だが。異端審問官の女ではない。知らない声。しかも、若い男。鍵穴をいじるガチャガチャという音に、不安を覚える。この訪問者は、十六才の少女にとって安全な人物なのだろうか?


 イスから立ちあがると、奥の壁に背中からぴったりとはりついた。とおからずこの部屋に入ってくる男と距離を取るために。両手を拘束している手枷の重さは十分だ。これを叩きつければ、気絶させられる―――鋼鉄のドアがギギギと重たげな音を立てながら開いた。


「助けにきたぞ」


 金髪と、青い瞳の少年だ。会ったことはない。それでも、瞳の色には覚えがある。いつも鏡を見れば、この色に出会えるから。少女と同じ、ルスラエク一族のもつ鮮やかな青だ。


「もしかして、あなた……」


「そうだ。オレが『北』にくると聞いていなかったか?」


「聞いていたわ」


 ふたりはお互いの関係を理解する。彼女は少年が自分の額の『それ』を見ようとしたから、自己紹介は足りると判断していい。包帯でぐるぐる巻きにされている部分だ。そこをじっと見つめられることには、なれている。だからといって、見られたいわけでもないが。


 首を振り……『それ』を隠すようにする。


「あ、ああ。すまない。気に障ったか。レディーに対して失礼だったよ」


「別に」


「誤解はしないでくれ。オレは君を助けにきただけで……」


 少年の視線が気まずそうに彼女の顔から離れる。そのおかげで、気づけたものもあった。


 このせまい空間に置かれたままのちいさな机。ロウソクの明かりのすぐ近くに、革製の『工具包み』があったのだ。はみ出した中身が問題である。それらは工具などではなく、拷問のための器具だ。少年の顔はすぐさま険しくなった。


「あの異端審問官の女に、拷問されたのか?」


「ううん。されていない。その怖い道具を見せつけられて、脅されはしたけれど。それに、ここへ閉じ込められたままにされた」


「いつから―――いや。そんなことは、後だな。今は、逃げないと」


 青い瞳が少女の手枷を見た。ロウソクの明かりに照らされたそれに怒りを覚える。


「外してやる。だから、殴りつけようとするんじゃないぞ」


 少女は従ってやることにした。手枷が外される。同時に、天井がまた大きく揺れた。


「ねえ。さっきよりも、揺れが強くなっている気がするんだけど」


「正しい。時間がないってことだ。装備を、回収しろ。オレは火薬を取ってくる」


「火薬……?」


「わかったな」


「え、ええ」


 立ち去る少年の背中をにらみつける。安心はできない。できないが、いつ崩壊してくるかもしれない地下からは、今すぐにだって逃げ出したかった。牢屋を出る。少年が置いていってくれたランタンが足もとを照らしていた。


 ランタンを手に取ると、少女は地下通路を小走りだ。地下牢獄はそれほど広くない。彼女の持ち物が入ったはずのクローゼットにたどりつくのも難しくなかった。


「装備を、回収しないとね」


 シスター服に、武器……愛用のライフルも、あのナイフもある。懐中時計も回収した。何も盗まれてはいない。手癖の悪い兵隊たちも、異端審問官の命令には従順になるようだ。地獄行きは怖いらしい。それらを身につけ終わるころ、少年が木箱を抱えてもどった。


「準備できたな。じゃあ、ここから出よう」


 うなずいた。少年は落ちついてはいるものの急ぎ足だ。時間がないのは本当らしい。少女は彼のあとにつづく。地下を出て、見張りの兵士がいるはずの部屋の前を素通りした。


 あのカード遊びが好きな兵士たちは、どこにもいないようだ。いつものように、なまけているわけじゃない。彼らだけじゃなく、一階フロアも、見張り塔へとつながる入り口にさえも警備はなし。完全なる無人であった。


「男爵ご自慢の兵隊たちは、どこに消えたのか……ねえ。何が、起きているの?」


「すぐにわかるさ」


 期待していたような答えではなかったが、見張り塔の階段を駆けあがるのに時間はかからない。しかも、最上部に行くわけではなかった。途中で止まり、木製のドアに少年はブーツの底を押し当てた。


「ここから、出るぞ」


「出るって……そこからだと、砦の……城壁の上よね……っ!?」


 激しく揺れた。ふたりは身を固めて、周りが壊れやしないかと警戒する。大丈夫だったようだが、あちこちでミシミシという崩壊の予兆かもしれない不穏な音が聞こえた。


「行くぞ!」


「ええ!」


 どこでもいい。安全な場所に出たい。ドアが蹴り込まれたことで開け放たれた。少女は少年の背中にぴったりとつくようにしながら、ふたりしてせまい出口をくぐる。


 夜の冷たさと、焦げたにおいを感じた。それと同時に、強い光も。


 とてつもない光が、頭上から降りそそいでいた。太陽ではない。もちろん、星の明かりともちがう。経験にはない。これは、あまりにも強い黄金色のかがやきだ。


 少女はおどろきながら空を見る。この『男爵砦』のはるかな上空に、金色にかがやく『模様』があった。幾何学的な形の連なりで綴られた、いわゆる『紋章』……それは空の一角を占拠するほどに巨大であり、夜の地上をも明るく照らすものだった。


「あ、あれ。まさか……秘術、なの!?」


「似たようなものだ」


「いや。さすがに……あんなの、人の力じゃ、ありえ―――」


『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』


 地上が揺れた。揺さぶられた。それをしたのは、この獣じみた雄叫びの主だ。


 巨大な、怪物である。樹木で編まれたような体の持ち主。絡み合う幹や枝やツタが、木製の『巨人』のすがたをつくり出していた。二本の『角』をもつ『巨人』。こいつの手足と胴体には、空の『紋章』と同じ金色のかがやきを放つ『鎖』が絡まっている。


 その拘束を嫌ったのか、あるいは。すぐ目の前にいる少年と少女に怒りを覚えているのか、『巨人』は暴れるようにもがく。だが、『鎖』のおかげで襲いかかれない。せいぜい、地響きと共に、『局所的な地震』をつくるのが限界だ。「こいつが原因か」。少女は知った。


 状況はすさまじくもあるが、明快だ。男爵砦の中庭に、『巨人』が捕らえられている。


「これも、あなたが、やったの……!?」


「聖教から授けられた『剣』のおかげだ」


 少年の腰には、長剣が下げられている。匠の技術がうかがえる、うつくしく丁寧な仕事がされた鞘に納められているものの、それが十メートル以上の巨体をもつ怪物を捕らえる力を持つ? さすがに信じがたい。


「『竜』まで宿っている」


「竜?」


「説明は後でしてやるから、今は手伝ってくれ。こいつの拘束は、ながくもたない」


「わ、わかったけど。どうしろっていうの?」


「大砲の準備だ。あのデカブツに、向けるだけでいい」


「これ、ね」


 城壁の上に並ぶように置かれていた大砲のひとつ、それをふたりがかりで押して位置を変える。城壁の内部に捕らえられている『巨人』を狙う形になった。


「的がデカすぎるから、外すほうが無理そう。でも、私は使ったことないんだけど?」


「オレは使いこなせる……好きじゃ、ないんだがな」


 火薬を詰めて、砲弾を押し込んでいく。初めて見た作業だが、恐ろしく手際がいいことだけは少女にも伝わる。「そうか」。少女は思い出す。新聞記事に書かれていたことを。


「砲兵隊を指揮していた」


「……ああ。だから、撃てる。オレの影に。耳を、ふさいでいろ!」


「う、うん!」


 指示にしたがった。耳をふさぐ寸前に、「二度と撃つつもりはなかったのに」という苛立ちと、悲しみの混じった言葉を聞いた気もするが……想像力をつかう余裕もない。腹の底まで揺さぶるような衝撃と共に、大砲が発射されていた。


 爆音が生まれる。木で編まれた『巨人』の胴体に大穴が開いていた。少年の目の前で、『巨人』は苦しそうにもがき……やがて、燃えはじめる。少女はそのときになり、油のにおいに気がついた。『巨人』の足もとにも、その体にも大量の油がまかれていたのだ。


「焼き尽くすつもりだったのね」


「そうだ。この男爵砦ごと」


「は、はあ!?」


「見ろ」


 指がしめしたのは、もがいて暴れる『巨人』の背中だ。燃えるそこから人間のものらしい腕が、無数に生えてくる。あまりのおぞましさに、少女はうめいた。「何よ、あれ」。


「あいつは、木と死者でつくられている。『都』の送り込んできた、刺客の一体だ」


「『都』が……」


「厄介なことに、倒しかけると、『死者の兵団』が助けにくるんだよ」


 少年があごを振った。砦の『外』に向けて。そこには、おびただしい数の人影がある。それらこそ、『死者の兵団』であった。


「死者たちを呪いの力で、『操り人形』にしたらしい。あれが、デカブツの体を修復するから、倒し切れなかった。これまではな……犠牲を払って、どうにかチャンスを得たんだ」


 炎が広がっていく。砦の中庭から、砦の周囲にも火が走るように伝っていき、あたり一面を火の海にした。砦の周囲に広がる荒れ野さえも燃え始めている。


 そうだというのに、『死者の兵団』は突っ込むのだ。燃えながらも、『巨人』のもとに駆け寄ろうとしている。狂った信仰心が成せるような、間違った行いに見えた。『巨人』の口が血の代わりに火を吹きながら叫ぶ。何ともえらそうに。


『我を……我を、助けよ、肉どもおおおお!!』


「あいつ、しゃべった……ッ」


「呼べるだけ呼べばいいんだ。それだけ、敵を排除できる。とっとと、逃げるぞ」


「うん!」


 少年のあとに、少女もつづく。


「でも、どこに。周りは、火と敵で囲まれているんだけど!?」


「考えているよ。北側の崖のちかく、そこに馬と……術の用意がある」


「……術?」


 城壁の内側の階段をつかい、そこに降りる。中庭の大半は火に包まれていたが……この周囲だけは無事である。それに、白馬も用意されていた。よく訓練されているのか、こんな状況なのに落ち着き払っている。


 そして、その馬のとなり……壁だ。壁には見覚えのある『紋章』が描かれていた。


「これ、私たちが使っている……」


「知識は共有できて便利だよな。これを、起動させればいい」


 儀式を行うのだ。少年は懐から『小瓶』を取り出す。それには血液が入っていた。小瓶に貼られたラベルには、少女の知っている名前があった。『エリーゼ』。


「あの子の、血」


「一石二鳥だろ。ここから脱出すると同時に、次の任務をスタート。問題ないはずだ」


「そ、そうだけど。でも、あの秘術を完成させるには『祈り手』の人数が足りないわ」


「オレには、この剣がある」


 少年は剣を抜いた。星のかがやきのようにきらめく刀身を、ためらいもなく握りしめる。もちろん手のひらが切れてしまい、血があふれた。


「何してるのよ」


「オレの血を『生贄』として使えばいい。そうすれば術者の人数不足も解決だ」


「そんなムチャをすれば、あなたの命が……」


「かまわない。正しいことをするために、ここまで来た」


 金色の『紋章』がふたりの目の前に……空中に発生する。直径で一メートル程度のものだ。その中央には空白がある。そこが『生贄』を捧げるための部位だ。少年が血まみれになった右手を伸ばした。


 空中に赤い手の跡が刻まれる。その血を喜ぶように『紋章』はかがやきを増した。『紋章』を構成する幾何学的な模様が伸びながら増え、広がっていく。術が完成へと向かっているらしい。少年の命を消費してしまいながら。彼の表情は痛ましい。命を吸われる感覚と、戦っている。


「……っ。見ちゃ、いられない」


「な!?」


 少女の手が剣を握りしめる。痛みで顔をゆがめてしまうが、ひるみはしない。自ら傷をつくった。彼女も血のあふれる手を『紋章』へと差し込んだ。ふたりの手が、となり合わせに並ぶ……。


「どう。これなら。ふたりがかりなら、寿命までは削られない!」


「あきれるよ。君は、ムチャなことをするんだな。どこかの誰かと、そっくりだよ!」


「あなたがやり始めたことでしょ。付き合ってあげる、助けてくれたんだから」


「……ああ。やるぞ!」


 ふたり分の血をすすり。『紋章』は強くかがやいた。壁に描かれていた『紋章』も共鳴するように光りはじめる。ふたつの『紋章』が重なり、世界を越えるための門が発生する。壁の一部に『穴』が開いた。空間をねじ曲げて生まれた、白い光にあふれる『穴』が。


 そこにフタを外した血の小瓶を投げ込むと、あっというまに光の色はピンクへと変わる。


「エリーゼに、つながったのね」


「馬に乗れ。そのまま、『あっち』に向かうぞ!」


「了解!」


 白い馬にふたりして乗るが……地響きと共に、燃える『巨人』が近づいてくる。ついに『鎖』に限界がきた。いくつか引きちぎられてしまっている。上空に浮かぶ『紋章』も力尽きつつあるようだ。輝きが弱々しくなる。「もう、もちそうにない」。


『逃がさん! 人間どもの好きにはさせ―――』


 爆発が起きた。『巨人』の顔面に、手投げの爆薬が投げつけられていた。城壁の一角に、少女は『知人』のすがたを見つける。自分を尋問し、あの地下へと閉じ込めた本人、異端審問官の女だった。


「あんた……っ」


「さっさと、行ってください。ここは、引き受けますので」


 腹に槍が突き刺さったまま、異端審問官の女は立っている。拳銃を抜くと、『巨人』の頭部に乱射しはじめた。『巨人』が怒りに満ちた顔を彼女に向ける。


『しぶとい、ゴミめ! 串刺しにされても、まだ動くか!』


「運命だから。戦うんです。奪われた……大切な、家族のために。お前と戦うのは、私の運命!」


『そんなことをしても、お前の死んだ夫も子も帰ってはこない! これまでの六年間も。これからの果てしない永劫も。我らの『都』で、奴らは苦しみを受けつづけるだけだ!』


「女神の慈悲は、必ずや、届く。『ルスラエクさんたち』! あとは頼みますよ。この聖なる戦いを、やり遂げて!」


「……っ! あのひとを、助けないと! 敵に狙われてる!」


「あれは致命傷だ。助からない。彼女のためを思うなら……誓ってやれ」


「……くっ。わ、わかった。あなたの分まで、戦うから! 娘さんのためにも! ねえ、知っておいて! 今から助けに行く子の名前も、エリーゼっていうの!」


 異端審問官は、微笑むことにする。「泣きそうな女の子には、私も甘くなりますね」。ふたりを乗せた馬が『門』へと駆け込む。壁の奥へと消えていった。物理現象を超えた大いなる秘術は、どうやら成功したのだ。


 それを見守り終えると、異端審問官は『巨人』に集中することにした。彼女と『巨人』。そのどちらの周囲も『死者の兵団』が取り囲んでいる。腐りかけの肉と骨でつくられた、おぞましい戦士たちに。その意味合いは、それぞれで真逆であるものの。


「追いつめられましたか」


『追いつめたぞ』


 空では、ついに『紋章』が破綻する。陶器が割れるような音が、盛大に夜空に響き渡った。バラバラに崩れた黄金色の破片が、地上へと降り注いでいく。まるで金の雪が、赤々と燃える地上に……。


『知っていただろう。この世には、強大な悪がうごめいているのだと。貴様たちの聖典にも書かれているはずだ。我らのように強大な悪と戦うためには、想像を絶する苦しみと代償をともなう。どうだ。貴様は、犠牲を払ったか?』


「もちろん。ぜんぶ……このときのために、差し出したもの」


 長い旅をした。とてつもない時間と距離を。『巨人』は身震いをして、体に絡みついていた『鎖』を粉々にする。その様子を、見せつけてやりたいのだ。自分をにらみつけている者に。


『これで、我はふたたび自由を得た。あの忌々しい竜の力からも、ようやく解放だ!』


「いいえ。もう、お終い。長い長い、あの物語も。ねえ。『あなた』……『エリーゼ』。やり遂げましたよ、私。とても、強い子たちを、導けました」


『おい。その死者どもは、我らの『生贄』だぞ! 貴様のものじゃないんだ。勝手に話しかけるんじゃない! 貴様も、我を無視して、幻などを見つめようとするな!』


 怒れる『巨人』が巨大な拳を振り下ろしていく。だが、もはや関係ない。彼女の意識は現世にはなかった。ずっと昔に、奪われてしまった家族と出会っている。体が壊されて死んでいく彼女と……「お待たせしましたね」、再会を喜ぶ彼女……『竜』は、左右の眼でふたつの光景を見つめていた。


 その不思議な力が宿っている『魔法の目玉』は、過去さえも映す。


 昔々、あるところに。聖教を信じる若い夫婦がいた。腕のいい鍛冶屋の男に、幼なじみの女が嫁いだのだ。それはなんとも。ありふれていて、どこにでもいる夫婦。幼い娘を抱きしめた。貧しい暮らしであっても、幸せと笑顔を求める。


 いつも絵本を読んでやった。「……こうして、お姫さまは幸せに暮らしました」。「まだ、ねたくなーい!」。次の絵本を読んでとねだる娘のために、彼女は本棚へと向かう。


 五才の女の子は賢い。また、泣きそうな顔でおねだりされてはたまらないから。「どれにしようかしら」。指がその絵本のところで止まる。『まほうのろうそく』にした。


 娘が大好きなものだ。これなら満足すると信じ、読み聞かせをはじめる。「昔々、あるところに。女の子がいました―――」。いつものように微笑みながら振り返ったのだ。


 地獄があった。


 娘は血まみれで倒れている。そのとなりには、夫がいた。夫の背中には、うごめく木が寄生している。おぞましい悪意の化身が。『悪魔』が。彼はその植物に体の自由を奪われて、作ったばかりのナイフで娘を殺していたのだ。


 ゆらゆら動く邪悪な木の表面には、顔があった。


 二本の『角』が生えた、おぞましい顔だ。


 呆然として立ち尽くす彼女のとなりで、その顔が笑う。『そうだ。決めたぞ。お前だけ、生かしておいてやろう!』。


 その絶望が長い苦しみで熟成されたとき、あらためて刈り取るために……。


 操られたままの夫は、泣いていた。泣きながら、彼女の目の前でナイフをのどに押しつける。とっさに「やめて!」と叫んだものの、やめてくれるはずがない。『見てろよ!』。


 そして。


 ひとりぼっちになった。


 世界はまっくらで、光なんてどこにもない。夫と娘の血でそまったナイフで、自分の命を絶つことも正しい気がする。「彼は良き夫であり、良き父であり」。「彼女は誰からも愛される無垢な魂……」。もう。妻でも母でもなくなった。


 そのうち痛みが怒りになって、歩きはじめた。彼女は復讐のため、孤独な足は長い旅に。喪章をつけたまま。聖教の血のように赤い服を身にまとい。「ゆるさない」。「ゆるすものか」。「ぜったいに」。冬の寒さと、夏の暑さ。星と月日がめぐって回る。


 あらゆる土地を旅しながら、異端を排除する者となった。「どんなに泣いても許しません」。敵を追いかけ、この痛みをぶつけてやる。そのためなら、どんなことでもした。


 ……心のどこかでは、罪がないと知っていたはずの少女さえも、冷たくてまっくらな地下に閉じ込める。もう妻でも母でもないから、こんなひどいことだってやれるのかもしれない。「こんな私を、ふたりは怖がるかしら……」。


『ハハハハハハハハハハ!! ざまあみろ、つぶれた肉め!!』


 長い長い時を経て。ふたたび嘲笑うものと、極めて短気なものがいた。『ふむ』。金色の眼を細めると、『竜』は……プレゼントを与えてやることにする。『ああ。そうさなぁ。読んでやるといい』。


 賢くて何でも知っている竜のこと。ふさわしい贈り物が何のかも理解していた。魔法を使うべきときだ。今こそ、あの寝物語を終わらせよう。「―――とても寒い夜でしたが、両親のために持ち帰ってきたロウソクに、女の子が火をつけると。なんと暖炉に薪があらわれて、赤々と燃えはじめます。お部屋はすぐにあたたかく。テーブルのうえには、たくさんのごちそうまであらわれました。こうして。家族三人で、聖なる夜を幸せに過ごすことができたのよ!」。


 笑顔があった。三人分。


 深い深い影の底から。勝利を喜ぶ『巨人』の全身を、竜は冷たい視線でにらみつける。『ぼけなすめ』。『巨人』に罰が与えられ、その全身が激しい怒りの炎に包まれてしまう。


『な、なんだ、これはああああああああ!? りゅ、竜めえええええ!?』


 ……『巨人』の影の奥底で、憂さ晴らしに成功した竜がニヤリと笑うのだ。


『ざまあみろ』


『痛い、痛い、熱い! に、肉ども、集まれ。我の痛みを、傷を埋めろおおおお!!』


 一方、男爵砦から北に500メートルほど離れた場所に、武装した集団がいた。黒い馬に乗った勇ましい老人と、その部下である兵隊たちだ。


「若造の言っていたとおりになった! 大砲を、しこたま、我が砦に撃ち込め!」


「男爵閣下の、ご命令の通りに!」


「大砲、放てえええ!」


 用意されていた大砲たちが、一斉に火を吹いた。狙ったのは『巨人』と『死者の兵団』が集まっている男爵砦である。砲弾たちは計算し尽くされた完璧な軌道のもとに、その標的を破壊していった。


 いくら『巨人』とはいえ、焼かれて滅びそうな状態で、ここまでの砲撃を浴びればひとたまりもない。呪わしい叫びを夜空に響き渡らせながら、炎の海に砕け散っていく。


 砲兵隊の背後で、黒馬にまたがる老男爵は鼻を鳴らした。


「まったく。夜風も読み切ってみせたのかよ。若造の計算通りなのは、すこしばかり気に食わんが……聖教に賠償金を請求する口実ぐらいは手に入れたか。ワシは、自分の砦を破壊した、間抜けな男爵ではあるが、ついに、あの巨敵を討ち取ったぞ!!」


 歓声があがった。


 部下たちから褒められることを、男爵も嫌ってはいない。『戦争上手』というあつかいは、貴族を満足させてくれるもののひとつだから。そのために戦争に行くのだ。


 だが。


 戦況は良くもない。


「砦を『囮』にしたあげく、自らぶっ壊しちまったからな。ここは引き上げだな。『死者の兵団』どもが、遠からずやってくる。後退して、シスター・アン・クレイレスたちと合流だ!」


 この機に乗じて攻め込むなど。


 戦況は、それほど単純なものではない。


「……救援に来てくれてはずの聖騎士たちも、壊滅状態。いや。『それどころ』じゃなく……はあ、たまらんぜ」


 呪わしい空に視線を向けることはしない。一度で十分だ。金色の『紋章』の去ったそこには、邪悪な目玉どもがあり……地上を見下ろしていることを老男爵は心得ている。愛馬とともに。大地を見る。影のなかに巨大な翼をひろげる竜がいた。


「また、頼みますよ。ルスラエクたちを、守ってやるといい。貴方も、あの一族は好きでしょうから。『聖女』といた、我々の時間は……はげしかったが、すばらしい記憶だ」




 走っていた。


 白い光にあふれた道のなかを、白い馬が疾走する。いそぐべきだ。


「ふたつの世界を、行き来するのは、大変だからな」


「そうよ。急いで! 早くこの『道』を駆け抜けられたら、体力の消耗も減る!」


「わかっている―――ふせろ!」


「え!? う、うああ!?」


 ふたりして馬上で身を伏せる。頭の上、すれすれを燃える何かが空振りした。


『に、逃がさん!』


「あいつ、追いかけてきた!」


 燃えて、朽ち果てていきながらも、そいつは彼らを追いかける。死者の骨で組み上げた無数の足を、おぞましいムカデのように動かして。その身は、かつてあの異端審問官の夫と娘を殺めたときのように、ずいぶんとちいさくなっていた。人頭大のアタマと、それから生えた長いツタ。鞭のように、ツタは燃えながらも動いている。


「ほとんど死にかけだな。『都』に逃げ戻って、回復するつもりらしい」


「させちゃ、いけないわ。あの人、必死に……娘のために。いいお母さんなの!」


「君を、閉じ込めたぞ」


 それは、どちらの母親のことか。あの異端審問官と、自分の母親。どちらともにいい思い出はなかった。どちらからも閉じ込められた。それでも。少女は、今は問わない。


「かまわない。彼女のために、ヤツは倒す。ヤツが、彼女の狙っていた敵なら!」


「秘術を、使うのか」


「ライフルで、一発。弱りかけなら、これで仕留められる」


「力を使ったばかりだ。今も、吸い取られている」


「かまわない」


「かまうさ。オレの、血も使え! 彼女と、約束した。彼女の物語を、『竜』に食わせたんだ!」


「意味は、わからない。でも、その意志は、信じてあげられる!」


 口もとに差し出された手に、少女は噛みついた。傷が開く。少年はうめいた。少女の白い歯並びに、契約の赤い色が付着した。ふたり分の血の生贄で、魔を打ち払う強烈な一発を……。


「力を、合わせて。この弾丸で!」


「行くぞ! 一撃で、仕留めろ!」


『反転する!? 我を、仕留められると、思っているのか!!』


 ふたりを乗せた白馬がおぞましい敵に向けて、突撃していく。燃えるツタが、彼らを打ち倒そうと振りまわされた。空気を破裂させる、音速よりも速い打撃であったものの。


「理不尽な力は、こっちも使えるんだ!」


 少年の斬撃が、ツタを弾きながら切り捨てる。


『その剣、『竜』の、力かああぁッ!』


「女神よ。悪魔を、退けたまえ」


 母親を想った。自分のだ。心の壊れてしまった彼女は、ベッドの上で絵本を抱えていた。読んでくれるつもりだったのだろうか。かもしれない。今は、そう思えた。あのときの絵本のタイトルは……馬上で構えたライフルの引き金を、ゆっくりと少女は……。


 銃声が響き。秘術をこめた弾丸が、敵のアタマを見事に撃ち抜いた。敵には、断末魔も許されない。祈りも、怒りも。すべて、消し飛んだ。


「……倒したわ。貴方は、かたき討ちを果たしたの」


「家族のもとに、行ったさ。聖務を果たし、ようやく、本当の自分に戻れる」


「……うん。そうだね。きっと、今は、あの怖い笑顔じゃないよ」


「行こう。オレたちは」


「正しいことを、しなくちゃ……うっ!」


「アタマが、痛むのか」


「……見ないで。生えて、きそうだ」


「見ておく。気にするな。オレは、君を怖がることはない」


「どんな子か、知らないくせに」


「知っていることもある。知っていけばいいとも、信じている」


「……変な、男ね。英雄さんは」


 それが、彼女のアタマから、生えていく。包帯を突き破って……『悪魔』の血を引く者の証が。


「怖いでしょ」


「そんな男だと思うな。勇敢なのは、知っているだろ」


「……ええ。ルスラエクの血は、どこか、似ているんだ」


 昔々、あるところに。


 不幸な少女がいました。罪なき罰により、閉じ込められた少女は、同じ血を持つ少年と出会う。魔法のロウソクの絵本/母親からのプレゼントは届けられたのだ。だが、戦いはつづく。彼に助けられ、敵を倒し。さらなる、敵地へと。


 これは、ルスラエク一族の最も新しい物語。


 聖なる血と邪悪な力、それらをあわせ持つ者たちの、出会いの物語。



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