本物の王子様はいない

海来 宙

episode 1 今は何の価値もないただの物体

 例えばカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』みたいに誰かを生かすために生まれてきて死ぬとしても、不幸とは限らない。でも僕の人生は、その〝誰か〟のためにもなれそうにないのだった。

 完全な暗闇の世界に閉じ込められて何日目だろうか。僕にとっての〝誰か〟はこの国の王子である。僕は二十三歳の彼から完全な形で複製された「人間」で、戦地へと旅立った彼に何があろうと「王子を生かし続ける」ために生まれた。だから今の僕は、宙ぶらりんで何の価値もないただの物体と同じだろう。

「戦地で龍弥りゅうや王子にもしものことがあったら、脳から記憶データだけ取り出してこの複製に上書きするんですよ。そうすれば、本物と何も変わらない複製がこの国の王子、いずれは王として、龍弥王子がお生きになるはずだった残りの人生をまっとうしてくれます」

 僕を開発した三十代研究者、ほがらかな声の坂巻さかまきが何者かに僕と王子のことを説明した。僕は本物の命が失われた場合の予備にすぎず、上書きされたら今の〝意識〟は消えてなくなってしまう。

「またずいぶん恐ろしい物を造ったもんだねえ。そりゃあ国のためには王子は必要だが……、まあ、もしもの瞬間を見た兵士には金をはずんどくんだな」

 そうだ、耳をくすぐるだみ声のこの人はずいぶん前に若い坂巻のミスを被って王宮を去った田畑たばた、戻ってきたのか。生きている王子を完全そっくり複製した僕は今このように生きていて、記憶までが完全な形で引き継がれている。一番古いのは物心つく前の王女いもうととの楽しい追いかけっこ、複製前の最後は軍隊を率いよという王からの命令を受け、王子が複製の実行を研究者にひそかに指示した記憶――。

 それにしても、この身体からだには麻酔でもかけられたのか、五感の中で起きて機能しているのは耳――聴覚だけである。そして自分の意思も身体には伝わってくれず、そばにいる坂巻たちに現状を説明することもできないのだ。

 ふいに重い吐息が聞こえ、田畑が「なあ、今後王子にその……ええと、もしものことがあってだ、いくら記憶データを取り出せてその、こいつに書き込めたとしてもさ、こいつは本当の龍弥王子ではないよなっていうか、王子はもう――、助からないことになるんだよな」と言葉を選び選び後輩の坂巻に確認を求める。遠くで金属棒同士をたたいたような音が響いた。

 そう、王子が死んだときにいくらデータを完全に取り出して複製である僕に書き込んだって、彼の〝意識〟は引き継がれないから僕はもちろん彼にとっても意味がない。記憶と身体を持つだけでは本物になれない、これが僕の人生が〝誰か〟のためにもなれそうにない理由だった。

「そうなんです。王子の記憶と身体、特徴まで持っていても別人なんですよね。遺志は継いでくれるはずだけど、見守っていく自分の心のほうが心配で……」

「はははは、俺があとを託した天才もさすがに限界か、これでもとんでもない進歩なんだがな。まあ戦争は劣勢続きとはいえ、龍弥王子が生きて帰ることを願うんだな」

 ざわぞわという衣ずれの音で、僕は田畑が何かを動かしたように感じる――待った、劣勢? この戦争は押してるんじゃないの?

 ひやりとした。どうして王宮を出た彼の耳に入ったかはともかく、王は戦地に向かわせた息子にまで実情を隠しているのか。何て身勝手な父親なんだ。

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