第1話 異世界?
現実か?私は夢を見ているんじゃないか。そんな考えが何度も頭に浮かぶが鼻腔をくすぐる土と水の匂いがそれらを悉く否定する。
これは現実なのだと五感の全てが示していた。
「まいったね、酔いすぎて家を飛び出しちまったらしい」
部屋着のまま森の中に来るなんて我ながらこの年にしてお茶目なものだ。自殺行為でしかないだろう、今は冬だから良いが熊が出たらどうするつもりだったのか。
先程から暑さのあまり滝のように流れる汗を拭いながら、そんなことを考える。
「いや〜、あっついねぇ。異常気象かな?」
いやはや、12月でこの暑さ。まったく日本はどうなってしまうのか。温暖化なんてもんじゃないな、はっ、ははっ。はぁ…
…現実逃避はやめよう。裸足で森に来たにしては綺麗すぎる足、冬の森のはずなのに汗でベッタリと張り付く部屋着、極め付けは人の歩いてきた形跡が私の周りには一切ないこと。
私が忍者であればおかしくないのかも知れないが現実は壮年のおじさんだ。歩いてここまできたのならもっと服も汚れている筈だろう。
「誘拐?いやいやそんなまさか。いや、あり得るのか?」
私の勤める建設会社、田舎の企業という事もありなにやら後ろ暗い関係も幾つかあるという噂を聞いたことがある。
私が営業の過程で気付かぬ内にそんな彼らの逆鱗に触れ、山に埋められそうになったのかもしれない。じゃあなぜ私は無事でいまの今まで目覚まさなかったのかとか、何で冬の山が暑いんだとか、周りに人がいた痕跡がないのかとか、疑問は全く解決しないが悩んでどうにかなる問題でもないし一先ずは置いておこう。
私がするべき事は街へと戻ることだ。それ以外の疑問なんて後で警察にでも調べて貰えば良い話。
「しかし方角が分からない、携帯もない、誰かが行方不明者届を出してくれるとも思えない。植生も見た事がない植物ばかりで、近所の山ではないことしか分からない」
はっきり言って詰んでいる。冬の森でなかった事は運がいいとしか言えないが、それ以外は壊滅的だ。発汗の具合からして6時間も歩けば脱水症状になるだろう、それまでに飲める水が見つけられるかどうかで生死が決まる。
「少し歩くか、出来るだけ獣道は避けて」
木に目印をつけながら、適当な方向へと進んで行く。
こんな状況であるが、私は何だか楽しくなってきていた。我ながら頭がおかしくなったとしか思えないが今までの生活に未練はないし、ここで死んだとしてもそれまでだ。
ちっとも先が分からない、そんな今が、予定調和の明日を日々歩む私には楽しくて仕方がないのだ。
「まぁ、死ぬとしても全力を尽くしてから死んでやるがね。おっと、危ない危ない」
足元に注視しなければ見つけられない大きさの尖った石が落ちていた、あと少し気づくのが遅ければ踏んでしまっていただろう。
こんな状況下だ、傷からの感染症が1番怖い。
気休め程度だが足裏を怪我しないようにそこら辺に生えていた葉っぱと蔦で簡易的な靴を作っておいた。死んでもいいとは言ったが無知が原因で死んでしまうようでは世話無いからな。
「まったく、せめてナイフかライターくらいは…ちょっと待てよ?」
ライター、そうだライターは持って来れたんじゃないだろうか。
部屋着の腰ポケットを漁るが、見当たらない。ついで胸ポケットに手をやると硬いものが手に当たる、ビンゴ。ライターだ。
「オイルは有限だし、水を見つけるまでは使わないでおくか。…最悪そこら辺の葉っぱでも燃やして狼煙をあげよう、誰か見つけてくれるかもしれない」
そんなことをすれば森の所有者に通報されるかもしれないが、死ぬよりはマシだろう。今さら前科がついた所でどうってことはない。いわば無敵の人なのだ、今の私は。
「はぁ、それにしても、体力が落ちたな。運動不足ってことはないと思うんだが、整備された道ってのは偉大だ」
開けた場所は避けて通っているせいで尚更体力を消費する。それでも獣に出会うよりはマシだと思いたいが、そのせいで体力を消費し衰弱死でもしたらお笑い種か。
まぁ、死んだ後のことなんて知らんがな。
無心でひたすらに歩く、もう10キロは歩いたろうが未だ川は見つけられそうにない。
「一度休むか、いたずらに体力を消費して死んだらそれこそ笑えない。ふぅ、うわっヒルがついてるな、ん?蛭?」
蛭だ。動物についていたものがついたのかも知らないが、私は獣道をできるだけ避けて歩いてきた。そうして先ほど見た獣道を思い出す、関わりたくない一心で離れたが掘り返された土を考えるに猪のものではなかったか。
水音はしない、だが僅かに水の匂いがする。恐らく、水源はすぐ近くにある。
今いる場所を覚えるために、あえて大袈裟に痕跡を残しながら歩く。体力は大きく消費するが、仕方ない。
そうして、10分ほど無我夢中で歩いた。かなり体力を使って息も絶え絶えだが、その成果はあったらしい。
ごうごうと、激しく水の流れる音。
「ははっ、どうやら私の運は尽きていないらしいね。少なくとも、第一関門はクリアだ」
私の眼前にはそこそこ大きな、二級河川とまでは言わないも小川ではない。そんな大きさの川が確かにあった。
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