「灰の中の灯」

らむね

「灰色の灯」

 瑛斗は小さな町工場で働く青年だった。毎日同じような時間に出勤し、機械の音に包まれながら部品を組み立てる日々。家と工場を往復するだけの生活に、どこか閉塞感を感じながらも、その日常を変える勇気は持てなかった。

 そんなある日、工場に新しい作業員が入ってきた。彼女の名前は沙月。短い髪と強い目をした彼女は、初日から黙々と作業をこなしていた。沙月は必要最低限のことしか話さなかったが、その姿にはどこか芯の強さが感じられ、瑛斗は少しずつ彼女に惹かれていった。

 ある日、休憩室で偶然沙月と二人になる機会があった。話の流れで、沙月がかつて画家を目指していたことを知った。


「どうして画家を辞めたんですか?」


 瑛斗が尋ねると、沙月は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。


「描けなくなったの。ある日突然ね。それまでは、キャンバスに向かうのが楽しくて仕方なかったけど、気づいたら手が止まっていた。何を描いても灰色にしか見えなくなったの。」


 沙月の声には、わずかな悔しさと諦めが混じっていた。その表情を見て、瑛斗は言葉を失った。けれど、その日を境に彼は彼女と話す機会を増やすようになった。沙月の過去や、絵を描いていた頃の話を聞くたびに、瑛斗は自分の無気力な日常を恥じるようになった。

 ある日、瑛斗はふと思い立ち、沙月を誘って地元の美術館に行くことを提案した。


「一緒に絵を見に行きませんか? 沙月さんが好きだった世界に俺も触れてみたいです」


 沙月は少し迷った様子だったが、やがて小さく頷いてくれた。

 美術館は小さな町の中にある古びた建物だった。展示されている絵は地元のアーティストによるものが中心で、豪華さはないがどの作品にも作者の思いが詰まっていた。沙月は静かに絵を見つめ、時折小さく息を吐いていた。

 一枚の抽象画の前で立ち止まった沙月が、ポツリと呟いた。


「こんな絵が描きたかったな。」


 その言葉を聞いた瑛斗は、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。自分には夢がない。けれど、目の前にいる彼女には、かつて確かに夢があった。その夢を失ってなお、彼女は生きている。

 その夜、瑛斗はスケッチブックを引っ張り出した。実は彼も昔、絵を描くのが好きだった。高校生の頃に現実的な進路を選ぶために絵を描くことをやめてしまったのだが、思い出しながら線を引くたびに忘れていた感覚が少しずつ蘇ってきた。

 翌日、瑛斗は沙月にスケッチブックを差し出した。


「これ、見てもらえませんか?」


 沙月は少し驚いたような顔をしたがスケッチブックを開いた。そして、しばらくの間無言でページをめくったあと小さく笑った。


「すてきな絵ですね」


 その言葉に、瑛斗は少しだけ胸を張った。


「沙月さんも、また描いてみたらどうですか? 灰色に見えるなら、それをそのまま描けばいいんじゃないですか?」


 沙月は驚いた顔をしたが、やがて真剣な目で瑛斗を見つめた。


「……簡単に言いますね。でも、少しだけ試してみようかな。」


 それから数週間後、沙月は工場の仕事を辞めた。そしてある日、一枚の絵葉書が瑛斗のもとに届いた。それは、沙月が描いた絵の写真だった。灰色の中に、わずかながら灯る暖かな色彩。その絵は、彼女が再び歩き始めた証のように思えた。

 瑛斗はその絵葉書を見つめながら、小さく笑みを浮かべた。そして、自分もまた、止まっていた時間を動かすために、少しずつ歩き始めることを決意した。

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「灰の中の灯」 らむね @FLOREMA

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