うつろくび
桐林才
うつろくび
二月の江戸には、身を切るように冷たい風が容赦なく吹いていた。
かがり火に照らされて伸びる自分の影の不気味さに、寒さも相まって身体がぶるりと震える。
振り返ると四尺ほどの高さの台と、その真ん中に逆さまに置かれた
風呂桶のような小さなものとは違い、味噌なんかを入れるような深く大きな桶が奇妙な存在感を放っている。
それらが二・三分前に見た光景と寸分違わぬことを確認し、向き直る。
晒し首の番を任ぜられたのは五日前のことだった。
「首の番なんざ何のこたあねえ」
親方の言葉に俺への気遣いのようなものは一切なく、下民に汚れ仕事を押し付ける傲慢さだけが滲んでいた。
俺はといえば、一晩の見張りで一日仕事になるならよっぽど楽だと踏んでいた。
痛くもなく臭くもない仕事は、そう多くはない。
死を伴う仕事は世間的には不浄でも、俺たちの身分では最も浄なものだ。
そもそも、見張りなどが必要なのだろうか?
俺は地面に座り込み、どてらの襟元で顔を隠すようにしながら一人問答を始めていた。
生首の血の匂いにたかるような獣がここらにいるだろうか?
カラスなんかの鳥獣が死んだ人間の頭をつつきにくることがあるだろうか?
あるいはーー。
何かよからぬものが頭をかすめた気がして、俺は思わず膝を抱えて目を伏せた。
何も考えず役目を果たすだけでよいのだ。
どれくらい、そうしていただろうか?
丸めた体の中心に熱がこもり、空気との温度差が快感に変わっていく。
全身の力が徐々に抜けていき、呼吸が一定の周期を刻み始めた。
甘いまどろみに沈む中、視界の端に動くものが映った。
その影は座っている自分の横を通り過ぎて、また来た方向に戻っていく。
ぼんやりとした頭の中でそれらの像がゆっくりと結ばれる。
まるで、人影のようなーー。
ハッと我に返ったとき、それはすでに闇夜の中に消えていた。
***
夜が更けてより一層寒さが増す中、俺は獄門台の前に立ち尽くしていた。
例の桶は少し前に見たのと変わらぬ場所に鎮座している。
ただ一つ異なるのは、逆さまになった桶の
俺が最後に見た時はそんなものはなかった。
確かに、なかった。
今日の
恐ろしさから遠巻きに眺めるのがせいぜいだったが、頬が痩せこけ目の下のクマが異様に目立つ男だった。
それが生前からのものなのかどうかは分からないが、土気色で骨張った顔を覚えている。
その上から桶が被せられ、脇にはかがり火が焚かれ、その前に俺が座った。
それから誰もこの桶に触れた者はいないはずだ。
やはり、さっきの影はーー。
その考えがよぎる度に俺は頭を振った。
仮にあれが人影だったとして、一体何者が罪人の首に用事があるというのだ。
死に顔を一目見たいという罪人の身内の者?
馬鹿な、昼には嫌というほど表に晒されているのだ。
こんな真夜に会いに来る理由はない。
風で揺れ動くかがり火の明かりは、まるで俺の思考と同調するかのようだった。
しばらく
確かめるしかあるまい。
このまま知らぬ存ぜぬで朝を迎える度胸など、俺にはなかった。
この首に何事か起これば、すなわち、見張りを任ぜられた俺の首が離れることになるのだ。
俺は意を決して桶に手を伸ばした。
指先をかけてゆっくりとそれを持ち上げると、徐々にその顔がかがり火に照らされていく。
その顔に強烈な違和感に覚えた俺は、思わず桶を放り投げて首を手に取っていた。
『顔が、違う』
全身が氷のように硬直する感覚を覚え、一気に思考が回り始める。
『何故?』
『誰かが持ち去った?』
『いや、すり替えた?』
『さっきの何者かが?』
『何のために?』
『この首は、偽物?』
「貴様!何やっとるか!」
鼓膜を裂く突然の怒鳴り声に体がびくんと跳ねる。
声の方向を見ると、こちらに十手を持った男が向かってきていた。
俺は考えるより先に反対方向に駆け出していた。
両手に首を抱えたまま、だ。
***
俺は河川敷のだだっ広い草むらの中に身を潜めていた。
抱えていた首は袋状にしたどてらで包んで、片手に持っている。
街中は平坦で隠れ場所が少ないし、袋小路に突き当りやすい。
ここならば、しばらく時間を稼げるはずだ。
逃げ切ることなど、考えてはいなかった。
追手が来るのは時間の問題だ。
どんなに逃げ隠れしようが一晩が限界だろう。
一度逃げ出してしまった以上、捕まればその場で斬られてもおかしくない。
俺のような者を生かしておく道理もなければ、守ろうとする人間もいないのだ。
自分が生き長らえる方法は、ただ一つ。
晒し首を偽物とすり替えた犯人を捕まえて、首を取り戻すこと。
そうして、俺の無罪を証明すること。
見張りの過失を咎められたとしても、小屋の追放がせいぜいだろう。
そのためには、突き止める必要がある。
先ほど首の顔を見た時に感じた、もう一つの違和感の正体を。
町中を全力で走り抜けたため、しばらくは息が切れていた。
呼吸を整え鼓動が落ち着くのを待っていると、土手の方から声が聞こえてくる。
「まだ見つからんのか?子鼠一匹のことであろう」
近づいてくる足音は三・四人分だった。
俺はできるだけ体を低くし、口に手を当てる。
「はっ。明けまでには必ずや」
「全く、かようなことは初めてだ」
おそらく、子分数名を連れた廻りの者だろう。
「して、奴の処遇は
「生け捕る用もあるまい。はねよ」
「はっ」
遠ざかっていく足音を聞いて、止めていた息をゆっくりと吐く。
「
わずかに聞こえた誰かのつぶやきは、音量とは裏腹にやけに鮮明に鼓膜に響いた。
***
いつからか?
最初からだーー。
最初から俺は人間ではなかった。
乞食、
どう思われてもいいと思ったいた。
父がいること、母がいることが、俺が人であることの証だった。
ならば、今の俺は?
川の方に目線を外すと、半分凍った川面にぼやけた月が映っていた。
足を畳んで体重を預けると、眠気が襲ってくる。
このような危機に瀕していても眠ることができる自分の神経には、感心するほかなかった。
闇に溶けていくような浮遊感の中、俺は無意識に傍らの首を目の前に掲げていた。
やつれた頬に落ちくぼんだ目、大きな鼻には最初に見た時の面影がある。
しかし、晒されていた罪人とはやはり違う人間だと、俺は感じ取っていた。
そして、もう一つの違和感。
それは、俺の記憶のもっと奥底に触れる何かだった。
いや、記憶というにはあまりに淡くおぼろげな、しかし大切な何か。
必死に記憶を探りながら首の後ろに触れた時、何か硬いものに触れる感触があった。
瞬間、俺はその正体に思い当たり頭に電流が流れたような衝撃が走る。
そうだ、これだ。
その一端に触れた途端、封印されていた記憶が芋づる式によみがえってくる。
しかし、何故あれがこんなところにーー。
「いたぞ!首泥棒だ!」
夜を切り裂く叫び声をに、俺は反射的に地面を思い切り蹴った。
冷気の刃は、さらに鋭く尖っていくようだった。
***
もう、どれくらい走っただろう。
河川敷から町中に戻る頃には、月が雲に隠れ始め闇夜はより深くなっていた。
いつの間にか片足の草履は脱げ、砂利が足裏に突き刺さっては後ろに弾け飛んでいく。
素足を地面にめり込ませて必死に走る内に、自分の思考が整理され
なぜ、この首の髪の中にあんなものがあるのか。
確かめなければならないと思った。
もし俺の考えが正しければ、そのときは。
そこから先は、意図して考えるのをやめていた。
きっと、その方がいい。
わずかな視界とかき集めた記憶のカケラを照合しながら、俺は夢中で走っていた。
次々と怪物の口の中に飛び込む。
そう、この路地だ。
この先を左に曲がって、さらに四本目の角を曲がった先にその場所はある。
転がり込むように目的の路地に飛び込むと、確かにあの場所だった。
そうだ。あのとき、ここで、俺は。
自分の記憶と目の前の光景が像を結んだ瞬間、後頭部に走った衝撃を最後に視界が閉じられた。
***
あれは、俺が九つの年になった翌日だった。
窮屈に並ぶ家々の間の路地で、俺は途方に暮れていた。
人はどうやったら死ぬのだろうか?
真冬の川に飛び込めば?
物見やぐらから身を投げれば?
刃物で喉を掻き切れば?
空腹で死ぬには何日かかるだろうか?
母は?母は苦しかったのだろうか?
強風で舞う砂に目を擦りながら、数日前に家を飛び出してくるときに見た光景を思い出す。
息を封じられ爪を首に食い込ませながら死にゆくのは、どれくらい辛かったのだろう。
死にたい、とは思わなかった。
きっともうすぐ死ぬのだろう、というぼんやりとした確信だけがあった。
そして、それが当然の帰結であることも理解していた。
父が死んで、母が死んだ。
俺だけが生きる道理はない。
「それ、何ですか?」
突然のあどけない声に顔を上げると、目の前に一人の娘が立っていた。
年齢は俺と変わらないように見えたが、着物を見るに、身分はずいぶん違うようだった。
「え?」
「それ、何?」
彼女が指していたのは俺の右手だった。
そこには、一本の小さな
奇妙なことに、俺は娘に言われて初めてその存在を思い出した。
これは母の簪だ。
母の死体を見つけた日に、あの部屋で拾ったものだ。
「これは、おっかさんの……」
同年代の子どもと話したことなど無かった俺は、たどたどしく答えた。
「あなたの
「もう、死んだんだ」
「へえ」
娘はそれを聞いても特に表情を変えなかった。
「それ、くれない?」
「母様へのおくりものにしたいの」
俺が娘の言葉の意味を理解できず呆然としていると、娘は言葉を継いだ。
「これあげるから」
そう言って娘は持っていた芋を俺に差し出した。
「それ、ちょうだい」
そこから先の会話は、ほとんど覚えていない。
ただ、貰った焼芋のとてつもない甘みだけは、いつまでも忘れることはなかった。
***
目が覚めたとき、俺は路地でうつ伏せになっていた。
身体を起こそうとすると背中に大きな重量を感じ何とか抜け出そうともがくが、動く気配はない。
「動くなよ」
背中に乗る重さがさらに増し、野太い声が頭上に降ってきた。
「じきに同心が来る。もう逃げられねえさ」
ようやくはっきりしてきた頭で最初に思い出したのは、首のことだった。
動かせる範囲で目線を動かしてもどこにも見当たらない。
「これ探してんのかい?」
上に乗った男が、髪の毛を掴んで首を俺の目の前にぶら下げる。
「しかし、なんだってこんなものを」
男がそう言いかけたとき、重量が少し軽くなったのを感じて全身に力を込め起き上がろうとする。
その瞬間、右足首に衝撃が走り一気に熱を持つ。
激痛が登ってくるにつれ、俺は地面に額を擦りつけて悶えた。
男は俺の背中に座り直し、持っていた十手の先を俺に見せる。
「動くなってば」
「この首泥棒が」
男が込めた侮蔑の色は、俺の意志を挫くのに十分だった。
「待ってください!」
突然響いた甲高い声に、俺と男は同じ方向を見上げる。
***
「その人を、離してあげてください」
目線を上げると、小袖を着た女が立っている。
その顔を見た途端、俺は彼女が誰なのかを理解した。
彼女は膝を折り曲げて、俺と目線を合わせる。
「あのときのあなたなのでしょう?」
「十年前に、あなたから簪を頂いた者です」
「今、あの首の頭に刺さっている簪を」
彼女は涙声になり言葉を詰まらせながら、男の持っている首を指差した。
そうだ、この女だ。
確かにあの日、ここで出会った娘だ。
「その首の後ろ髪に簪を刺したのは、私なんです」
「見張りのあなたの目を盗んで、桶を外して、父の首の後ろにその簪を」
女の言葉は断片的で要領を得なかったが、今の俺にはそれで充分だった。
確かに、女の顔には首の男の面影があった。
「まさか、見張りがあの時のあなただったなんて……」
「おいおい、話が見えねえな」
俺の背中に乗った男は声を荒げた。
「あんた、誰だいこの娘は?」
「ごめんなさい。私はその人の縁の者なのです」
「離してあげてください」
女の言葉には不相応な力が込められていた。
「おいおい、俺は御奉行様じゃねえぞ。ただの岡っ引だ」
男がそう言うと、女は黙って持っていた風呂敷を地面に開けた。
そこには、金貨と銀貨が何枚か入っていた。
「その人を、離してください」
***
「父は、人を殺したのです」
女は俺の右腕を両手で掴んで路地を引きずっていく。
仰向けになった俺の視界には、白み始めた空だけが映っている。
右足の痛みは時間とともに増すばかりで、大きく腫れている感覚があった。
「私の母は五年前、下級武士に殺されました」
「
息を切らしながら淡々と話す女の言葉には、もはや涙は混じっていない。
「母がどんな無礼を働いて、誰に斬られてしまったのか」
「それすら、何年も知りようのないことでした」
町は徐々に光に照らされ、鳥の鳴き声が響き始めていた。
「そして半月ほど前、その武家の居所を噂で聞いた父は、すぐにそこへ向かいました」
「そして、母を殺した者を見定めることもなく、その場にいた全員を……」
「父は、母のことが好きでした」
「だから私は、斬首となった父の無念とともに、あの簪を母の元へ返したかったのです」
「それで、あのようなことを」
女の言葉に後悔の念は滲んでおらず、ただ俺に対して弁明する調子だった。
「あの時、あなたを助けたのは母なのです」
「え?」
黙って女の話を聞いていた俺は、そこで初めて声を漏らした。
「私は
「大人から施しを受けるよりも、きっとその方が良いと」
「母とは、そういう人でした」
「……どこへ?」
そこからしばらくして、俺はようやく喉から声を絞り出すことに成功した。
「え?」
「どこへ、連れていく?」
「奉行所です」
「とにかく、まずはお許しを請うのですよ」
「事情を話せばきっと分かってもらえます」
「今回の件で、罪人は私一人だということを」
それを聞いた俺は全身の力が抜け、短く息を吐き出す。
「もういいよ」
「何がですか?」
女はそこで、掴んでいた俺の腕を離した。
「どうせ俺も、もうお尋ね者だ」
「弁明したところで、何も変わらん」
「俺が斬り捨てられて終わるなら、その方がいい」
「だから、もう」
そこまで話したところで、女はまた腕を掴んで俺の体を引きずり始めた。
「承知できません」
淡々と話していた女の声に熱が込もる。
「もう、誰も、死ななくていいじゃありませんか」
「あなたは、自分自身の勘違いでこんな目に合ってしまったと考えているでしょう」
しばらく黙っていた女が、またぽつぽつと話し始める。
「獄門台の晒し首が偽物とすり替えられた、などという勘違いによって」
「でも、すべてがあなたの思い違いによるものだったと思っているのなら、それは間違いです」
心なしか、女の声に初めて明るい響が宿った気がした。
「父の顔は変わっていましたよ。確かに」
「あの、あなたのくれた簪を刺した時から、変わっていたのです」
「だから、別人に見えても無理からぬことです」
俺は自分の目に涙が滲む理由を、巻き上がる砂埃に見い出そうとしていた。
うつろくび 桐林才 @maruhito
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます