アンチ・モンテスキュー・バラード
夜風の仕業に違いない。
第1話 朝の満員電車でドアの目の前を占拠する巨漢を裁く法
なぜ世の中には「朝の満員電車で奥の方にまだ人が入れる空間があるにも関わらず自動ドアの目の前で山の如く動かぬ巨漢を裁く法律」がないのか。
100歩、いや、500歩譲ったとして、各駅停車でドアが開いた時、本当に微々たるものであったとしても、「ドアの前を占拠してしまい申し訳ない」という表情をしているならまだよい。しかし、乗り込んでくる人々の流れに対し、川の底に太古より鎮座している大岩のように彼らを押しのけ、まるでここが自らの居場所だと言うかのような表情で平然と携帯を操作しているのは如何なものか。いくら仏ほど心の広い私といえどこれは看過できない横行である。
何より許せぬのが「朝の満員電車で奥の方にまだ人が入れる空間があるにも関わらず自動ドアの前を占拠してはいけない」というのは『ルール』ではなく、『モラル』、『マナー』だと言うことである。この、『ルール』のなり損ないは破ったとしても周りの今後二度と会うこともないであろう見ず知らずの大衆から多少の冷淡な視線を向けられるだけで、懲役を課されることも、罰金を課されることも無い。故にこのような悪漢が世間に多く蔓延る事態を招いているのだ。
さて、ここで私の趣味とこの文章の概要について述べておこう。先述したような現代のこの国の法では捌けぬ人間を目撃したとき、私は『唯我独尊裁判長』として『脳内裁判』を開廷する。社会が裁かぬというのなら、せめて私が空想の裁判所で裁こうではないか。これが私の趣味である、いや、誇るべき偉業と言ってもいいかもしれない。
『唯我独尊裁判長』という単語に疑問を抱いた読者も多いだろうから、まずは是について説明をしなくてはならない。私の『脳内裁判』において、裁判官側の席は1つのみ、つまり私の席である。それどころか検察官、弁護人すらここには存在しない。私が、四半世紀足らずの年月で得た経験、知識を用いて、原告に判決を言い渡す。これこそが、『脳内裁判』の全容である。
つまりこの裁判では私こそが法であり絶対の存在なのだ。異論を唱えるものは即座に禁固刑に処すとして、では早速今から、原告、「朝の満員電車で奥の方にまだ人が入れる空間があるにも関わらず自動ドアの目の前で山の如く動かぬ巨漢」についての裁判を開始しようと思う。
開廷
さて、まずはこの男の罪状について今一度整理しておこう。考えうるものは、「通勤、通学ラッシュの多忙な学生、社会人の通学、通勤を妨害した罪」や「一度に電車内に収容できる人数が減ったことで、電車に乗れず予定が狂ってしまう人数を増やしてしまった罪」などであろう。正直これだけでは懲役を課すほどの罪ではないし、罰金を課すとしても40円程度といったところだ。
しかし、今回最も重要なのは、この男が巨漢であるという事である。背丈の小さい貧弱そうな男であれば、そもそも自動ドアの前を占拠されてもさしたる問題にはならない。なぜならそんな小柄な男であれば、そもそも人の流れに逆らい続けることが困難だからである。しかしこの男は身長が180センチ以上ある、裸一貫にまわしを付けていた方が違和感がないであろう、力士のような巨漢だったのである。
電車に乗り込もうと自動ドアの開閉ボタンを押し、この男と向き合った時、ほんの一瞬ではあったが土俵が見えたような気がした事を思い出し、やはり懲役25分が妥当の様に思えてきたその時であった。
ドアのすぐ横、つまり男に最も近い席が空席となったのである。本来ならばそこは最も席に近かった男が座るのが当然の座席である。これだけ自動ドアの前に居座った挙句、椅子にすら座ろうと言うのか、この男は。しかし男はその席に座らなかった。それだけでなく、男は自らを盾にするかのように後ろにぴたりと張り付いていた老人にその席を譲ったのである。
衝撃的な光景であった。機械仕掛けの扉の前を占拠するほど倫理観が欠如していたはずの男が、老人に座席を譲る優しさを持ち合わせていることがあろうか。ちなみに私はこのような状況が訪れた場合、その席が優先席でもない限り、率先してそこに座る人間である。
もしかしたら彼にも何か事情があったのかもしれない。本当は自動ドアの前を占拠などしたくないのに、そうせざるを得ない事情が。例えばどうしても出席しなくてはならない大切な会議に遅刻しそうであるとか、そういった一刻を争う状況に、彼は置かれていたのかもしれない。
信じ難い事だが、先程まで憎たらしかったはずのこの男の顔に、今では私は一抹の親近感を抱いていた。老人に席を譲ることが出来る男が、悪人であるはずがないのだ。きっと彼は悪の組織の構成員がこの電車に乗り込むことを知り、ドアの前に居座ることで奴らが何処から乗り込んでくるのかを偵察しているFBI捜査官に違いない。仕方がないので今日だけは見逃してやることにする。
原告: 朝の満員電車で奥の方にまだ人が入れる空間があるにも関わらず自動ドアの目の前で山の如く動かぬ巨漢
判決:無罪
脳内裁判、閉廷。
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