多分、僕のことが好きだったはずだ

寺 円周

第1話 クリスマスにモーニン



 あれは、1年前の世に言われているクリスマスの日のことでした。


 僕は、大学生になってもまだクリスマスの夜を一人で過ごすのかと、ほどほど自分に情けないと思っていたんだ。行きつけのスタンドバー「炎」で安ウイズキーを水割りにして飲みながら。そう、そこは新宿のゴールデン街にある小さな店。鳩が餌をついばむような止まり木に腰かけると、古希をまわった白髪交じりの痩せたマスター織田さんとモモというまるで七面鳥と見まがうばかりのカラフルなアイドル風コスチューム女子がカウンターの中から相手してくれる。その日はまだ他に客はいなかった。


 店内には、僕の大好きな偉大なアーティスト、アートブレイキーのモーニンが微かに流れていたっけ。


 ジャズはいい。僕の心に寄り添ってくれる。僕の心臓を時にやさしく、時に激しくマッサージするようにビートする。重度の障害をなんとか克服してきた僕の心臓に、だ。


「今日は、雪でも降るんじゃない。ホワイトクリスマスかな」と、マスター。


「あら、もう降ってましたよ。なんか霙みたいでしたけど」


 カウンターの中の二人の会話を、僕、森田謙は、薄くなった水割りグラスにウイズキーを自分で継ぎ足しながら聞いていた。


「ねえ、謙ちゃん、今年のクリスマスは誰かいないの、一緒に過ごしてくれる彼女みたいな人が」


 小皿に入った柿の種を出しながらモモが聞いてきた。僕は、それを鼻であしらうように横を向いて応えなかった。




 2年浪人して、なんとか大学生にはなったけど、そもそもが、自分でも助平だと自認しているほど女好きのくせに、なかなか女性に恵まれないもどかしさがあった。


 女好きというのも困ったものだ。付き合うことができたら、と思うと最後の一線を超えてしまうまでを頭の中で妄想してしまう。だから、うまいこと、おあつらえ向きなチャンスが巡ってきても、ただ横に並んで座っただけで、話しも仕草も緊張してぶきっちょになってしまうのだ。そんな下心たっぷりな態度を見て好感をもってくれるような女性なんてなかなかいるわけない。それどころか気味悪く思われるのが関の山だと、僕は付き合う前から、そんな予想をしてしまうものだから、なかなか好みの女性に出会っても、アプローチすることができないでいたのだ。そんな悩みが勉強にも影響して、集中力がわかない。僕の2年の浪人はそのせいだと思っていた。なんとも、悲しい青春ではないか。




 それでもなんとか、私立の名門大学に合格すると、母親はたいそう喜んで、小遣いを奮発してくれた。それは、二十歳そこそこの学生には多すぎる。そんな金を持って、いつしか酒の味を覚え、この小さな店が寄り合うゴールデン街の常連になっていた。




 寂しさ侘しさを一人で抱え込んでいると、これは世の中が間違っている、世界は不条理に満ちている、なんておこがましいことを考えてしまいがちだ。まったく、どうしようもない愚かさよ。その頃は、恵まれた環境に温まりきった自分が、世の中すべからく貧しさに向かっている時代から疎外されていることにまったく気づいていなかったわけだ。




「ねえ、マスター。昔の学生運動ってさ。本気で革命なんてできると思ってたのかね。マスターは少しはその時代を知ってるでしょう」と、もう40年もこの地で店をやってきたマスターに聞く。


「何言ってんだよ。私が全共闘世代だと思って聞いているんだろうけど。そのころの学生たってね、さまざまなんだよ」


「へー、でもゲバルトなんていうの、やってたんじゃないの」


「マスター、本当なの」と興味深くモモも聞いてきた。


「いや、私はねえ、ノンポリと言ってね、デモには面白いから時々参加したけどね。ヘルメット被ってやってた連中からすると、野次馬みたいなもんだ」


「私、知ってるわ。あさま山荘事件だとか、革マル派と中核派とか」と、モモ。


「へえ、詳しそうじゃない?」と僕が初めて彼女に関心を持つと。


「いや、なんかのテレビの特集かな。うろ覚えだけど、なんか勇ましいと言えば勇ましいけど、ちょっと危険なお遊びにも見えたわ」


「いや、それはサー、違うんだよ。あのなあ」と、マスターのはなしが佳境に入ろうとしたところに、バタンと乱暴な音を立てて店の戸が開くと、新しいお客が入ってきた。


「いらっしゃい」反射的にマスターが言う。入ってきたのは、カーキ色のトレンチコートに赤い毛糸の帽子をかぶった、すらっとした若い女性だった。その女性は何故か、まだまだ空席がたっぷりあるにもかかわらず、カウンター席の、謙の真横にすり寄るように腰かけた。突然の侵入者に少なからず驚いた謙だったが、ちょっと姿勢を引き気味にしたものの、声をかけざるを得ない状況を察した。


「やあ、こんにちは。あの、外はまだ雪になってない?」


「あ、あの、まだです」と何故か少し震える声。そして、


「何か、ください。私も水割りでいいです」と、おびえた目を泳がせて、マスターに注文をした。


 おしぼりを用意していたモモは、手際よく氷を入れた水割りウイスキーをマドラーでかき混ぜているマスターと目を合わせ、不審そうに横目でその女性を見た。


 僕は、突然入ってきて真横に座られたから、それまでその女性の容貌も、スタイルもよく確認することができなかったが、彼女が手にした水割りをグイっと開ける様子を見て、これまたびっくりしてその時初めてまじまじとその横顔を見てしまった。


 僕の第一印象は、目の澄んだかなりの美人だ、ということだった。


 彼女は直ぐにお変わりを要求して、2杯目はさすがにゆっくりと口にした。


「びっくりさせてしまって、ごめんなさい。ちょっと追われているもんだから」


「え、何かあったの」


 僕は、追われているなんて口走った彼女にまたまたびっくりだ。


「いえ、たいしたことじゃないの。もう大丈夫だわ」


「そう・・・」お互いのひそひそ話のような会話が、ここで途切れる。


 しばらく店内は、低いながらも一段と主張をもったコルトレーンのサックスが四方の壁にぶち当たりながら響いていた。


 そこへ、また新たな客の登場だ。今度は勤め人風の若い男の二人連れだった。


「いらっしゃい。今日は早いじゃない。岡ちゃんたち」とモモの常連に対する馴れ馴れしい態度は鼻につく。


「いや、さすが今日はみな、仕事は早仕舞いだよ。ところで、マスター。何かこの辺であったの?」


「どうして」


「なんか、やたらおまわりが多いんだよね」


「へえー、なんだろう。いやだね」


 その時、マスターだけでなく、謙は女の子の涙をこらえた顔に気が付いた。


「あの、どうかしたの?」と謙が聞くと、


「どうかした、って何が?」と目頭を軽く押さえて逆に聞き返す。


「いや、何か、感傷的になっているというのかな、そんな気がして」


「ほんでね」


「えっ」


「あ、ごめんなさい。ちょっと、言葉が」


「ああ、方言だね。いいんだよ。返って可愛いよ」


「いやだ・・・」


その時、店の奥に陣取った二人が、


「僕のボトル、まだあるかな。あったら出してくれる?あと、水割りのセットとお新香とチーズね」と、大きな声でオーダーをした。


 その時僕は、このタイミングを逃したらまずいと、積極的に出たんだ。


「お、お名前は?」


「アヤ」


「アヤ、アヤさん。ボク謙。よろしく」


「謙さん。よろしく」


 これでよし。いい感じだ。じっくり攻めようと、僕は次に何を聞こうか、迷っていると、余計なことに、奥の二人はモモに任せて、興味津々のマスターが割って入ってきた。


「アヤさん、どういう字を書くの?」


「糸へんに、土書いて八書いて又みたいな・・・」


「ああ、綾織りの綾、模様の綾だね」


「ええ、そうです」


「いい名だ。綾織りの綾さん。覚えたよ。初めてのお客でも、もう常連さんだよ」


「なんだ、なんだ。マスター、商売うまいな」


 僕は、苦笑している綾さんを遮るように、皮肉調でマスターに言う。すると、


「ハハ、お邪魔だったかな」と、マスターが嫌な笑いを残して離れた。


 僕は、その言葉に見透かされたと思った。まだどうなるか分からないのに、心の奥にある魂胆のようなものが、自分でも急にチープに思えた。


 ちょっと間をおいて、ゆっくり止まり木から降りると、「お愛想」と声にした。


「あら、もう帰るの」


 モモは、びっくりしたようだが、マスターは、しょうがない奴だといった顔で、にこっと笑顔だ。


「あ、私も帰ります。いくらですか」と、綾も大きな安物のバッグを手にした。


 それこそ、マスターは、おっと、まずかったかな、という様子。

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