第一章 戦端
19世紀初頭、世界を制した革命国家「ブルボーナ共和国」は英雄「アンスバッハ・ストラトプール」の発案した機動戦を用いて、瞬く間に旧大陸を制圧した。これに唯一対抗を続けていたのは旧大陸の西方ではノーザンブリア帝国のみであり、ノーザンブリアを中心とした対抗軸とブルボーナは終わりのない抗争を続けていた。
話は、飛ぶ。
19世紀の中期、ブルボーナはノーザンブリア領アランダスへ侵入し旧大陸の東方へとその軍靴を響かせることとなった。それまで大陸東方では巨大帝国たる大撥(ハツ)帝国を中心に乞氏龍(リュウ)泉(シェン)王国や北林幕府が勢力圏を築いていたが、ブルボーナの軍事的圧力の前にそれが崩れた。各国で尊王運動や攘夷運動が熱心に展開され、半世紀遅れでナショナリズムの風が大陸東方に巻き起こったのである。
これらの運動を支援したのはノーザンブリアであった。
1876年までに大陸東方諸国は、ノーザンブリアの仲介のもと「ラングバート協約」を結び、ラングバート統一戦線が結成されるに至る。しかしながら、大陸東方諸国はブルボーナとは体格が違い過ぎた。主要産業は米・麦・粟・綿花・ゴムなどの一次産業の品物に限られ、圧倒的な人口はかえって中央政府の管理限界を超えて国内治安悪化の主因となって久しい。
それに、近代の戦争とやらを知らない。
近代の戦争とは、鋼鉄の船を大洋に浮かべ砲戦をすることや、大量の散兵を動員し湯水のように火薬兵器の弾薬を消費する消耗戦であることをいう。決して、馬を走らせ筒から白煙を出し、剣を躱す戦場などではないのである。
だが西方人種に比べて、融和的である東方人種は、戦争という物を長く後者の物としてとらえてきた。その人間たちが、総力を持ってして世界帝国のブルボーナに抗おうというのだから、ノーザンブリアはひそかに嘲笑したであろう。
1888年12月22日、東進を続けるブルボーナ軍は大陸中央高原の小都市アンボンを包囲した。大陸中央高原にはかつて大陸を鞣(なめ)したハーン達の末裔が緩やかな統治をしていたのだが、同都市アンボンの餡(アン)盆(ボン)都(と)護府(ごふ)(大撥帝国の出先機関)の中(ちゅう)司馬(しば)(中将から大将に相当する役職)たる呉(ゴ)燕(エン)はこの包囲攻撃に対して、大撥帝国とラングバート統一戦線の了承を得る前に反撃してしまい、宣戦布告と事前準備のないままこの戦争は勃発したのである。
話は、続く。
文帝12年(1889年)の1月13日のことである。非公式ではあるが、ブルボーナ共和国の全権大使ポルマース・プロヴァンスとラングバート統一戦線から大撥帝国の亮(リョウ)蝶(チョウ)禅(ゼン)大司(だいし)徒(と)(宰相)及び北林幕府の後継政府である洛邑(らくゆう)帝国の大林勝彦外務卿が参加した会談の場が持たれた。場所はノーザンブリア帝国本土の南方にある軍港コルムウェルの高級ホテルであったとされ、新古典主義的な重厚感のある建物だったらしい。現在では、そのホテルも焼失してしまっている。
ポルマースは会議の冒頭にこう発言したという。
「本件に関する、餡盆都護府の攻撃を市民はブルボーナに対する攻撃であると認識しています」
ポルマースはそう言うと、煙草を吹かして腕を組んだ。その様に亮と大林は憤激しそうになったものの、ここは堪えて。
「我が国に、ブルボーナと事を起こす気はありません」
と、言った。しかし、ポルマースはその発言を一笑し葉巻の先をハサミで切り落とした後に両人に対して宣言する。
「それを決めるのは、我が国の市民です」
ここに至って、亮と大林は抗する言葉と意味を失いつつあることを自覚した。仕方がないので、会議を主催しているノーザンブリア人の顔を見た者の、ノーザンブリア人は微笑を崩さず、そして沈黙を破ることも無かった。
後にノーザンブリア半時(はんとき)会談と呼ばれたこの会談は、その名が示す様に三十分余りで終了している。しかし、この三十余りが重要であるということを余人はあまり認識しない。会議が始まって三十一分経過したころ、沈黙に耐えかねたのかポルマースは声帯をようやく震わせたのである。
「……ノーザンブリアが我が国に対して、攻撃する姿勢を見せればこの戦は流れるでしょうな」
この一言は、歴史に残るべき一言である。多くの人間はポルマースを冷酷無比で残忍な男であると解釈しているが、この様な発言を捉えれば、冷酷無比であるだけと言うのは少し語弊があるように思える。しかし、これを言われたノーザンブリア人は名前すら残っていないことからわかる様に、高官でもなければ、ノーザンブリアの周到な処置によって今では誰であったかを特定することは非常に難しくなっている。故に、こう答えたことしか残っていない。「ブルボーナと、ノーザンブリアは恒久に続く友好国でありますから」と。
「帝国全土の砲兵工廠(こうしょう)で全力を出しても、一日に三万四千発が限界です」
大撥帝国の大司馬(だいしば)(全軍の総司令官)である、霍(カク)去(キョ)悌(テイ)からの電話に兵站部長李(リ)庚申(コウシン)が答えていた。この電話は前述の大司徒亮蝶禅からの要請で兵部省が本格的な戦争計画を立案するにあたってかけられたものである。
「それじゃ、到底足りない。我が軍の砲は山砲も合わせれば二千五百門もあるのだぞ」
霍はそう怒鳴りつけたが、小司馬であるのにもかかわらず、それよりも大きい声で怒鳴ったのは李庚申であった。
「大司馬よ、それでは我が国は戦争よりも先に財政によって地図より消えてしまいます」
この言は、実を見抜いていた。何故なら怒鳴って困ったのは霍であったからだ。先程までの勢いは大きくそがれ、普通の声色で霍は李に続けた。
「李庚申、砲弾の備蓄量及び増産計画を立ててもらえるか」
まるで乞う様な仕草に、李は動揺した。しかし、ただちにこう答えた。
「すべては天子様のお考えの様に」
その反応を確認して、霍は力強く頷き、ただ「うん」と発した。そして黒色の受話器を片付けると傍らに控えていた洛邑人を見る。洛邑人と言っても、この男は洛邑人特有の薄い顔でも、低い伸長でもなく、鼻と身長が高かった。
「……醜態をお見せしましたな」
霍去悌はそう恥じたが、洛邑人は首を横に振る。
「海軍は、はたして勝機がありますか、一条文博提督」
一条は霍に問われて、悩む様子も無しに即答した。
「厳しいですが」
ブルボーナ共和国は陸軍国である。世界で初めて市民皆兵を実現し、圧倒的な軍量を実現した。だが、それ以上に特筆すべき点はかの軍の諸兵科を操る能力であったと言える。しかし、海軍となれば、艦隊保全主義を採用し艦隊決戦を避ける傾向にあるのだ。それ故、自然とラングバート統一海軍は敵が有利な海域まで進出しなければならない。その上でブルボーナ共和国海軍の総戦力は艦艇数と兵器の質で約二倍の差があると言っていいだろう。ラングバート統一海軍にとって、唯一救いがあるとするならば、ブルボーナ共和国海軍の本当の敵はノーザンブリア帝国海軍であると言ったところか。
一条は肩をすくめて霍へ続けた。
「洛邑帝国の国家予算の約三割とラングバート統一戦線からの支援を一身に受けた洛邑帝国海軍を背負うとなると、緊張します」
一条は洛邑民族に限らず、大陸東方諸国の全ての命運を握っていると言って差し支えない。それは、目前の霍もそうである。彼は大撥帝国陸軍の総司令官であると同時にラングバート統一戦線の陸上戦力の総指揮官でもあるのだ。
「その気持ちは提督と私しかわからんでしょうな」
霍は、そう言って肩をすくめる。だが、すぐに首を振って「いいや、大司徒殿も天子様も、貴国の元首殿も同様でしょうか」と一条に語り掛けたが、一条は首を縦に振るのみであった。
文帝12年2月14日
『餡盆都護府駐留軍は、幾万の敵を大いに打ち破りたり。天子の威光はここに至りて万国の空を照らすことを欲す。故にこの稀代なる戦勝の好機に当たりて、我軍は敵中突破し、祖国の地を望むなり』
餡盆都護府の都護である中司馬呉燕は兵部省以上のような文を送った。これに激怒したのが天子、そう文帝である。文帝は少年の頃に即位した若輩の皇帝であったが、彼の養育係であった宦官の乎(コ)文(ブン)粕(ハク)の教育は優れたものであったが故に、宮廷という異世界において現実を知る君主となっていた。
「呉は、誤りを犯している。人民の命を己が名誉のために悪戯に消費せんとしているのだ」
と、そのはつらつとして声から発される音には威厳があったようで、参内していた霍はひれ伏し許しを請うた。軍事行動中の指揮官を変更することが容易ならざることは、戦争における大原則であるし、そもそも包囲下のアンボンに人を送ることなどできず、餡盆都護府駐留軍は既に大撥帝国の統制下からは外れている。
「餡盆都護府駐留軍十万は壊滅するやもしれぬ、事ここに至って、朕は自身の無能を恥じるばかりである」
攻撃は壮絶さを極めた。
文帝12年2月16日、呉燕率いる餡盆都護府駐留軍十万は東西南北と南南西につながる五つの街道の内、東へ延びる「天令街道」に向けて攻撃を開始した。所謂、アンボン攻防戦の始まりである。
呉燕の持つ各部隊は歩兵第三・四師団と騎兵第二旅団及び山砲第七連隊であり、砲兵火力に関しては40門を数えた。これに加えて、アンボン市の守備隊三万が加わるが、これは攻撃用兵力ではないため攻勢には使えなかった。本来であれば、呉燕は本国からの増援が到着するまで攻撃を耐えしのぶ事に徹するべきであったが、アンボン城外に集結した30万の大軍が行う連日の猛砲撃と突撃にしびれを切らしたのである。
無論、大陸中央高地のインフラストラクチャーは非常に脆弱であり、ブルボーナ共和国軍はほおっておけば補給が不足し撤退したであろう。
しかし、呉燕はそうはしなかった。彼には、焦りがあったのだと言われる。
「恐らく、ブルボーナ共和国は数週間のうちに鉄道を通すであろう」
彼はそう悲観的に推測した。実際、この推測は的外れではなく既にブルボーナ共和国は鉄道を敷設し始めていたのは事実である。しかしながら、中央高地の険しい山脈に鉄道を通すことがどれ程難しいことか、というのを連日の砲撃で彼は失念していた。
もしかすれば、
「既に鉄道が開通したから、これほど砲撃できているのではないか」
と彼は思ったのかもしれない。
事実、ブルボーナ共和国軍は連日なんと五万発を超える砲弾をアンボンに叩きこみ、これは先述の大撥帝国の一か月の生産量を大幅に超えるものであったのだ。この砲弾の乱用の仕掛けには失笑ものの、顛末が付いている。
それは、ブルボーナ共和国軍は「食料などの装備を無視し、その上で現地民を強制的に徴発し輸送に付かせていた」という、凡そ知性を感じないものであったのだ。
攻勢についてである。主戦力として、歩兵第四師団が当てられ第一次攻撃は行われた。まず、夜明けと共に町に備蓄していた砲弾の大半を敵の堡塁に撃ちこもうとしたものの、山砲は青銅製であったことや、不発弾が多く、弾道はそこまで飛翔せず、期待したほどの戦果は挙げられなかった。
しかし、攻勢は決行され、第四師団は決死の突撃を行ったのである。
「我が、第六峰(ホウ)零(レイ)歩兵連隊は敵第311堡塁を奪取する」
と説明を受けた、第六連隊は歓喜した。彼らは、城壁の中に籠って防戦をすることに、既に嫌気がさしていたのである。さらにはアンボン市民の一部は都護府が置かれたがゆえにブルボーナに攻撃されたと考えるものも現れており、都護府の駐留軍にとっては、さっさと出ていきたかった。
「銃剣をつけろ、歩(ほ)槍(そう)の整備は今のうちに済ませておくのだぞ」
歩槍というのは、大撥帝国流の呼び方である。洛邑帝国で言うところの歩兵小銃とでもいうべきこの装備は、西洋的に言えばボルトアクションライフルなのであるが、ブルボーナ人の様な無煙火薬のものでは無い。大撥帝国の八年式歩槍は黒鉛火薬を使用した、旧時代的設計と連発できて五発が限界だと言う継戦能力の低さから、こういうのは酷であるが、西洋人にしてみれば、銃剣突撃のための銃であった。
やがて、笛の音が城壁と市街に鳴り響く。第四師団約二万人の兵士が天地に轟く雄たけびを上げ、大地が震える様に堡塁へなだれ込んだ。
『撥』の字が描かれた旗が、風と爆風の中を靡く。
「突撃!突撃!」
いよいよ、堡塁の中に居る人間が目視できるに至った300メートル。所謂、ガトリング砲という物が火を噴いた。歩槍を発砲する以前に、何人もが倒れていく。その上から砲弾が直撃し、死骸と絶望を周囲へまき散らした。
混乱した兵の一部は、散兵戦の時代に逢って縦隊を組んで一斉射撃を試みるものもいたが、端から丁寧にガトリング機関銃の前に倒れていく。
「怯むな、敵の弾薬は無限ではない!!」
そう、小隊指揮官はそう声を上げて、戦死した旗手から旗を借りて天へ掲げた。それを見た兵の士気は上がったが、どうにも進まない。やがて、その小隊指揮官も敵の重砲に狙い撃ちにされ、旗は焼け落ちた。
その攻勢は正午から三時間続いたが、戦死者三千二百という、大損害を出してのみ終わった。この大攻撃が壮烈であるのは、彼らを死に導いたのは、命令以上にその愛国心であったことである。うめき声をあげながら、敵の堡塁へ半身不随で突入した者も居たというほどで、この反ブルボーナ戦争に対する国民的高揚がわからなければ、この時代を考察することは容易ではない。
ブルボーナ共和国という国について、詳しく述べたい。
もともとはブルボーナ王国であったこの国はアルマニエン諸国やエリタニエン半島の諸国へ度々侵攻を続けていたが、アルマニエン諸国最大の雄「エスタラント大公」であるゴーザブルク家の前に数世紀の間、苦汁をなめた。ちなみに、ノーザンブリア王家はこのブルボーナ王家であるヴェンナ家とゴーザブルク家のどちらとも婚姻関係を結んでいる。
大陸西方では、勢力拮抗という思想が千年この地を支配していた。
実際、ブルボーナ王国もそれに基づいて行動していたが、それでも戦争は求めた。各領邦の君主の継承権や、尊厳に至るまで戦争を求めた。それは、ブルボーナにおいて名君と呼ばれる女王である、荘厳王ソフィア二世が壮麗な宮殿や文化を用いて国家を権威的に統制していたことに関わりがある。
壮麗な宮殿も、豪華な文化も、金がかかって仕方がない。絶対君主制を維持するために必要な巨大な官僚機構にも、金がかかる。これを解決するためにソフィアは略奪経済を敷いたのである。戦争をする、金を得る。金を得れば、宮殿を建て軍備を拡張する。そして戦争をする。戦争はこの王国にとってのエネルギーであったと言えよう。
だが、この動きを警戒しない程大陸西方諸国は平和ボケをしていない。ノーザンブリア帝国とエスタラント大公国は諸国を大号令し対ブルボーナ大連合を結成し、ブルボーナに対抗したのである。
名だたる大会戦の後に、ブルボーナは財政破綻した。否、厳密に言えば財政破綻というよりかは経済崩壊と呼称すべきであろう。政府の財政はひっ迫するたびに三部会という名の議会を経ない増税が繰り返された結果、ブルボーナにハイパーインフレという嵐が現れた。「最高価格令」や「非収入家人徴税法」などという悪法が瞬く間に制定され、市民生活はいよいよ首を締め上げられた。
「王宮にパンを!!」
と叫んだ婦女子たちの大行進によって、王政は崩壊し、臨時で招集された三部会は国民議会と名前を変更するに至り、ソフィア二世の息子であるアルブレヒト十一世は斬首された。ここに革命が成ったのは1788年11月1日のことであったとされる。
ここから政権はたらい回しの憂き目にあう。依然として経済危機と大連合に対する戦争という内憂外患が完治したわけではなかったためである。まずは旧王国の海軍卿シャディス・ピエールが登山派を率いて恐怖政治を展開し、それに反抗した憂国党のジャック・アランがジャディス・ピエールを暗殺し穏健な議会政治を目指したものの、彼も首都最高法院院長のガレシア・パラディクスに幽閉される。この間が一年と半年の出来事であったことに、このブルボーナ人のエネルギーを感じずにはいられない。
1890年4月1日を革命暦元年1月1日とし、ガレシア・パラディクスは統領政府を宣言。が、その翌月南方大陸でノーザンブリアと激戦を交わしていた「アンスバッハ・ストラトプール」元帥が帰還し共和政樹立を宣言した。ジャック・アランはこの時に幽閉状態から解放されるが、死ぬまでアンスバッハの傀儡であったと言われる。
それからわずか4年でアンスバッハは大陸西方を三度の会戦によって制した。エスタラント大公国のゴーザブルク家、ブレンシア王国の参謀本部、ヴォロシーロフ帝国の冬将軍といった難敵を排除する様は、まるでほうきで掃くような容易さであったと後年語っている。が、ノーザンブリア上陸作戦だけは、艦隊決戦主義者である世界海戦史上最高の名将コーンヴィル卿アルマ提督に艦隊が撃滅されてしまったためボランの和約によって講和している。余談であるが、この時以来、ブルボーナは艦隊保全主義に固執したために「アルマの衝撃」と呼ばれた。
内政である。崩壊した経済を立て直すために、アンスバッハは緊縮財政を断行し、自らが誇った軍隊を縮小させ「少数精鋭」をモットーとした。一方で税金は革命で引き下げられたものよりも引き下げられ、市民生活は徐々に回復へ移行していく。アンスバッハは大陸西方の国境を廃したものの、諸国のアイデンティティをある程度守ったことから「西方の守護者」と自称し他人にもそう呼ばれた。彼の優れた政策は「アンスバッハ憲章」にまとめられたが、1822年に彼が早逝した後は、この憲章は有名無実となってしまう。
膨張したブルボーナ共和国は変質し、軍拡を推し進め、異民族と異教徒を弾圧し、言語と度量衡を統一した。あるいは「帝国」という単語を、皇帝が君臨する国家という意味で使わなかった場合の「異民族を併呑する侵略主義的国家」という意味で用いるならば、この時にブルボーナは帝国になったのかもしれなかった。
ブルボーナの帝国主義は軍産複合体の利権に起因するものでは無い。戦争は、我々が考えるよりも利益率が低いのである。どちらかといえば彼らの侵略主義は市民の熱狂に起因している。右傾的なロマン主義に支配されたマスメディアは、侵略を英雄史観で熱く語り、市民を狂喜乱舞させた。無論、良識な市民は少なくなかったが、この国では声が大きい方が往々にして強い。
ここまで、長くブルボーナについて語ったのはラングバート統一戦線がどういう敵と戦っているのか、ということを読者諸賢に知って欲しかったからである。この時代の全ての国家という組織が抱えていた「熱狂」という病が、善悪の隔てなく両者に存在したことを我々は冷静に認識する必要があるだろう。
話はアンボン攻防戦に戻る。
「被害は、甚大です」
駐留軍参謀の司馬補趙炎(チョウエン)が呉に報告した。が、そんなことは戦場を離れず視察していた呉燕は言われるまでもなく知っている。呉は、死にゆく兵を見て「あの死んでいったものの為にも、血路を開かねば」と決意し、感動の涙を流した。彼は直情家であった、故に戦略家にも戦術家にも適さなかった。
「余は、明日も攻撃を命じる。突撃だ、それしかない。山砲は城壁から降ろして前線に出す様に準備させるのだ」
その言葉を聞いた趙は、恭しく頭を下げて呉燕の大根芝居に付き合った。呉は歴史を愛していたからか、その様な大仰さを好んだのである。
呉の私室を出た趙は、そのまま城下にテントで作った第二騎兵旅団の司令部へ足を運んだ。
「欺は居るか」
と、ドアを開けるとすぐさま言った。欺というのは旅団長の欺(ギ)界(カイ)瞬(シュン)のことである。その時、欺は安酒を煽っているところで、顔をほんのり赤くしていた。欺は無類の酒好きであったが、酒癖は良いとは言えない。
「なんだぁ、趙炎か」
と、酒で掠れた声をあげた。彼は机に突っ伏したが、その机の上に何枚もの地図が置かれていることに趙はひそかに気づき、彼の生真面目さに免じて酒について指摘するのを控えることにした。
「頼みがある」
と、手短に趙は言った。すると、突っ伏した顔を右に向けて欺は口を動かす。
「いいだろう」
趙は困惑した。まだ、何も言っていない。趙は欺が酒で酔っ払っているからだと思ったが、驚く趙を欺は笑って、すぐに言葉を続けた。
「それで、何をすればいい?」
そういって、欺は体を立て直し、首を振って酔いを醒ました。
「西南の門から出撃して、敵の後方をかく乱してほしい」
趙は敵の包囲陣を突破し、後方へ出ろと言ったのである。常人にできる技ではない。恐らく幾重にも作られた堡塁と塹壕が彼らを殲滅しようとするであろう。
「堡塁とか塹壕という、陣地戦の考えは捨てろ。ただ、敵の後方へ行けばいい」
簡単に言ってくれるな、と欺は思ったに違いない。が、それと同時に確信したことが欺にはあった。
「それは、司令官閣下の策じゃないな。趙、君の策だ」
趙は静かに頷いた。発覚すれば軍法会議どころか、射殺されるかもしれない。さらには、物資など、様々な難題もある。ここで改めて受け入れを拒んでも趙は納得するであろうし、後世の人間も同様であろう。
「じゃあ、明日は何時に出撃すればいい?」
だが、欺はそう尋ね、出撃は明朝と決まった。趙は深く感謝を述べたが、「俺たちの中じゃないか」といって、欺はそれを嫌がったという。しかし、長く話しているわけにもいかない趙はすぐに旅団司令部を出て兵站部など、各地を回った。
1889年2月17日、攻撃は二日目を迎えた。昨日とは打って変わって暗い朝4時58分に突撃が行われたものの、この様な夜襲は指揮を執るのが難しい。が、大撥帝国軍は奮戦し、激闘の末に敵の堡塁を5時22分には奪取した。しかし、すぐさまブルボーナ軍の反撃が始まるのだが、それが運の悪いことに日が上がり始めた時であったのである。太陽に背を向けているブルボーナ軍は不利であった故に、莫大な犠牲を払うかと思われたが、日光に眩しさを感じていたのか大撥帝国軍は早々に撤退してしまう。
「一度、堡塁は我らの手に渡ったのだ、それを繰り返すだけだ」
と言ったたれかが居たかもしれない。が、それ以降の戦闘では損耗がさらに目立っていく。軍服は血と泥で穢れ、一部の兵は地元住民から鍋を奪って頭に被った者も居た。それほど、機関掃射は心理的にも物理的にも威力を発揮していたのである。
ほぼ、同時刻の西南の城門までは、趙が欺旅団の見送りに来ていた。全部隊を派遣するわけにはいかないので、欺の第二騎兵旅団のうち半数である第22騎兵連隊を欺は率いることとなっている。
「では、戦果を期待しておいてくれ」
欺のその言葉に趙は僅か「おう」と答えただけだった、ここで惜別を告げるのはお互いに縁起が悪いと思ったからこその淡白さであった。
撥の馬は小柄で鈍足と知られる。だが、足腰は屈強にして持久力が高い。欺は開門と共に馬に何度も鞭を打つ。勢いよく、駆け始めた欺支隊(後にそう呼ばれる)は未だブルボーナ軍にばれてはいない。というのも、ブルボーナ軍はこの西南の守備兵から東側へ兵を回していたのである。
まず前線まで五百メートル。そしてそこから一キロの縦深を持つ陣地戦を抜けるのには苦労するかに思われたが、時々守備兵が散発的に発砲するだけで、損害を受けずに欺は後方へ出てしまった。
「皆、安心するのは早い。これより餡盆都護府を救うために、我らは西南街道という敵の補給線を破綻させる任務があるのだ」
これは、別に趙に言われたわけではなかった。が、欺はそれを必要と信じている。補給線をずたずたにしてしまえば、どんな軍隊とて持たない。そこで欺は自身の部隊をさらに二分し、片方を「湖(コ)豊(ホウ)挺身隊」とそれを指揮する副官の名から名付け、包囲陣の備蓄の破壊を命じた。挺身隊というのは、この任務が非常に困難を極めるためであり、いわば特攻隊である。
一方自身は本体を率いて南西街道を南下、アランダスに侵入しようというのだ。
何度か、守備兵との戦闘があった。が、守備兵は突如として現れた騎兵の前に駆逐されていった。十数人の小部隊が三個壊滅したあたりで、補給を担っているアランダス人が街道の先から現れた。
「あれは、東方人種だ」
と、双眼鏡で確認した欺が思わずつぶやいた。それまでブルボーナ軍はブルボーナ人が補給を行っているものと信じられていたから、驚いたのである。彼らは、勇気をもって大撥の旗をなびかせて、堂々と補給を担うアランダス人のもとへ行進した。
旗が遠めに見て、ブルボーナと違う事に気づいたアランダス人の数人が補給物資を投げ捨てて欺のもとへ勢いよく駆け寄った。
「お前たちが、ブルボーナと戦っているのか!?」
と、口々に尋ねた。彼らは数年前にブルボーナに撃滅されたばかりの、いわば反ブルボーナ感情の強い人間たちであった。それに接して、欺はすぐさま微笑を浮かべ、こう答えた。
「我々は東方人種の連合軍だ、君たちを開放しに来た」
と大声で宣言した。アランダスと大撥帝国の言語は違ったが、通訳が訳すよりも前に欺が付き上げた剣から真意を感じ取ったのか、補給を担っていたアランダス人は歓声を上げた。
「万歳!万歳!万歳!」
この声は、欺が意識しないうちに大きなものへと変わっていく。
一団、一団と峠を下るうちにアランダス人の数は急増し、そのうち逃げ出してきたものが現れるようになった。既に欺の出撃からわずか一日であったが前線から「補給物資が届いていない」という連絡が後方へ行ったようで、アランダス人に見せしめとしてブルボーナ人は数百人程度の虐殺を行ったようである。
しかし、この数百という数字に万が付くのにかかった時間は僅かであった。それを聞いた峠の根元で鉄道建設に従事していたアランダス人は激怒し、そして恐れて山を登り始めたのである。これは、西南街道の先で戦争をしている、という事を知っていたためであるが、その敵が誰であるかを、彼らは知らなかった。
アランダスという国は、宗教の国であったかもしれない。世紀という概念が生まれる以前よりカーストと呼ばれる階級区分が厳格に行われていたことから貧富の差が激しく、庶民は文字を読むことも知らない。そこをブルボーナ人に付け込まれ、瞬く間に侵略された。あるいは集団の個人個人が持つ智というものが、これほど大きな力を持つのを、世界で初めて紹介した例らしかった。
逃げ出した彼らの前に、軍団が現れる。数時間で数万に膨れ上がった欺の軍で、彼らは最初恐れをなし、天に救いを願ったがすぐに必要がないことを知った。旗を見たのである。ブルボーナは青・白・黒に剣と麦の紋章という旗であるが、大撥帝国の物は黄色の旗に大きく大撥と書かれているから、違いは解り易い。
「お助けください、ブルボーナは我らアランダス人をこの世から消し去ろうとしているのです」
欺はそれが嘘であることを見抜いたが、それを指摘するようではこの立場に居られない。すぐさま、欺に伝えた男の肩を抱き、大衆に聞こえる様に言う。
「我々は、君らと共に戦う」
「我々は、君たちの解放軍だ」
この言葉を述べることで、魔法の様に群衆は暴徒へと変わった。そして恐れというトリガーが外れて、勢いそのまま下山したアランダス人と欺は各地のブルボーナ人の使節を襲撃し始めた。
「独立戦争だ」
その一言で、アランダス人は平素では信じられないほど勇猛果敢になった、軍事物資を補完する倉庫という倉庫を襲撃し、武装した暴徒はネズミ算式に拡大していく。
「欺将軍よ、我らの大将へ!!」
と、二日後には言われたが、欺はこれを辞退し、群衆の中から賢い若者であった「オードリー・アブラハム・シィンナ」を独立革命軍総司令にするように仕向けた。
このことが前線のブルボーナ軍に知れると、いよいよ混乱は収拾がつかなくなり、アンボン攻防戦は、ブルボーナ軍の撤退によって終結することとなる。
この少々、不可思議な顛末がこの戦争の狼煙となったことは事実である。欺が後方へ言った後も決死の突撃は続き、結果として餡盆都護府は十万の兵の内一万人の損害を出すこととなってしまい、この攻防戦の勝敗は今日まで議論の対象とされてきた。
が、この戦争はまだまだ続く。
東方諸国の自由と自立を守る為に、あるいは、世界を征服せんとするブルボーナを止めるために。
趙のことである。彼は本来であれば、指揮系統を乱した者として裁かれねばならない。しかし、趙はそれを待つような性格ではなかった。隠し事というものは、どこまで隠し通すかというのを決めて行わなければならない。永久に事実を葬り去ることは、物理的に難しいために、どこかでは事実を伝えなければならないのだ。しかし、事実である必要はあるが、真実である必要はない。
趙は、二日三日でアランダスでの騒乱が聞こえると読んでいた。故に、上官である呉燕に進言もせず欺を出撃させたのである。三日どころか、その日の午後には反乱騒ぎは場内に伝わり、趙は再び駐留軍指令である呉のもとを訪ねた。
「アランダス人が反乱を起こしたようです」
と、趙は努めて淡白に言った。それを聞いた呉は眉間にしわを寄せ、不愉快であることをあからさまに表す。
「君は、東方人種同胞が起って、なぜそんな淡白で居られるのだ?」
趙のこの態度が、情に熱い呉を突き動かした。それに、呉には東門の戦いに勝利することを現時点で心情命題としている。だからこそ、それに利用できるものは利用するべきであるという事を理解していた。
「そちらに増援は派遣できないのかね」
と、趙が待っていた言葉を呉は口に出した。
「欺小司馬の率いる第二騎兵旅団が適任かと」
という問答があった後に、第二騎兵旅団の残り半分が出撃し彼らは敵の意表を突くべく一度北上してからアランダスへと向かった。ちなみに、大撥帝国軍と後のアランダス連邦の公式記録ではこの時に初めて欺が出撃したことになっている。しかしながら、戦後に当時の第二騎兵旅団に属し「湖豊挺身隊」の指揮官を務めた湖豊が、取材に来た記者に対して先述の内容のことを語ったことからこのことが発覚した。その頃には既に欺界瞬も趙炎もこの世にはいなかったから、本人たちに直接真偽を確かめることはできなかったが、多くのアランダス人と第二騎兵旅団の生き残りに対する調査の結果、凡そ真実であるとされる。近年では、西南街道から当時の年代の物と思われる大撥帝国軍の軍馬の足跡も見つかった。
大陸両岸大戦記 OSOBA @poriesuten5
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