オルタナティブ・レイヤー

果無 可惟 Haténashi Kai

チャプター 1

1 - 1

 2019年4月


 私の目の前に引き裂かれた家具がばら撒かれている。

 その中心には、一人の若い男が横たわっている。

 男の四肢は不規則に屈曲と伸展を繰り返すが、それは生理学的な、神経と筋肉を構成する物質同士の反応にすぎない。そこに意識的な活動はない。男に意識が戻ることはない。

 傍に年老いた男が立ち、倒れている男の顔を覗き込む。十秒前にはまだ暴れ回っていたその男が、もう二度と起き上がることがない、不可逆的な状態にあるということをまだ理解できていない。

 起きろ、と老人が男に呼びかける。起きろ、私を守ってくれ。

 生きていれば男は言うことを聞いただろうが、男は生きてはいない。


 男の身体が振動し変形し始める。今度は神経と筋肉の作用では起こり得ない挙動だ。破損した動画ファイルを無理やり再生したかのように、不安定に震えながらおよそ生物が行わないような動きを見せる。存在を捉えられることを拒むような動き。

 破壊し尽くされた部屋の、他の全てが物理法則に従って床で静止している中、男の身体のみが不自然に形を変え続ける。


 そして男の身体が存在する場所から空間が歪み始める。平面で例えるなら油の膜が水面に広がるように、その歪みは部屋全体を満たす。

 老人は歪んだ空間の中で肉体の連続性を失い瞬時に絶命する。


 私は部屋を飛び出す。空間の歪みが迫ってくるのを首筋に感じる。それに飲み込まれないように、全力疾走する。


 歪んだ空間は建物全体を包み込むと、その膨張を停止する。

 私は背後を振り向く。そこに建物があって、窓があって、入り口の扉の奥に内装があることは理屈ではわかるのに、認識しようとすると歪み、ぶれ、ぼやける。右目と左目で、別々の次元の世界を同時に認識しているようだ。

 それは異なる時空同士が重なり合う〈境界〉の空間として私の眼前にある。


 やがて建物を覆う異常な空間は縮小していく。異なる時空同士が遠ざかり、重なり影響を及ぼし合う領域が消滅していくことで、空間は本来の姿を取り戻していく。


 異常な空間の中に取り残された人たちは、その全身を得体の知れない力によって無理やり変形させられながら死んでいく。一人残らず。

 中空に釘付けにされて痙攣している男がいる。その震える手足は一つ一つ胴体を離れ、やがて靄のように散っていく。異変に巻き込まれた瞬間に頭部と胴体を分離して配置された別の男は、まだ意識を保っている。ぎりぎり機能する目を剥いて、崩壊していく自分の身体を見ている。

 その中の一人、少年と目が合う。複雑に捻られた身体をシュレッダーにかけられるように刻まれ苦痛と恐怖に表情を歪めている。


 私はその少年を知っている。空間が閉じる間際、声なき叫びを聞く。


 逃げろ、と。




 そこで神前こうさき亜由美は目を覚ます。

 この夜で何度目の覚醒だろうか。いつもと同じくらいの回数だとは思う。

 心臓が早鐘のように打っているのを感じる。汗が全身をつたう。

 理性ではそれは夢だとわかっていた。しかし身体はそれが現実であるかのように反応していた。そして感情も身体の反応に引き摺られて乱され、不穏な色合いを帯びる。恐怖。喪失。後悔。

 ベッドに横になったまま、深呼吸を繰り返す。ゆっくりと息を吸い、さらにゆっくりと息を吐く。焦る心臓に外の空気を吸わせてやるように、息を吸う。臨戦体制にある全身の筋肉の構えを解いてやりながら、息を吐く。

 少しずつ現実が戻ってくる。あれは夢だという実感が湧く。今のは夢だった。


 部屋を薄明かりが満たす。目を擦りiPhoneで時間を確認する。朝の5時だ。寝直そうかとも思ったが、この時間からもう一眠りしようとして成功した試しがなかった。

 布団から出て、ストレッチや軽い筋トレをしたり、教科書を読んだり、ヘッドフォンをつけて電子ピアノを弾いたりして時間を潰す。7時頃から朝食をとり、身支度を整え、家を出て大学に向かう。

 亜由美の家は下北沢駅周辺のワンルームマンションで、去年の4月に東京大学理科三類に入学したときから住んでいる。2年生まで授業がある駒場キャンパスは、頑張れば歩いてでも通える距離にある。2年の冬学期以降は、少し離れた本郷キャンパスで医学部の授業を受けることになるが、電車のアクセスは比較的良いので、当面は今の家から通おうと考えている。通学が煩わしくなれば、その時に引っ越しを考えればいい。



「神前さん、ちょっといい?」

 授業の合間に、佐山に声をかけられた。彼は亜由美と同じ理科三類で、クラスも同じだ。ついでに同じ塾で講師のアルバイトもしている。

 理科三類は私立の名門高校から進学してくる学生が多く、そういう人たちは大学に入る前から高校や塾で知り合い同士であることが多い。大学入学してすぐの頃は、そういう面子でグループができていて、公立高校出身の亜由美としては割と溶け込みにくく感じていた。東北の高校から進学してきた佐山も、同じように顔見知りのいない状態からのスタートだったので、何となく絡む機会が多かった。

「今度の土曜日、ゴールデンウィークの初日なんだけど、予定ある?」佐山が尋ねる。

「夕方から飲食のバイトが入ってる。何で?」

「実はさ、その日の午前の授業なんだけど、外せない用事ができて……代講してもらえると助かるんだけど」

「それなら大丈夫、やっとくよ」

「ありがと、マジで助かる……」

「いいよいいよ、こっちも頼むかもしらんし」

 佐山は医学部生を中心に構成されたテニス部、いわゆる鉄門テニス部に所属している。先輩との繋がりも多く、期末試験の過去問を収集する能力が高いので、亜由美はよくお世話になっていた。彼の頼みなら、聞ける範囲で聞いてあげるつもりだった。それに代講はさほど準備が必要ない。2人とも高校1年の英語担当で、同じ教材を使っているので、同じ内容の授業をもう一回やるだけで済むのだ。

「そうだ、連休明けに飲み会しようって話になってるんだけど、来ない?」

「あ、行きたい。日程とかまた教えてよ」

 入学してから、佐山はサークル活動や文化祭などを通じて着実にクラスに浸透していった一方、亜由美は特に部活に精を出すこともなく(ジャズ研のセッションでたまにピアノを弾くくらいか)、2年生になっても馴染み切ってない感じがあるが、こうして誘ってもらうときは極力参加するようにしていた。


 授業が終わってから、亜由美は大学病院に向かう。今日は精神神経科を受診する日だ。

 主治医の松宮が亜由美を呼び出し、診察室に招き入れる。

「こんにちは。調子はどうですか?」

「はい、別に変わったことはないです」

 お決まりのやりとりだ。

「夜は眠れてますか?」

「そうですね……」

 亜由美は悪夢のことは松宮に話していない。

「睡眠が浅いときはありますけど、前よりは眠れてます」

「途中で目が覚めたり、明け方に目が覚めてそこから眠れないことは?」

「たまーに、あるくらいです」

 本当はもっと頻繁にあるが、つい過少申告してしまう。

 松宮は電子カルテに記載しながらも、患者とアイコンタクトを取るのを忘れない。白衣の下は白のオックスフォードシャツにベージュのチノパンという出で立ちだった。縁の細い丸い眼鏡をかけていて、どことなく医者というよりは小説家か何かにみえる風貌だ。

「眠剤は要りますか?」

「前にもらった頓服がまだ残ってるので、今日は大丈夫です」

 東京に来る前から不眠、抑うつ(亜由美自身はさほど感じてはいなかったが)に対していろいろな種類の薬――睡眠薬、抗うつ薬、抗精神病薬も――を処方されたが、結局どれを飲んでも眠りの質もよく見る悪夢も大して改善しなかった。

 進学して上京する際、亜由美としてはどこに紹介してもらっても良かったのだが、当時の主治医の判断で東大病院に紹介され――実は重症だと思われてたのか、それとも「東大に行くんだし東大病院にしようか」くらいのノリだったのか――それで松宮医師の外来に通い始めた。

 最初の診察の時、松宮は薬に関して亜由美の意見を聞いた。亜由美としては有っても無くても変わらない薬なら無い方が良いと思っていたので、それを伝えた。それからは主治医と話し合いながら少しずつ薬は減らし、今は最小限の頓服のみにしてもらうようになった。

 上京するまで知らなかったのだが――調べれば済む話なのだが、亜由美はそれをしなかった――普段通う駒場キャンパスと東大病院ではエリアが異なり、移動には少し時間がかかる。でも、初診時の対応に信頼が持てたので、松宮の外来通院を継続している。

 今のところ、睡眠はすっきりはしないが、日中の活動に差し障りもないし、眠れてはいるのだろうと思う。夢のことも、受け入れてやっていくしかない。

「ゴールデンウィークはどうするんですか?」

 カルテを操作しながら、松宮は近況について尋ねる。

「実家に帰ります。あとはバイトしたりですね」

「神前さん、実家は京都でしたっけ?」

「そうです」

「京都良いですよね。前行ったのはいつだったかな……」

 二言三言言葉を交わして、診察室を後にする。


 その日は塾講師のバイトだった。

 授業の始まる30分前くらいに出勤して、ロッカールームでスーツに着替える。プリント類を印刷して、テキストを持ち、教室に入る。

 塾講師のバイトは収入面では良いのだが、こんなに楽しくない仕事もないと亜由美は思ってしまう。担当している学年は高校1年で、大学受験はまだ先だと思っている生徒が多いし、親に言われて通っているような子はやはりモチベーションも低い。やる気を出させるのが講師の仕事だ、と言われればそうなのだが、亜由美自身そこまでやる気のある講師ではなかった。それに、自分も座って人の話を聞くのが好きではなかったので、講義を退屈に感じる生徒の気持ちはよくわかってしまう。

 ただ、宿題をやってこない生徒に対しては、もったいないなと感じる。いくら授業に顔を出しても、自分で問題を解かなければ何も身につかないのに。せっかく親が高いお金を出して通わせてくれてるのだし、元を取るためにも宿題くらいはやれば良いのに、と思う。実際に生徒にそう言ったこともあるが、言ったことを少し後悔するくらい響かなかった。

 宿題をやる気を出させるのが講師の仕事だ、と言われればそうなのだが、以下略。


 アルバイトを終え帰宅してからは、亜由美自身の時間だ。

 入浴してから、作り置きしていたおかずと冷凍ご飯を温めて食べる。

 コーヒーで一服してから、勉強を始める。BGMはYoutubeで配信されているチルアウト系のラジオにする。バックグラウンドとしてはこれくらいが丁度いい。好きな音楽はジャズで、アート・ブレイキー、ビル・エヴァンス、ブラッド・メルドー、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントンなどなど幅広く聴くが、それらを流すとそっちに注意が向いてしまい、勉強に集中できなくなる。

 高校1年生に言えることは自分にも言えて、お金を払って大学にいるのだから元を取ったほうがいいと思っている。医師免許を手に入れるだけでも元は取れることになるのかもしれないが、せっかく良い環境にいるので、学べることは学びたい。

 まあ、元の取り方は人それぞれだし、どう過ごしても大学に払ったお金は戻ってこないのだから、やりたいことをやるのが良いのかもしれない。図書館に通い詰めるのも、部活に心血を注ぐのも、友人を増やしまくるのもあり。みんな好きに過ごせばいい。


 日付が変わって少ししたら、寝る時間だ。

 照明を落とし、ベッドに潜り込み、目を閉じる。

 亜由美の一日が終わる。


 いや、終わらない。

 1時間か2時間ほど寝ると、決まって目が覚めてしまう。嫌な夢は見るときと見ないときがある。

 上手くいくと再び眠りに落ちるが、目が冴えてしまうとどうしようもないので、ベッドから出て音楽を聴いたり、電子ピアノを弾いたりする。ピアノを弾いているときは気持ちが落ち着く。一人でジャズバラードのスタンダード曲を思いつくままに演奏しながら、眠くなるのを待つ。

 全く眠くなる気配がないときは、まだ暗いうちから当面の食事の作り置きを作ってしまう。亜由美は料理が好きで、食べるのも好きだ。おかずを作りながらつまみ食いをしていると、それが朝ごはん代わりになったりする。お酒も欲しいところだが……明け方に飲むのは自重する。


 そうしていると新しい一日が始まる。

 こんな感じで生活は続いてきたし、これからも続くのだろう。

 寝づらい以外は、ゆるく安定した生活。


 そんな予想とは裏腹に、亜由美の生活はある日からレールを外れていく。

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