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 2019年 4月27日


 その日はゴールデンウィークの初日だった。

 亜由美はいつものように明け方に目を覚ます。この夜は悪夢に苛まれることはなかった。

 全身のストレッチをした後、ゆっくりと指立て伏せをする。今は少し疲れる程度で止めておく。それから食事の準備をする。作り置きのカレイの煮付けと、味噌汁、冷凍の米を温めて、卵焼きを作る。平日の朝食はパンやシリアルで済ませることがほとんどだが、休日の朝食は和風にしたくなる。

 今日は午前中から佐山の代講で塾に行かないといけないが、平日よりは少し余裕を持って支度ができる。そう思って、食器を洗った後お茶を飲みながらまったりとしていると、一瞬で家から出ないといけない時間になる。

 今日は寒いらしいので、防寒インナーを装備する。それから細身のスウェットパンツとプルオーバーパーカーを着て、簡単に化粧し、ピアスとブレスレットをつけて、スニーカーを履いて家を出る。折り畳み傘も忘れない。


 佐山のクラスでの授業はスムーズに片付いた。塾のクラスは成績で分けられているが、佐山が担当するクラスの方が成績が良いので、質問しても的外れな答えが返ってくることが少ないし、心なしか授業を受ける態度も良い。佐山の教育の賜物か。私より教えるのに向いているんだろうと亜由美は思う。


 塾を出た亜由美は昼食をとり、街を歩いて時間を潰す。夕方頃に、もう一つのバイト先に行く。

 そこは渋谷駅から徒歩10分くらいのところにある、昼はカフェ、夜はダイニングバー営業をしている店だ。名前は《Footprints》という。

 木目とブラウンを基調としたシンプルな内装とインテリアは、照明と協調して、時間によってテイストの異なる空間を演出する。昼は爽やかで開放的な空間。夜は落ち着いた深みのある空間。写真を撮ってインスタグラムにアップする客も多い。

 タイムカードを押してから、店のロゴが入ったTシャツに着替え、髪をポニーテールにまとめ、腰にサロンエプロンを巻く。

 亜由美がこの店でバイトを始めて1年近くになる。少しずつ任されることが増えて、今では大体のことは自分で出来るようになった。注文を聞いたり会計したりするのは勿論、コーヒーも入れるし、カクテルなんかを作ったりもする。凝ったものはメニューにないが、食事も作る。お酒と一緒に楽しむおつまみから、ちょっとしたディナーセットまで提供できる。お客さんと喋るし、お酒を奢ってもらっちゃうこともある。

 この仕事は楽しい。料理を作るのもお酒を作るのも(そして飲むのも)好きだし、色々なバックグラウンドの客から話を聞くのは大好きだ。自分が話すよりも他人の話を引き出す方が楽しい。ときには面倒臭い人も現れるが、対応する術も習得中だ。変な学歴イジり(亜由美は聞かれたときは東大生だと正直に答えるようにしている)への切り返しや、変なマウンティングに対するエスケープ――相手につけ上がらせず、かつ感情を逆撫でせずにやるのが重要だ――も各種揃えている。


 亜由美がシフトに入って1時間ほど経った。そろそろ、夕食や夕食前の軽い一杯を目当てにした客が入ってくる頃だ。

 店のドアが開き、付けてあったベルが鳴る。

 二人の若い女性が入ってくる。一人はキャラメル色の肌をしていて、鎖骨にかかるくらいの優美なカーリーヘアにウェリントン型の眼鏡。もう一人は澄んだ肌色に艶のある黒髪ショートヘアで、顔立ちは東アジア系の血が入っているようだ。二人とも目鼻立ちが整っていて、背が高かった。身長が170センチある亜由美は日本人女性の中では背が高い方だが、カーリーヘアの子は大体亜由美と同じくらいで、ショートヘアの子はそれより高く175センチくらいあった。

 二人は英語で話しながら入ってきたので、それに合わせて亜由美も英語でカウンター席に案内し、おしぼりとメニューを渡す。メニューには日本語と英語の両方が書かれている。

「ねえ、これにしようか」

 ショートヘアの子がおどけて指差したのは、コロナリータ――フローズンマルガリータのグラスにコロナビールをぶっ刺したカクテルだった。

「ダメに決まってるでしょ」カーリーヘアの子が苦笑して答える。「法律を犯すことになる」

「お酒を頼むときは、身分を証明するものが必要です。パスポートとか、学生証とか」

 亜由美が二人に英語で声をかける。

「いや、今のは冗談だから」ショートヘアの子が笑って応じる。「私たちティーンエイジャーなんです」

 この時間に十代の子が来るのは珍しいな、と亜由美は思う。夕方くらいまでは、高校生の子たちがカフェとして利用しにくることは結構あるけど。まあ、ディナーメニューを書いた看板も出してるから、ふらっと晩ご飯を食べに入ってきてもおかしくはないか。

「心配しないで、ノンアルコールの美味しいカクテルも作れるから。メニューに書いてないやつでも、材料があれば作ってあげる」

 亜由美は二人に営業トークをかける。好みを聞いた上で、ショートヘアの子には宮崎産のマンゴーを使ったヴァージン・モヒートを、カーリーヘアの子には沖縄産のピーチパインを使ったレッド・ソンブレロを作ってあげることになった。

 それから二人はディナーの注文をした。亜由美はフードのオーダーを厨房にいる店長に伝えた。店長が料理し、亜由美がカウンターで接客する、チームプレーだ。店長や他のスタッフが接客をするときは亜由美が厨房に立つし、その辺は臨機応変にやることになっていた。

 カクテルを作り始める前に、亜由美は二人に自己紹介をし、名前を尋ねた。ショートヘアの子はサラと、カーリーヘアの子はハンナと名乗った。

「二人は友達?」飲み物を準備しながらサラとハンナに聞く。

「いえ、姉妹です」サラが微笑んで答える。

「そうなんだ」二人の血が繋がっていそうには見えなかったが、事情があるのかもしれないし、亜由美は深入りせずに答えを返す。「長く一緒にいると自然と振る舞いとかが似てくるっていうけど、確かにあなた達二人は似ているね」

 二人は顔を見合わせて照れるように笑う。二人ともよく笑うな、と亜由美は思う。

 ノンアルコールカクテルを提供すると、二人はスマートフォンで写真を撮ってから乾杯をして飲み始める。飲み物を交換して味の比べっこをする。両方とも気に入ってもらえたみたいだ。

 他の客の対応を間に挟みながら、亜由美はサラとハンナと話した。二人は両親の仕事の都合で一月ほど前に来日したとのことだった。学校はインターナショナルスクールに通っていて、放課後や休日、親が仕事や付き合いで忙しいときは、こうして姉妹で観光や外食を楽しむことがあるのだそうだ。

「英語が上手ですね」ハンナが亜由美に言う。「どこで勉強したんですか?」

 よっしゃ、と心の中でガッツポーズを取りたくなるのを亜由美は抑える。十代の子のお世辞を真に受けてどうする。本当に自然な英語に聞こえるならわざわざそんなこと言わないだろう。ネイティブに比べたら自分の英語なんか鼻くそだ。

「日本で勉強した。海外に行ったことはないよ」亜由美は答える。「英語は独学でやってた。洋画を観たりとかもしたかな。それから、留学生とか海外から来た人と話したり。京都に住んでた頃は合気道やってたんだけど、その時も海外から練習に来た方と英語で話したりはしてた」

 実際、この程度まで話せるようになるだけでも亜由美には一苦労だった。英語は好きだが、それでもスピーキングの練習などしていると、自分の語学力の低さが悔しくて情けなくて、何度も発狂するかと思ったし、何度も泣きたくなった。今でもそれは変わらない。

 話題は京都について、武術について(サラは空手とムエタイを習っていた時期があったらしい)などに移っていった。

 二人が食べ終わって店を出るまで、会話は断続的に続いた。


 二人が帰ってから、店長の黒木康平が亜由美に声をかける。

「すごい喋ってたな。どんな話してたの?」

「なんか色々雑談してましたね。めっちゃ疲れました」

 亜由美は簡単に雑談の内容を話した。

「へえ、姉妹だったの」

「わかんないですけどね。どっちかが養子かもしれないし、両親が再婚したのかもしれないし、ふざけて言ったのかもしれないし、それか盃を交わしたとか?」

「いや、ヤクザじゃねえんだから」康平は下らない冗談に笑う。「しかし亜由美は英語そんなに喋れてすごいよな」

「康平さんも喋れるじゃないですか」

「オーダー聞いたりメニューの説明したり、好きな映画の名前を言い合うくらいだけどな。あとは翻訳のアプリとかでどうにかなる」

「全然すごいですよ。あ、さっきの子らフルーツ多めに使ったんで、お会計も多めにしときました」

「よくやった」康平は眉を上げてにやりと笑う。



 サラ・アーヴィンとハンナ・アーヴィンはさっきの店の領収書を眺め、円からドルに計算する。

「結構食べたり飲んだりしたのに、これくらいなんだね」サラが言う。

「物価が安いんじゃないかな」ハンナが答える。「美味しかったし、また行ってもいいかも」

「賛成」サラは笑う。「あのバーテンダーも良い感じの人だったよね。また会えるかな?」

 サラはこの日の夜に、亜由美と再会することになる。予想もつかないような形で。

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