第六の大絶滅
与太売人
第六の大絶滅
鬱蒼とした森林の中にぽっかりと空いたギャップ。光の膜によって仕切られた空間に足を踏み入れると、その中央には私の背丈ほどに隆起した岩塊、”石板”があった。石板はその表面に一定の規則で凹凸のパターンがみられる岩塊であり、人間がその表面をなぞると本能的に地球からのメッセージが想起される。
我々の住む地球は深部の鉄の対流によって発生した電流が地殻の金属と珪素の鉱脈からなる回路を流れる構造をもつ知性天体であり、意思を持ち思考する惑星だ。地球は石板を通じて様々な啓示を人類に与えてきた。石器の作り方や火の起こし方に始まり、大陸の外に広大な新天地が広がっていること、農業による安定した食料生産の方法、有用な金属の精錬法、電気エネルギーの生み出し方、使い方にいたるまで。現在の人類の文明は石板を通じてもたらされた地球の智慧の賜物であり、石板は人類が地球に選ばれた特別な生物だということを示す確かな証拠なのだ。
眼前の石板は私の好奇心を刺激したが、私は触れなかった。第一に啓示省の許可なく石板に触れることは犯罪であり、第二にこの石板はすでに研究しつくされており、第三に私の専攻は地球考古学ではなく植物学だからだ。ここにきた目的は石板ではなく、その周辺に生えている植物の調査だ。私は石板の周辺の植生の分布を写真に残し、生えている植物を分類しながら採集し始めた。石板の周辺には独特な植生がみられることが知られている。石板の周辺は極度の貧栄養土壌となっているため植物の生育には適さず、高木が分布できない。そのため森林の中に石板が隆起すると、そこは周囲の森林よりも明るい空間、ギャップとなる。この森林は石板多発区域に指定されており、石板由来のギャップが点在している。石板の周辺は過酷な環境だが、少数ながらそこに適応した植物がいる。彼らは一般的な植物が生育できない石板の周辺の土壌で生育できる反面、森林の中では他の植物との競争に負けてしまう。そのため、石板周辺のギャップは彼らにとって唯一子孫を残せる場所であり、ここでは周囲の森林とは全く異なる植生がみられる。このような環境による住み分けとそこから生み出される植生の多様性こそが、植物学の魅力の一つだ。
石板の周辺で作業をしながら、私は少年時代を思い出していた。私が植物学の道を志すきっかけになったのは、私が生まれた日に発見された、とある石板であった。その石板は”使命の石板”と呼ばれており、これまでに発見されていた他の石板とは異なり、人類にとって有用な智慧ではなく、人類の使命が記されていた。曰く、『人類の使命とは地球上のすべての生物を護ることであり、人類がこの使命を果たさなければ地球は人類を滅ぼす』という。幼い私は、この石板に自分の使命を感じた。それと同時に使命を果たそうとせず、生態系を破壊し続ける人類の驕り、身勝手さへの怒りを感じた。人類は出現以来、数多くの生物を絶滅に追い込んできた。現代は過去五回の大量絶滅に続く第六の大絶滅が人類によって引き起こされている時代であるという説もあるほどだ。そして私は地球と生態系と人類を護るための道として植物学の分野を志した。
大学院を卒業した私は、当時人手不足で募集を拡大していた国際機関”種の貯蔵庫”に就職した。種の貯蔵庫は地球上のあらゆる生物の遺伝情報を保管することを目的とした機関であり、私はこの機関こそが地球と人類を護るという自分の理想を叶えられる場所だと思っていた。しかし、現実は違った。就職して知ったことだが、種の貯蔵庫は人類が地球から見限られる未来に備えて進められている地球脱出計画の一部であった。私が最も許せなかったことは、植物の採集における組織の方針が生育地の保護を蔑ろにしていることだった。多くの植物を採集した研究員ほど評価され、過剰な採集のために生育地が荒らされていることを上層部は問題視しなかった。そのような組織の風土を目にするうちに、私は次第に上層部のことが宇宙人に見えるようになっていった。
組織の方針と食い違ったとしても、私の志は変わらなかった。生育地の保護のために植物の採集量は最小限にしていた。上司からの評価は下がり、同僚からは偽善者と揶揄された。世間では環境保護活動など所詮金持ちの道楽に過ぎないと批判されていた。使命の石板から始まった環境保護活動は、富める者が貧しき者をさらに搾取するためのプロパガンダだという陰謀論が蔓延っていた。それでも私は諦めなかった。テラフォーミングや組織内の評価や世間の風評などよりも、生態系を守り、人類に絶滅させられる生物を一種でも減らすことの方が私にとってずっと価値のあることだった。
黙々と作業を進めていると、日没が近づいてきた。作業を終えて荷物をまとめ、帰路につこうとしたところで、突然大きな揺れに襲われた。そして、揺れに続いて数本の木が倒れる音が聞こえてきた。初期微動のない揺れ、倒木、石板多発区域。私は一つの期待を胸に秘めて音のした方角へ向かった。森の中をしばらく進むと、私が期待した通りのものが見つかった。放射状に倒れた数本の木に囲まれた、人間の背丈ほどの岩塊。それは間違いなく、たった今隆起したばかりの石板であった。
私は、眼前に現れた奇跡から目が離せなかった。隆起したばかりの石板に初めて触れる人類となり、地球からの啓示を最初に受け取る預言者になれる千載一遇のチャンスを前に、辺りには誰もいない森林の中で、啓示省の許可のことなど頭の中から消えていた。私は隆起したばかりの石板に触れるとゆっくりとその表面をなぞり始めた。脳内にメッセージが流れ込んできた。私にはその意味が分かった。しかし、理由は分からなかった。意味が分かるからこそ理由が分からなかった。なぜこんなものが石板に刻まれているのか、誰かの質の悪いいたずらか、いや、現在の技術では人工的に石板を作ることなどできない、しかし、それならば、この石板には何の意味があって…。
「動くな!!」
突如として石板が光に照らされた。湧き上がるメッセージに夢中で人の気配に気が付かなかった。
「手を上げて。ゆっくりとこちらを向け。」
指示に従って振り返ると、二つの懐中電灯が私を照らしていた。
「無許可石板接触の現行犯で逮捕する。」
二人の男の腕には、啓示省の赤い腕章が巻かれていた。
「起きろ、到着だ。」
山中での作業と、色々なことがあって疲れていたのか、私は護送車の中で眠ってしまっていた。目を覚まして車の外へ連れ出されると、あたりは夜が明け始めていて、目の前には啓示省の本部ビルがそびえたっていた。どうやら首都まで連れてこられたらしい。私はビルの上層階にある取調室まで連行された。読み取った石板の内容や森にいた目的、自分の身元等について洗いざらい質問され、私はそれらに嘘も隠し事もせずに答えた。その後、省内のシャワーを浴びる許可が与えられた。私はシャワーを浴びながら、前日に読み取った石板の内容を頭の中で反芻したが、納得できる答えは何一つ思い浮かばなかった。
しばらく取調室で待たされた後に、一人の女性が部屋に入ってきて、私の対面に座った。
「初めまして。私は啓示省機密保護局の局長です。あなたの経歴を読ませていただきました。希少な植物の保全の研究で博士号を取得し、種の貯蔵庫の研究員になった。昨日は植物の採集のために石板多発区域に立ち入っていた、と。」
「私はどれだけの罪になるのですか。いつここから出られるのですか。私が触れた石板にはなぜあんなことが書かれていたのですか。」
「一つずつ回答しましょう。まず無許可石板接触の罪は、啓示省機密保護局に裁量がゆだねられています。つまり、あなたの処遇も私の一存で決められるということです。」
啓示省には他の省庁ではありえないほどの特権が与えられるとは聞いていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
「あなたが石板に接触してしまったことは、我々にとって偶発的な事故のようなものでした。石板が新たに出現した際には、啓示省所属のレンジャーがすぐに現場に向かって一般人の立ち入りを規制しますし、たとえ一般人に先を越されたとしても近年見つかる石板は技術的に高度な内容であることが多いため、専門家でなければその内容を理解できないのです。通常の接触事案は、接触者が内容を理解できていないことを確認して、偽の内容を伝えてしまえば済みます。しかし、あなたは違う。あなたはあの石板の内容をはっきりと理解できてしまいました。あなたにとっても運が悪かったとは思いますが、重大な秘密に触れてしまった以上、あなたを返すわけにはいきません。地球、あるいは人類が滅びるまで。」
思わず息をのんだ。
「私は死ぬまでここから出られないということですか。」
「取引をしましょう。あなたがそれに応じるのであれば、私の権限であなたをここから出すことも、先ほどの三つ目の質問に答えることもできます。もちろん秘密は守っていただきますが。」
「その条件とは。」
「あなたに”方舟”の搭乗員になっていただきたいのです。」
「方舟?」
「種の貯蔵庫が実際には地球離脱を視野に入れたプロジェクトであることは、研究員のあなたであればご存じですね。実は、地球からの一次離脱のために方舟という名前の宇宙船の建造が秘密裏に進められており、あなたにはその搭乗員になっていただきたいのです。」
「お断りします。私は石板の使命に従い、地球を守るために今の道を志したものです。たとえ囚われの身だったとしても、私は地球の上で死にたい。」
「意思は固いようですね。それでは、三つ目の質問の答えにもなる地球と石板に関する秘密をお話ししましょう。」
部屋の隅で私の監視や証言の記録に徹していた職員たちに動揺が見られた。
「お言葉ですが局長、それは我々の最重要機密です。犯罪者に教えて良いものではありません。」
「私の権限をもって伝えます。どのみち提案に同意しない限り彼をここから出すつもりはないのですから、これ以上の秘密を伝えることに問題はないでしょう。最も、この秘密を伝えれば、彼からは良い返事が期待できると私は信じておりますが。」
「勿体ぶらずに教えてください。先ほどから仰っている重大な秘密とは何なのですか。なぜ私が読んだ石板には、あらゆる植物に感染する致死性のウイルスの構造と遺伝情報が書かれていたのですか。あんなものが広まったら、世界中の生態系が崩壊してしまう。」
「あなたは先ほど、使命の石板について口にしましたね、その内容を覚えていますか。」
「もちろんです、『人類の使命とは地球上のすべての生物を護ることであり、人類がこの使命を果たさなければ地球は人類を滅ぼす』と。」
「そうですね、表向きに公表されている内容はその通りです。ただし実際の内容はそれとは一語だけ異なります。実際の内容はこうです。『人類の使命とは地球上のすべての生物を”滅ぼす”ことであり、人類がこの使命を果たさなければ地球は人類を滅ぼす。』」
「え、では、それでは…嘘だ、いや…」
視界から色彩が消えていき、これまで自分が信じてきたものが崩れ始めた。
「思い出してください、石板から与えられた知識を使って、我々の祖先が他の生物達に何をしてきたか。」
これまで信じてきたものとは正反対の真実が、自分が経験してきた違和感を根拠にして組みあがっていった。
「知性天体地球にとって地表に生きる生物たちはさながら頭皮に住む虱のようなものであり、彼女はシアノバクテリアが引き起こした大酸化イベント以来、生物の根絶を望んでいました。彼女は火山噴火や地形の変動など、様々な手段で生物の駆除を試みますが、いずれも根絶には至りませんでした。そこで彼女は生物自身の手で生物を根絶させるという手段を考案しました。その実行役に選ばれたのが、我々の祖先、当時アフリカ大陸の片隅でニ足歩行を始めた類人猿の一種でした。彼女は我々の祖先に石板を通じて様々な智慧を与えました。人類は地球の期待以上のはたらきを見せ、数々の生物を絶滅に追いやっていきました。人類による生物の絶滅は時代を経て加速度的に進んでいきましたが、次第に人類の中で生態系保護の考え方が生まれてきました。そこで地球は人類に本来の使命を気づかせるために使命の石板を隆起させました。」
「使命の石板が発見されると、その内容が一般には伏せられたまま、国際的な会談が行われ、人類の行く末が協議されました。会談で各国は、石板の使命に従って生物の根絶を目指すべきだという根絶派と、地球と対立してでも生態系を守るべきだという保護派に分かれ、真っ向から対立しました。根絶派の主張は、地球の大いなる力の前に人類は無力であり、創造主の意思に逆らうべきではないというものでした。対する保護派は、人類も生物たちの一員であるために、他の生物を根絶した後の人類を地球が滅ぼそうとすることは明白であり、人類が”狡兎死して走狗烹らる”の結末を避けるためには地球と戦わなければならないと主張しました。1ヶ月にもおよぶ論戦の末、人類は団結して地球に立ち向かうことを決定しました。」
「そこで決定された人類の対地球基本戦略は3重の情報工作からなるものでした。まず第一に世間の混乱を避けるために、石板に記された人類の使命を生物を護ることとして発表しました。第二に対地球の情報工作として、あえて地球が知覚しやすい位置で陰謀組織の真似事をすることで、環境保護政策は貧富の差から生まれる分断を煽る策略であり、生物を根絶するための世界大戦を起こす布石であると地球に信じ込ませました。あなたが所属している種の貯蔵庫もこの第二段階の情報工作に関わっており、機関の活動は希少な生物を採りつくすためのものであると地球に信じ込ませようとしてきました。そして第三に、地球から知覚されない位置、ビルの高層階や衛星軌道上では、人類の真の作戦、地球を殺すための作戦の準備が進められています。この3重の情報工作は極めて不安定な綱渡りであり、些細なきっかけにより人類が疑われて地球からの先制攻撃を受けると我々の作戦は瓦解してしまいます。そのため、作戦の準備が整い次第、そう遠くない未来に人類は地球に対し先制攻撃を仕掛けます。方舟は開戦前に地球から飛び立ち、衛星軌道を周回します。その後、人類と地球の戦争が終結した後に再び地球に着陸し、文明と生態系を再建します。あなたには方舟の搭乗員になり植物の研究者として食料生産と生態系の再建に携わっていただきたいのですが、いかがでしょうか?」
局長が語った、怒涛のような情報を噛みしめる。納得はできないが、少しずつ理解はできてきた。
「人生を二分する決断です。無理にとは言いませんし、判断を急がせることもしたくありません。ゆっくりと考えてください。良いお返事を期待しております。」
話し終えると、局長は退出した。私は監視に連れられて庁内の独房へ向かい、朝食が与えられた。昨日の昼から何も食べていないことを思い出した私は、20時間ぶりの食事に食らいついた。
私は今まで、地球を守ることと生態系を守ることと人類を守ることは同義だと考えていた。しかし、実際にはそれらは同義ではなかった。地球と生態系は対立しており、人類は少数で行った決めごとによって地球の側から生態系の側へと寝返っていた。真実を知ったからといって、私には人類の行く末を左右する力も権限もなかった。私自身に人類と地球の戦いに加わる覚悟があるか、それが問題だった。局長の話から、人類の未来のためには地球と戦わなければならないことは理解できた。しかし、人類の発展が石板を通じて伝わった地球の智慧の賜物であることは確かだ。人類の創造主ともいえる存在に刃を向ける者たちに協力する覚悟が、私には持てなかった。そんな計画に加わるくらいなら、このまま独房の中で滅亡の日を待つのも悪くないと思った。
朝食のトーストには蜂蜜が塗られていた。ミツバチと虫媒花は美しい共生関係で結ばれている。ふと、この関係性が今の私にゆだねられている決断のヒントになるような気がした。ミツバチが花を訪れるのは、植物の受粉のためではなく、蜜と花粉を食糧にするためだ。植物が花に蜜を貯めるのは、ミツバチのコロニーのためではなく種子をつけるためだ。あらゆる生物は身勝手に生きている。ゆえに、人類が身勝手に他の生物を利用したとしても、程度を間違えなければ、それは自然の営みの一部となるのではないか。そう考えると、以前の私の考えの方が傲慢だったのではないか。ヒトは何も特別な生物ではない。チキュウという生物と一時的な共生関係にあっただけの、ただの動物に過ぎない。そして、共生関係にある生物の一方が、他方の利益にならない存在となった場合、共生が寄生その他の関係に変わることも、生物の歴史の中ではありふれている、数えきれないほど起きてきたことだ。あるいはその反対のことも...。頭の中で一筋の光が閃き、その場で監視に声をかけた。
「局長に伝えてください。先ほどの話、謹んでお受けいたします、と。」
私は、人類のために生きる決意を固めた。
それからの地球での日々は、ただひたすらに方舟の任務を遂行するための準備に費やされた。発射時の加速度とそれに続く無重力に耐える訓練。閉鎖環境の中で正気を保ち、様々な国籍の搭乗員たちと不和を起こさずに任務を行うための訓練。文明が崩壊した地球で拠点を作り、そこで生き延びながら文明の再建を行うための訓練。そして、我々の任務における”切り札”の準備。訓練は辛く、苦しいものであったが、私は一度も自分の選択を後悔しなかった。
ある日、アメリカ、イエローストーン国立公園で石板が出現した。石板には人類が生物の根絶計画を進めていることを疑問視するような内容が記されていた。そして石板の出現以降、イエローストーンでは断続的に小規模な地震が観測されるようになった。人類はこれを地球からの最後通牒であると判断し、方舟の発艦を決断した。
私は10万余種の生物の種子、胚、遺伝情報と528名の搭乗員とともに訓練通りに地球を飛び立った。方舟には窓がないために直接地球の姿を見ることはできず、地球の状況を知るには司令部からの情報が頼りだった。司令部によると、方舟の発艦後、各国政府は核による世界大戦が間もなく始まると発表して虚偽の非常事態宣言を発令し、国民をシェルターの中に避難させ、核汚染の時代を生き延びるためと称して、彼らに冷凍睡眠の処置を施した。避難の終了後、人類と地球との全面戦争が始まった。冷凍睡眠せずに残った対地球軍は、陸では発電所の地下に、海では大陸間鉄道の海底トンネルに、用途を偽って建設していた1000箇所以上の信号発生設備から地球の思考回路の電気信号に偽装した信号を発生させ、地球に対してハッキングを仕掛けた。地球は人類からの攻撃を察知すると信号発生設備の破壊を試みたが、思考の統制が採れず、無秩序な火山活動により自らの思考回路を破壊していった。地球は薄れゆく思考の中で半狂乱になりながら火を噴き続けた。大陸は赤くひび割れ、火山灰と森林火災の煙が地表を覆った。
開戦前に人類に与えられていた猶予を考えると、地球の全人口が避難できるだけの設備が整えられているとは思えなかった。火山活動がシェルターとそれを維持するための設備を避けているとも思えなかった。ましてやヒト以外の生物がこの戦争に備えているはずもなかった。厚く立ち込める灰と煙の下で、どれだけの人々が、動植物が、炎と飢えと渇きによって死んでいったか、私は考えたくなかった。他の搭乗員たちも皆陰鬱な表情をしていた。方舟の人数制限のため、搭乗員は家族を地球に残してきていた。正気が保てなくなり、強制的に冷凍睡眠の処置を施される者もいた。私も戦争が終結するまでカプセルの中で眠っていられたらどれだけ楽だろうと思った。
しかし、私には遂行するべき使命があった。私を含めた植物学者のチームは方舟が地球に着陸した後に育てる作物を開発していた。戦争終結後の地球は火山灰によって太陽光は遮られ、土壌は覆いつくされていることが予想された。我々は、燃え盛る地表で無人観測機が収集したデータをもとに、終戦後の地球環境を予測し、その環境に合致した作物を作り出すことに心血を注いだ。時間も物資も足りない中での開発だったが、我々には切り札があった。かつて私が発見した石板に記されていたウイルスを無毒化したものだ。あらゆる植物に感染可能なウイルスは、あらゆる植物に遺伝子を組み込むための運び手にもなれた。我々はウイルスによる遺伝子の水平伝播を利用して、光が弱くても生長できる植物の遺伝子や貧栄養の土壌に適応した植物の遺伝子を作物に導入していった。ヒトという種が生き延びるために、長い歴史の中で生物たちが織り成してきた多様性も、それを滅ぼすために地球が示した啓示も、利用できるものは何でも利用した。
やがて、地球の思考回路は完全に自壊して沈黙した。最大の共生相手を失ったヒトは正真正銘ただの動物になった。人類の輝かしい勝利だったが、払った犠牲も大きかった。市民が避難したシェルターはそのほとんどが機能を停止しており、世界人口は戦争前の1000分の1以下になっていた。方舟は火山灰の影響が小さく水が豊富な地点に着陸し、文明の再建を開始した。戦火を免れた一部のシェルターの中で生き残った幸運な人々は、未だに虚構の核戦争の脅威におびえたまま眠りについていた。彼らのシェルターの機能が停止する前に、人口を維持できるだけの生産活動を復旧して彼らを覚醒させる必要があった。
人類が勝利しても、問題は山積みだった。生産活動の復旧もシェルターで眠る人々の覚醒も、予定通りに進むとは思えなかった。石板の啓示について真実が伏せられていたことや、無事なシェルターの地域的な偏りによる民族間の不和、限られた資源の奪い合いなどが人間同士の戦争に発展する可能性も考えられた。人類の未来は薔薇色とは言えなかったが、一つだけ確信できることがあった。たとえ人類が滅びても、生物はこの惑星がある限り生き続けるということだ。着陸後の調査によると、戦火を免れてわずかに地表に残っていた植生は徐々にその面積を拡大していた。彼らは人類のような備えがなくとも、この戦争を生き延びて新たな環境に適応してみせた。寄星生物たちは母なる星の死体の上にこれからも巣食い続けるであろう、いつかこの星が太陽に呑まれて融け落ちる日まで。
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