第2話 引きこもり国王の事情
エルナの一言に水を打ったような静けさが落とされた。
狼人間――それは、満月の夜に異形の狼となり人を襲うバケモノだ。
予想を超えた突飛な言葉に、詳細を知らず連れてきたタングリーもまた、呆気に取られた顔で、目を見開くオルリアを見つめるばかり。
だが、少なくとも彼が王位に就くまで――そう、今から十ヶ月ほど前までは、オルリアは普通の人間だった。月夜に庭で晩酌を共にしたことも、タングリーの記憶に新しい。
脳がエルナの言葉を理解しきれず、彼女の次の言葉を待つ。
しかし、先に動いたのは始終黙りこくっていたオルリアだ。
「!」
「貴様、どこでその情報を?」
ガタン、と大きな音を立て椅子をひっくり返したオルリアは、素早い仕草で目の前にいる彼女の首を掴むと、勢いのままに毛足の長いカーペットに組み伏せた。
後ろからタングリーの非難が聞こえるが、そんなものはどうでもいい。
今彼女が伝えた言葉は、彼にとっても受け入れがたい事実なのだ。
頭が真っ白になって、抵抗もしない少女をただただ睨みつける。彼の声音には、怒りよりも強い怯えが滲んでいた。
「……アイリスクォーツの導きよ」
「嘘を申せ。誰かがそれを知っているのであれば、早急な対処が必要だ。さあ申せ」
「嘘ではない。あの水晶は、特別だ。この世界に数多存在する
落ちくぼんだ瞳で射貫くように見つめ、オルリアはなおも彼女に迫る。
魔法も異形も、彼にとっては最低限の知識しか持たぬものなのだろう。
締め付ける大きな手に声を絞り出したエルナは、苦しげに前を見つめ抵抗する。
「風の精霊……!」
「!」
だがやがて限界を悟った彼女は、精霊たちに呼びかけた。
途端精霊は、見えない空気圧で二人の間に入り込み、オルリアを優しく
瞬く間の出来事に、再び静寂が訪れる。
「ゴホ、ゴホ……まったく、気の短い国王だ。私は事実を述べただけ。大丈夫。きみの症状は薬で緩和できる。
「……!」
「はぁ。無知とはかくも残念なものだな。少し待て」
すると、突然体験した魔法に驚くオルリアを見つめ、立ち上がったエルナは、軽く埃をはたくと、奥に向かって歩き出した。
椅子に戻されたオルリアは、止めに入ろうとしていたタングリーを見上げ、理解できないと目を瞬いている。
彼はこれが魔法だと言って非難を押し込んだけれど、やはり理解はできなくて。
「えーと、ああ、これと、これと、うーむ、あとこれもやるか……。おそらく彼は突然の事態に情緒不安定……だが、国政を放棄した愚か者にそこまでしてやる義理など……」
カーテンで仕切られた奥の部屋に出向き、ブツブツと言いながら、何かを手に取る彼女の声を漠然と聞く。
しばらくしてエルナは小瓶や布製の袋に入った何かを抱え、淡々と戻って来た。
締め付けられた首を赤くしながらも、彼女は気にしていない様子だ。
「多少は落ち着いたか、国王よ」
「……ああ」
「それは何より。では対処の話をしよう。まず、この薬を満月の約一週間前後に飲むといい。人狼の変身を抑制する薬だ。念のため、不安ならその時期は月の見えない部屋で過ごすこと。序でにエキナセアのお茶と、ラベンダーのポプリもつけてやる。代金は三シルベル銀貨だ」
丸薬の入った小瓶、お茶、ポプリを机にどさりと置き、エルナはオルリアの正気を確認すると、口を挟ませる隙もなく説明す。症状が分かった以上、詳しく聞かずとも適切な処置が分かるのだろう。
「……本当に効くのか」
だが、ごく一般的な風邪薬を処方するような口ぶりに、オルリアは不審を募らせた。
彼はこの症状で十ヶ月も苦しんできたのだ。信じられない、心がそう言っていた。
「作り方は間違っていないはずだよ。だが、根拠が欲しいなら幾つか文献を渡そう。もしくは実際に服用した者の実録集でもいい」
すると、揺らぐディープレッドの瞳を見返したエルナは、杖を振って幾つか本を差し出した。
本には様々なケースが記載されており、確かに信憑性は感じられてくる。
不意に肩の力が抜けて、オルリアはふっと息吐いた。
「……なるほど。もっと早く知るべきだったな」
そう語る彼の表情には先程までの剣呑さが消え、薄く笑みが見て取れる。
おそらくこれが、本来の国王オルリア・テイトブランクの姿なのだろう。丸薬が入った小瓶を手に取り、ようやく人らしい雰囲気に戻ったオルリアを見据え、エルナは小さく首肯した。
「国王にとって知らぬは罪だ。きみがもっと広い視野と勇気を持っていれば、国民を
「……」
ハッキリとした物言いに、不器用な優しさが滲む声。
新聞すら届かない辺境の地に情報が来ることはないものの、時折薬を売りに街へ出る度、ひどくなる治安と情勢に、想うことがあったのかもしれない。
不意に覗いた心に、オルリアの瞳が見開かれた。
「なぁ。俺だけ置いてきぼりなんだが。どっちか詳細を教えてくんねぇか……?」
一方、状況と症状と対処法を理解する二人を見つめ、タングリーがおずおずと切り出した。
オルリアを狼人間と呼び、その症状を緩和する薬を出したことはなんとなく理解できたものの、彼は普通の人間だったはずだ。何があってそうなり、薬にどんな効果があって、今後どうすべきなのか、彼には全く見えてこない。
序でに、蚊帳の外に追いやられた状況にふてくされて問うと、エルナは入り口扉を指差した。
「そんなもの、あとで国王殿に聞くといい。私の仕事は終わりだ。金を払って帰ってくれ」
「相変わらずだな、エルナ……」
「いいだろう。教える。娘もまだ
と、首を傾げるタングリーを一刀両断したエルナに、待ったをかけたのはオルリアだ。
彼はこれ見よがしに懐から金貨の入った小袋を取り出し、机に放り投げる。
じゃらりと重たい音が響き、まるで、鼠を見つけた猫のようにエルナの視線が輝いた。
「出発前に持たされた小遣いだ。二十コルドー程度だが、やるから大人しく聞くといい」
一般的な稼ぎの十ヶ月分をさらりと置き、幾分ぬるくなったカモミールティーに口をつけながら、オルリアはエルナを足止める。
彼女らが恐れることなく自分の症状を理解してくれるのなら、別に隠す意味はない。
そう思い見つめると、足元にいた愛猫を抱き上げたエルナは、迷った後で頷いた。
この
「……さて、娘が言うように、私は「狼人間」というものになったらしい。十ヶ月前の月夜、王宮の庭に現れた異形の狼に噛まれてな」
さりげなく小袋を引き寄せ、中身を数え始めたエルナを視界に入れながら、オルリアは語る。
事件は今から十ヶ月前の満月の夜に起きていた。
「えっ、それってまさか、お前の父上が何者かに殺されたあのときか!?」
「そうだ」
「お前も現場にいたと聞いていたが、なんで噛まれて……?」
「狼人間は通常、相手に噛みつくことで仲間を増やす生き物だ。吸血鬼同様、自らの血や唾液といった体液を移すことで、細胞その他に影響を与えているのだろう」
「え、何かやだなソレ……」
目を見開き突然の話に驚くタングリーの声に、エルナは金貨を眺めながら補足する。
王宮に異形の狼が現れるなど、どうにもきな臭くてたまらない。
顔を
「初めは私自身、何が起きたのか分からなかった。だが……」
定期的な周期でバケモノに変わる体と襲いかかる衝動。初めて感じる恐怖に、彼は閉じこもる選択をした。
王族として生まれこの方、怖いものなど何もない、そう思っていた自分を襲う恐怖と現実に彼は目を背けたのだ。
「朝昼晩、誰にも会わず、人目を避け、タングリーのようなお節介を追い出し、私は新国王の責務などひとつも全うせずにすべてを放棄した。あのような醜い異形など、誰にも見られたくはなかった。……結果、国民たちを蔑ろにした」
「フン、おかげできみの叔父や貴族たちはやりたい放題。中枢はやはりどこも醜いな」
「で、しびれを切らした俺が乗り込んだんだ! それでようやくここってわけさ」
話を聞いたエルナとタングリーはそれぞれに反応を見せ、一瞬間が開けられた。
すると、一呼吸吐いたオルリアは、視線をまっすぐにエルナへ向け、
「ああ。タングリーの働きには感謝している。やはり持つべきは、損得勘定なしにお節介を焼くような暑苦しい親友なのだろう。褒めて遣わす」
「オルリア、それ絶対褒めてない」
「して娘。お前の言葉通り、月夜に怯えず済むのなら、私は遅ればせながらも王としての役目を果たそうと思う。だが、この症状は毎月薬を飲まねば抑えられない。そうだな?」
確認を寄越すオルリアに、エルナはうんと首肯する。
だがなぜだろう。
意志を込めたディープレットの瞳に一抹の不安が疼いていて。
今さらだが、金貨につられてしまったことに腰が引けていると、椅子から立ち上がったオルリアは、回り込んで向かいに座る彼女の手をさらりと取った。
とてもまずい予感がする。
「ならば私にはお前が必要だ。エルナ、私の薬師になってくれ」
「……断る」
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炎帝姫は狼王の癒し係を拝命中 -断罪された魔女の娘は異端の王に甘く溶かされる- みんと @minta0310
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