うちの夫、愛想はないが愛はある

藍条森也

一章 夢が叶った!

 「おめでとう、今日香きょうかちゃん。来春から昇格よ」

 「本当ですか⁉」

 高橋たかはし今日香きょうかは喜びのあまり、叫んだ。顔いっぱいにお日さまのような笑顔が咲き誇り、夜中の住宅街で発しようものならまちがいなく、近所三軒両隣から『騒音公害だ!』として訴えられそうなレベルの叫びだった。

 「ええ」

 と、目の前で今日香きょうかの巨大音響攻撃を食らった社長はニッコリと微笑んだ。

 実際には今日香きょうかの声に鼓膜をやられて、こめかみの辺りに欠陥が浮きあがっているのだが、それを表に出さないおとなの対応。さすがである。

 「これであなたも一人前。来春からはイベントの企画から開催まで一貫して任せることになるからがんばってね」

 「はい!」

 今日香きょうかはまたも騒音公害レベルの音響兵器を爆発させ、社長のこめかみに浮きあがる血管を増やしたのだった。


 今日香きょうかは最寄りの駅を出ると息をはずませて駆けだした。

 あまりの勢いとこぼれるような笑顔に、すれちがう人が『なにがあったんだ?』といぶかしむ視線を向けるほど。

 しかし、今日香きょうかはそんなことは気にしない。というより、気付きもしない。

 そんなことはどうでもいい。いまはとにかく一刻も早く自宅アパートに帰って夫のつかさに報告したい。

 夫のつかさとは大学時代からの付き合い。お仕事マンガに出てくる数字の鬼的イケメンメガネで、そのイケメン振りとエリートっぽい雰囲気、実際に超優秀な成績で大学時代から女によくモテていた。ライバルも多かったのだがこのつかさ、性格に難があった。

 とにかく、愛想がない。

 本当にない。

 なさ過ぎる。

 万事において、とにかく事務的。おまけに、見た目通りの理屈っぽさ。それに耐えきれず、まわりの女たちかひとり減り、ふたり減りしていったなか、最後に残ったのが今日香きょうかなのだった。

 そして、大学を卒業してすぐに結婚。今日香きょうかは念願だったイベント会社に就職し、つかさもその風貌通りと言うべきか、大手ブランド企業に就職した。

 それから五年。ついに、ようやく、イベントすべてを任せてもらえる立場にまでのぼりつめた。

 ――やった、やった! ついに夢にまで見た立場になれたんだわ! これからはあたしの思い通りに自分の望むイベントを実現できる。絶対、やってやる。イベントマスターとして成功してやるんだから。つかさだって絶対、喜んでくれるよね。

 その思いを胸に、今日香きょうかは心に銀の翼を生やして自宅アパートへと飛んでいった。


 「ただいまっー!」

 明るい叫び、というと奇妙だが、そうとしか言えない喜びいっぱいの大声をあげて、今日香きょうかは自宅アパートの玄関を開いた。なかからはいつも通り、おいしそうな夕食の匂いが漂ってくる。

 料理全般と風呂・トイレ・窓の掃除はつかさ、それ以外の掃除と洗濯は今日香きょうか、とそれぞれに担当を決めて家事を分担している。

 夫婦生活における唯一にして最大のルールは『相手の分担には口出しない。文句をつけない』、その一点。お互いにその精神を守ることで、とくに不満もなく家庭経営をつづけている。

 「ただいま、つかさ!」

 「お帰り、今日香きょうか

 今日香きょうかが喜び勇んでキッチンに飛び込むと、つかさがいつもの調子で出迎えた。

 上着とネクタイを解いただけの姿にエプロンをまとい、料理に精を出している。エプロンは大学時代からの愛用品とのことでなかなかに年季が入ってるのだが、染みひとつないところがつかさらしい。かわいらしいヒヨコのワンポイントが入ってるあたりは何度、見ても『意外……』という感じなのだが。

 きっちりとセットされた頭髪にメガネ。クールな眼差しのまさに美青年。しかし、今日香きょうかを出迎えるその表情は『感情あるのか⁉』と疑いたくなるほどに無表情。口調も抑揚というものがまったくなく、感情の動きを感じさせない。

 知らずに会えば『日本のアンドロイド技術もここまできたのか』と、素直に感心してしまいそう。それぐらいの態度だった。

 「う~ん。良い匂い」

 今日香きょうかはクツクツと音を立てて煮込まれている鍋に顔を近づけると、鼻をヒクヒクさせた。まるで、満足げなネコのような表情である。

 「もうすぐできる。先にシャワーを浴びてくるといい」

 「は~い」

 と、今日香きょうかは唄うようにそう言って浴室に向かった。


 シャワーを浴びてさっぱりして戻ってくると、ちょうど料理が出来上がったところだった。

 「いただきま~す!」

 今日香きょうかはケーキを前にした小さな女の子のようなニコニコ顔で、両手を合わせてそう言った。

 「ところでさ、つかさ。すごいことがあったの。あたし、来春から昇格なの! 今度からイベントの企画から運営まで全部、任せてもらえるんだよ!」

 「そうか」

 つかさ今日香きょうかのハイテンション振りに比べて、あまりにもそっけない態度で答えた。

 つかさのことを知らない相手なら『えっ? なに、そのリアクション? 喜んでくれないの?』と、不審に思うところだ。

 しかし、今日香きょうかつかさがこういう人間であることを知っている。なので、いつものこと、いつものことと気にしなかった。ところが――。

 今回ばかりは、つかさも本当に喜んでいなかった。

 「実は、おれからも話がある」

 「なに?」

 「来春からの北海道支部への転勤が決まった」

 「北海道支部⁉」

 さすがに驚いて、今日香きょうかは叫び声をあげた。

 「ああ」

 つかさはあくまでも淡々と答える。

 オーバーアクションに過ぎる今日香きょうかと、無感情を極めたつかさ。ふたりの態度を合わせて二で割れば理想的な反応になる……か、どうかは神のみぞ知る話。

 それはともかく、今日香きょうかはかのらしいオーバーアクションでつかさに食ってかかった。両手をテーブルにつき、腰を浮かせ、前のめりになっての詰問である。

 「北海道に転勤って……なんで急にそんなことになるのよ⁉」

 「おれに言われても困る。決めたのはおれじゃない」

 「で、でも……北海道になんて行ったら、あたしはいまの会社を辞めなくちゃならない……」

 「そうだな」

 「いやだよ! せっかく念願、叶ってイベントを任せてもらえることになったのに、ここでやめるなんて!」

 「それはわかる」

 つかさは、あくまで無感情に答えた。

 「君がどれだけいまの仕事に打ち込んできたか。それはおれもよく知っている。だが、おれだって断るわけにはいかない。ただの転勤ではなく、支部を任されるんだ。入社してわずか五年で支部を任されるなんて異例の大抜擢。それも、部長が熱心に推してくれたおかげらしい。この話を断れば、部長の顔を潰すことになる。将来に差し障りがある上に、居づらくもなる。なにより、そこまでおれを評価してくれた部長を裏切りたくはない」

 「そ、それはわかるけど……それじゃ、あたしの夢はどうなるの?」

 「その点だが……」

 つかさは落ち着き払って――見ようによっては無関心をきわめて――言った。

 「おれたちはいま、岐路にある。お互いに譲れないものがある。この状況で、おれたちが採れる選択肢は三つ。

 ひとつはどちらかが犠牲になってキャリアをあきらめる。

 ふたつ目はおれひとりで北海道に向かう。

 三つ目は離婚して、それぞれの道を行く……」

 「離婚⁉ あたしと離婚したいの⁉」

 「選択肢のひとつとしてあげただけだ。離婚したいわけじゃない。まずは、おれからの提案をあげさせてもらいたい。かまわないか?」

 「え、ええ……」

 今日香きょうかもようやく落ちつき、つかさの言葉を受け入れた。

 つかさは無表情、無感情を一切くずすことなくつづけた。

 「言ったように、おれは君と離婚したくはない。おれにとって君は大切な存在だし、おれなりに愛しているつもりだ。一生、添い遂げたいと思っている」

 愛している。

 無表情、無感情のアンドロイド的男子からハッキリそう言われて――。

 今日香きょうかもさすがにキュンとなった。思わず頬が赤くなった。つかさはそんな妻の態度にも一切、心を動かすことなくつづけた。

 「しかし、同時に、どちらかが相手の犠牲になってキャリアをあきらめることもしたくない。そんなことをすれば、将来に向けて禍根を残すことになる。『あのとき、ああしていれば……』という不満の種を植えることになる。その種が徐々に育って将来、破局につながる危険がある。そんな結末は迎えたくない。

 そこで、おれひとりで北海道に向かい、定期的に会うことを提案する。一〇〇年前ならいざ知らず、いまはネットで会話もできるし、飛行機でひとっ飛びの時代だ。子どもができたらできたで利用できるサービスも数多くある。無理がある選択ではないと思う。君はどう思う?」

 そうして結局――。

 つかさひとりで北海道支部に向かうことで話がついた。

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