歌が咲く
みつぼし
第1話
まただ。また咲子が教室で絵を書いている。
休み時間、一人机に向かい絵を書いている。私はそれをちらっと横目に見て咲子の鈍感さに少しイラつく。
「今日の咲子の絵見た?」
ゆうみは嬉しそうに口元をあげて私に聞く。
「見たよ。」
ああいやだ。また始まる。
「今度は何書いていると思う?」
ゆうみは私の隣にいるめいに視線を向けた。
「えー、魔界の動物?それとも地獄の生き物?」
くすくすと笑い、ちらちらと咲子の方を見ながら言う。休み時間で教室がざわざわしているとはいえ、咲子に聞こえてもおかしくないボリュームだ。
「犬、じゃない?なんか犬飼ってるって聞いたことあるし。ゆうみんちも犬飼ってるんだっけ?」
なんとか話題を逸らそうとする。しかし、この程度では効果がないことも知っている。
「え、犬?あれが犬?だとしたら相当変な犬飼ってるんだね。まぁ中学生になって休み時間に一人で犬の絵書いてる時点で本人も相当変だもんね。」
ゆうみとめいがまたくすくすと笑い合う。私はそれに合わせるように少しだけ口角を上げる。ふと視線をずらすと、聞こえているのかいないのかわからない咲子は顔がノートにつくほどの距離で絵を描き続けている。もう話題は咲子にはない。どの先生がむかつくとか、どのアイドルがかっこいいとか、すぐそんな話にうつった。その程度、その程度なんだからいいだろう。別にいじめられているわけではない。クラスで少し浮いていて、友達がいないだけ。何も気にすることはない。
「あれ、そういえばりっちゃんって西小だよね?咲子も西小って最近聞いたんだけど同じだったんだね?」
ただうなずいて適当にその場に合わせて返事をしていたら突然ゆうみから自分の名前を呼ばれて少しドキッとする。
「え、ああ。そうだよ。」
「うわー、小学生の頃の咲子とか興味ある。どんな感じだったの?」
ゆうみやめいが親しげに言う「咲子」という下の名前。これは親しみなんかじゃなく嘲笑によるものだと知っている。だから咲子と名前が出るたびに私の胸はぎゅっと小さくなるのを感じる。
「うーん、あんまりわかんない。一回しか同じクラスになったことないし。仲も良かったわけじゃないから。」
そんなつもりないのに声の大きさがどんどん小さくなっていく。
「へー、同じクラスのことあったんだね。それにしてはほぼ他人みたいな感じじゃん。りっちゃんつめたーい。」
ねっとりするような甘い声でりっちゃんと呼ばれ、私はとにかく話題を変えたくなった。はは、と軽く笑うと同じタイミングで予鈴チャイムが鳴る。バタバタと移動教室の準備を始めるクラスに合わせて私たちも教科書やノートを揃える。咲子はまだ絵を書いていた。
私と咲子が同じクラスだったのは小学生4年生の時。今ではあまり思い出したくない。薄情だと思うし、そんな自分が嫌になる。けど、あの時のことを思い出すのは今ではもう必要のないことだ。
「りっちゃんってさ、なんかいい子ぶっててうざい。」
小学4年生の6月、親友だと思っていた楓が言った。当時の私はとにかく正義感が強く、おせっかいだった。誰かが少しでもいじめられていたり、嫌なことを言われると自分に関係なくてもほっとけずに首を突っ込んでは言った本人を責めていた。
3年生まではそんな私を頼る子も多く、りっちゃんは正義の味方とクラスでも一目置かれていたため、自分でもその気でいた。
楓と私はクラスの中心で、3年生の時も同じクラスだった楓は、私の良き理解者だった。お菓子を買い食いしていた同級生を二人で責め、当時の担任にリークしたこともあれば、2年生のボール遊びの場所を奪った5年生に強く抗議したこともあった。私と楓はその時無敵だった。何も怖いものはなかった。いいことをしているという、自負があった。
だが、そんなある日、楓が咲子の書いている絵を前に言った。
「咲子ちゃんの絵ってなんか気味悪い。もっと可愛い絵書きなよ。」
隣にいた私は、それに対し楓を軽く諌めるつもりで言った。
「そんな言い方したらだめだよ、かえちゃんだってそんなに絵が上手いわけじゃないじゃん。」
楓は絵画教室に通っていたが、お世辞にも絵が上手いとは言えなかった。プライドの高い楓にとってそれは逆鱗だった。
「は?なに?今私の絵関係ある?あんたにそんなこと言われる筋合いないよ!」
当時は筋合いがないという言葉の意味がよく分からなかったが、何か言ってはいけないことを言ってしまったことだけは理解した。
「いっつも思ってたけど、りっちゃんはさ、なんかいい子ぶっててうざいんだよ。自分の意見が全部正しいって思ってるよね。」
楓に呼ばれる「りっちゃん」はいつもはっきりと鋭く、名前を呼ばれるだけで少し強くなった気がして誇らしかった。でも、この時だけはその鋭さが胸に刺さった。予想以上の反応に狼狽える私をじっと数秒見た後、楓はふいと振り返って行ってしまった。そこから私の学校生活は抜け出せない沼に落ちていったように思う。
次の日の朝、勇気を出して声をかけて昨日の発言を詫びた。
「ああ、いいよ別に。もう気にしてないから」
そう言われたことで、私は許されたと思った。しかし、いくら話しかけても、「ああ」とか「うん」とかしか返事がなかった。とうとうその日のうちに楓が私に返事をすることは無くなった。楓は、もう別のクラスメイトと楽しげに話している。いる場所を失った私の方をチラチラと見ながらニヤニヤしていた。いつの間にか、クラスで味方をたくさん作っていたらしい。気づいたら私は一人になっていた。誰からも相手にされない。なんでもかんでも注意し、すぐに先生にチクっていた私はもともと男子からは疎まれていたため、当然話しかけてくる人は誰もいなかった。直接いじめられるようなことはなかった。ただ、存在自体を消されたみたいな扱いだった。
「あの、りっちゃん、私と一緒に絵を書かない?」
一人になって何日かした後の休み時間、ゆっくりと優しく話す声に顔をあげる。咲子にりっちゃん、と呼ばれたのはその時が初めてだった。
「いや、りっちゃん、絵を書くの得意でしょ?だから一緒に書きたいなと思って。」
その時私がどんな顔をしていたのかはわからないが、咲子は私が喋る前に言い訳のように言った。そう言われた時なぜか私はすごく恥ずかしかった。瞬間、自分が咲子を下に見ていたのだと気づいた。でも縋るしかなかった。一人でいるよりはましだった。そんな最低なことを考えていたのを覚えている。
「うん、一緒に書こ。もっと可愛くかける方法教えてあげるよ。」
楓から、クラスメイトから見放された私はその後咲子といることが多くなる。帰り道の方向も一緒だった私は咲子と一緒に帰るようにもなった。
「りっちゃんはすごいなぁ、なんでもできるんだね。」
私は咲子に絵を教えたし、勉強も教えた。両方とも特別得意だったわけではない。でも、咲子よりはできた。咲子には私が必要だ。私は咲子の面倒を見ているんだ。そんな醜悪な優越感の元、私は学校生活を過ごした。楓はそんな私を憐れむように見ていた。
5年生になり、楓とも咲子とも違うクラスになった私は、全然別の子と仲良くなった。いじめられているわけではなく、無視をされていた私の噂はそこまで他のクラスに広まっていなかったらしい。6年生になり、楓が転校すると私は3年生の時の記憶をはるか遠くに捨て去った。前に出ることはせず、必要以上に人に干渉せず、ただ周りの人の意見に合わせるだけに成り下がった存在の私だけを残して。咲子とは廊下で会えば軽く挨拶したが、それも段々なくなっていった。私が会っても気づかないふりをするようになったのだ。中学に上がるまで同じクラスにならなかった私はその後咲子がどんな学校生活を送ったのか知らない。楓と一緒に思い出したくない記憶の一つとして、胸の奥底に眠ってしまった。いや、眠らせてしまった。
「合唱コンクールの練習が始まります。パート分けはしましたので、それぞれのパートでしっかりと練習してください。授業では基本的にパート練習はせずに全体で合わせて練習をします。合唱コンクールは小学生の時にはなかったと思いますが、みなさんの学校生活を彩ってくれる素敵な行事です。真剣に取り組んでください。」
よく通るはっきりした声で、音楽教師は言った。パートと言っても、男子がアルト、女子がソプラノの二つしかない。結局男女別で練習することになる。
「絶対優勝しようね。」
ゆうみはさっそく休み時間の教室で女子を集めた。よく通った鼻筋と綺麗な髪をもち、自分の意見をはっきりと言うゆうみはみんなから一目置かれている。普段気だるそうに授業受け、教師のことも小馬鹿にしているゆうみだが、部活やこういった行事のはりきりようはすごい。ゆうみの言葉に集まった女子たちが頷く。
「まずは朝練から始めよう。合唱コンクールまではみんないつもより30分早く来てね。男子にも言ってくる。ゆうみ、めい、二人はCDの準備とかもあるからそれよりもちょっと早く来て手伝ってね。」
私や周りの返事を待たずにゆうみは男子のまとめ役の方へかけて行った。自分はなぜああいうタイプと一緒にいるのだろう。なんとなく答えはわかっている。練習が始まると、ゆうみはさらに本気になった。
「ねえ、もっと声出ないの?」
「声出せばいいってもんじゃないんだよ?調和が大事なの。」
音楽経験も特にないはずだが、ゆうみは自分が一番わかっているという風に女子たちを「指導」した。何も包むことなくとがったままの言葉は自分が言われているわけではなくても、お腹の下あたりがずんと重くなった。
「あのさあ、あんたふざけてんの?音全然合ってないんだけど。ちゃんと音源聞いてきた?」
一際するどい声に周りの目線が動く。ペアになってお互いの歌声を確認するという練習の時に起こった。
「ごめんなさい。ちゃんと歌ってるつもりなんだけど。」
ゆうみの声に周りは静まり、弱々しいその声だけが響く。
「あんたは、別で練習。しっかり楽譜見て音程確かめて。みんな高倉さん抜きで一回合わせるよ。」
ぞろぞろと教室の前、黒板横の棚に置かれたCDコンポの前に集まる。咲子だけが、少し離れたところで小さくなって楽譜を見ている。ぼそぼそと口を動かしているのが見える。咲子はペアがいなく、仕切り役のゆうみが歌を聞いていた。
「みんなまだまだ全然だめだね。そもそも覚えてない人もいるから。しっかりうちで歌詞を覚えてくること。でも、真剣な顔はかっこいいよ。これからコンクールまでがんばろ。あとは高倉さん、ちょっと話あるからこっち来てくれる?」
かっこいいよ、と言ったゆうみの顔は母性すら感じさせる暖かさがあった。ちょっと話あるからと言った顔はさっきと同じ人間と思えないほど冷たかった。ゆうみの聴衆となっていた私は咲子にさりげなく目を向けた。少し気まずそうに笑い、右手には楽譜を持っている。
「まず聞きたいんだけど、高倉さん本気でやってるの?もしかして普段誰からも注目されないから注目されようとふざけてる?」
解散した後、避けるように二人のそばを離れたものの、気になった私はわざとらしくないように黒板の字を消したり、掲示物を見るふりをして二人の会話を聞こうとした。腕を組み、首を傾け人を見下ろす姿。ゆうみは、そんな姿でさえきまって見えた。対面にいる咲子がどんな顔をしているのかわからない。
「ふざけてるつもりはないんだけど。ごめんなさい。」
咲子の声が聞こえてくる。咲子がふざけていないことなど私にはわかっている。
「音は全然合ってない、そのくせ声は誰よりも大きい。これでふざけてないんだったらあんたほんとにやばいよ。悪いんだけどさ、音合わせることができないんだったら、歌わないでくれない?口パクでいいからさ。まじ迷惑だから。」
今咲子はどんな表情をしているんだろう。咲子は、絵を書くのと同じくらい歌を歌うことが好きだった。一緒にいたあの頃、帰り道、よく二人で歌って帰った。その時も音を大きく外す咲子に、私は偉そうに歌を教えていた。それでも、咲子はとても楽しそうに歌っていたのを覚えている。絵を書いたり、歌を歌うことが大好きな咲子。それをあんなふうに否定されて今どんな気持ちなんだろう。ここから見えるのは、肩を丸めて楽譜をにらんでいる後ろ姿だけだ。話を終えたゆうみがこちらに来るのがわかると、白々しく視線をずらした。
「あいつやばすぎ。音楽の授業の時からなんとなくわかってたけど、急に何を勘違いしたのか声のボリューム上げてきたね。好き勝手に歌われても嫌だから最初にきつく言ったわ。このままだとあいつのせいで負ける。音痴にも程がある。ねえりっちゃん、あいつ小学校の時から歌もあんなに下手なの?」
歌も。ゆうみの言葉はあまりにもとがっている。私に向けて投げられたものではないとわかっていても、傷つかずに受け止めることはできない。
「どうだったかな。4年生の時の1年間だけだったしあんまり覚えてないや。」
「ふーん。覚えてないってことはそんなに印象に残ってないってことだもんね。まあ小学生くらいだと大きな声で歌えてればオッケーみたいな感じだし何も言われなかったのかも。絵も歌も咲子は小学生で止まってるってことだ。まじ勘弁。」
私は苦笑いすることしかできなかったが、めいは隣で楓に同調するように怒っている。ゆうみは楓と似ている。歯に衣着せぬ言い方や、他人のできないを理解できないところ。そしてカリスマ性があるところも。なぜ、私はあんな思いをしたのに楓と似たような人間と行動を共にするのか。なぜ、ゆうみは私なんかと一緒にいるのか。それはあまり考えたくないことだった。私は、自分の意見を持ち、自分をその流れに流してくれる人といるのが楽なのだ。自分で考えなくていい、自分の意見を主張することがない。そうやって周りに流されて生きていけば少なくとも楓といたときのようにはならない。そして、ゆうみは自分の意見をただ聞いてくれる人を望んでいるのだ。歯向かわず、うんうん頷いてくれる自分にとって都合のいい人間がそばにいるだけでいいのだ。お互いの利害関係は一致している。だから私は、あの時孤独な私に声をかけてくれた咲子をかばうこともできない。いや、しない。
咲子はもう歌わなかった。しかし、毎朝練習には来ていた。楽譜をもってみんなと一緒に並んでいた。そんな咲子にいらついた。もう来なくてもいいのに。来たら傷つくだけなのに。
テスト週間になると部活も休みなり、放課後も残って練習するようになった。咲子は放課後練習も休むことはなかった。ただ毎日同じように、楽譜を持って口をパクパクさせているだけだ。もう他に楽譜は持っている人はいない。
「咲子って本番も楽譜持ってるつもりなのかね。」
「うける。口パクなのにね。」
そんな会話が聞こえてくる。友達もおらず、変わり者の咲子を庇うもの、構うものはなかった。ゆうみが歌うなと言った以上に、咲子に関わることはゆうみと対立することになる。好んでそんな道を歩むものなどいなかった。
音楽の授業でも先生は気づかない、もしくは気づかないふりをしているのか。咲子は、どんな時でも一生懸命口をパクパクさせていた。まるで気持ちよく歌っているように。
放課後の練習が終わり、職員室の担任のところに用があったため帰りが遅れた。通学路にはほとんどの生徒はもういなかった。それだけで、道を貸し切って歩いてるような特別な感覚があった。いつからか、一人でいる時間が楽になった。学校にいる時も、家にいる時も、自分じゃない誰かの生活を上から見ているようだった。それは間違いなく自分自身であるのに。そんな風に思っても孤独を選ぶ勇気はなかった。
咲子とよく一緒に帰った道。あの頃からまだ3年くらしいか経ってないのに全然違う道に見える。あの頃は、地面が近く、空が高かった。近くにあるもの全てが自分を主役にしてくれ、遠くにあるものはそんな主役な自分を見守ってくれていたようだった。今は、全てが他人に見える。冷たい地面も、知らんふりする空も。ああ、あの時、楓に見放され咲子と共にいたあの頃、自分は満たされていたんだと知った。それは自分のことを必要としてくれる人がいるという自己有用感と、醜悪な優越感、それだけではない。咲子のことが人として好きだったのだ。そんなことに今気づくなんて。
そんなことをぼーっと考えていると、目の前に、見慣れた後ろ姿が見えた。想像から来る幻かと一瞬思うほどのタイミングだった。まだそんなに近くない。でも、歌声が聞こえる。私たちが合唱コンクールで歌う曲だ。お世辞にも上手いとは言えない。むしろ、下手と言っていいだろう。ただ声を出しているだけで、テンポもメロディもない。近づくごとに距離という包み紙もなくなる。剥き出しの音は、聴くに堪えない。
「さっちゃん。」
そんなに大きな声を出したつもりはなかったのに、咲子は後ろを振り返った。歌う後ろ姿を見て、なぜかいてもたってもいられなくなった。
「...りっちゃん。」
咲子は驚いたような、恥ずかしいような、嬉しいような、顔についている部品だけじゃ判断できないような表情をしていた。
「いくら田舎道だからって、そんな大きいな声で歌ってたらみんなびっくりしちゃうよ。」
「ごめんなさい。後ろから人が、りっちゃんがいるなんて全然気づかなかった。」
咲子は嬉しそうにはにかんだ。
「もう下校からしばらく経つけど、歌の練習してたの?」
「うん。最近は歌いながらゆっくり帰ってるんだ。家帰って声出してたら怒られるし。」
「そっか。」
会話が途切れる。こちらに振り向いたままの咲子は言葉を探してるようだった。
「さっちゃんはさ、口パクしろって言われても、歌うなって言われても平気なの?」
さっちゃん。当時私は咲子のことをそう呼んでいた。咲子はそう呼ばれることを喜んでいてた。お母さんにしか呼ばれないんだぁと照れくさそうにはにかんでいた。話すのはいつぶりだろう。中学に上がって同じクラスに
なってもほぼ会話したことはなかった。そんなやつに突然こんなことを聞かれて咲子も戸惑っているだろう。
「平気じゃないよ。悲しいし、つらいよ。でもみんなに迷惑かけたくないし。自分が歌が下手なのも知ってる。音楽の授業のみんなが私を見る目でなんとなくわかってたよ。」
「それでも、練習してるのは上手くなってコンクールで歌うため?みんなを納得させるため?」
「みんなを納得とかは考えてないよ。私は歌も絵も下手で、鈍臭い。けど、好きなの、歌うことと絵を書くことが。周りに迷惑はかけたくはないけど、歌や絵が好きな自分を嫌いになりたくないの。それってなんだかとても寂しいことだと思うから。」
その時の咲子との距離は数メートルしかなかった。けど、届かない。どれだけ手を伸ばしても。私があきらめて、手放したものを咲子は持っていた。
「あと。」
私はそう言った咲子と目が合った。というより、咲子が私の目に視線を合わせたようだった。
「あと、りっちゃんが言ってくれたから。」
「え?」
「あの時、一緒に絵を描いたり、歌を歌って帰っていた時。」
「私が?なんて言ったの?」
「さっちゃんの絵は見る人を元気にするって。楽しそうに歌う姿はこっちも楽しくなるって。すごく嬉しかった。そんなこと誰にも言われたことなかったから。みんなに迷惑かけちゃうけど、りっちゃんがそう言ってくれたから歌だって楽しく歌えてるよ。」
「そんな。」
咲子の顔は朗らかで、屈託がなかった。私が今住んでいる世界には、澱みしかない。砂煙がずっと舞っているような、そんな煤けた視界だった。でも、咲子だけは違った。鮮明で、澄んだ空気を保っていた。
これ以上声を出せない。声を出さないことで蓋をしなければ、口からも目からも溢れてしまう。私は咲子に呪いをかけていた。こんな薄情で、ずるく、情けない私の言葉をずっと胸に住ませていた。
「ごめん、本当にごめんね。さっちゃん、ごめんね。」
「どうしたの?泣かないでりっちゃん。」
ごめんね。という言葉しか出せない。何に対してなのか、自分でも分からない。でも、謝ることしかできなかった。
「私、りっちゃんに謝られなきゃいけないことなんてないよ。りっちゃんのおかげで歌も絵も好きでいれてるんだもん。」
もうそのあとに言葉を続けることはできなかった。咲子の顔は見られず、ただ、ぼやけて滲んだ地面を見つめるしかなかった。
「咲くって字はね、笑うって意味もあるんだって。お母さんが言ってた。」
4年生のあの頃、さっちゃんは自分の名前の意味を誇らしげに語っていた。
「だからね、いっぱい笑うの私。」
「へー。花が咲くって意味だけじゃないんだね。いい名前だね、咲子って。」
へへへと笑うさっちゃんの顔が蘇る。笑うという意味をもつ名前の彼女は今、目の前でとても不安そうな顔をしている。
一緒に帰ったのはその日だけだった。その後の練習でもさっちゃんは歌わなかった。楽しそうに口をぱくぱくさせているだけだ。
「みんなどんどんよくなってるよ。これなら本当に金賞狙えるよ。」
ゆうみはとにかく金賞を取りたがった。自分が引っ張ったクラスが、自分のおかげで金賞を獲れたとういう自負のために思えた。
「それにしても咲子が口パクしてくれて助かったわ。あんなのいたらハーモニーもくそもないからね。口パク気づかれてもめんどいしついでに本番休んでくんないかなー。」
「本人に言ってみたら?口パクなんだし、案外そう言ってくれて助かった、って思うんじゃない?」
「うける。私そこまで鬼じゃないよ?本番くらい出させてやろうよ。」
ゆうみとめいの会話は、まるで遠い国の人がテレビの中で話してるように、私の心の表面をざらりとなでるだけだった。
「どうしたりっちゃん?元気なくない?」
「え、いやそんなことないよ。ただ明日本番で緊張するなーと思って。」
「りっちゃんは歌結構うまいから頼むよ。本番もいい感じに下手な人たちを引っ張ってね。」
ゆうみは笑いながら私の肩を叩く。ゆうみの笑った顔を見て、さっちゃんの笑顔を思い出す。
当日の朝、みんながそわそわしていた。普段ジャージ登校の学校ではあるが、今日は全員制服を着ている。あまり着られていない制服は艶っぽく黒々としている。
「今日は絶対金賞とるよ、みんな。」
男子も女子もゆうみの言葉に沸き立つ。男子もゆうみの勢いに飲まれている。ビジュアルのいいゆうみは、男子たちにとっても憧れの存在だった。咲子は最後まで楽譜を見ていた。
前のクラスが終わり、列に並ぶ。咲子は私の左斜め前にいる。後ろからでも緊張しているのがわかる。伴奏のピアノの旋律が響く。みんなが指揮に注目する。今、クラス全員が同じところを見ている。前奏が終わる。指揮をしているクラスメイトが大きく手を挙げる。ピアノの音とともに、息を大きく吸う音が聞こえる。歌が始まって数秒、クラスの視線は一か所に集まる。指揮者の視線も感じる。私は、力の限り大きな声を出した、音も外れている、調和も何もない。叫び。ゆうみに対してなのか、自分に対してなのか、咲子のためなのか、自分でもわからない。
本番中なので、あからさまにみんなこちらを見ることはしない。だが、あきらかにこっちに意識を向けている。私はただ前だけ向いて歌い続けた。注がれる視線の一つには、朗らかなまなざしがあった。口の両端を高く上げている。咲子は少しだけ私を見ると、前に向き直った。私と同じかもう少し大きい声が聞こえてくる。終わったらゆうみになんて言おうかな。緊張してたって言い訳しようかな。ふとそんなことが頭に浮かぶ。私はどうしてもさっちゃんみたいには生きられない。ゆうみたちが怖い。でも、それでも、今だけは二人だけの歌を歌っていたい。笑いながら。私とさっちゃん以外の声はほとんど聞こえなかった。視界は白く、さっちゃんだけが浮き出ていた。あの時、さっちゃんに話しかけた帰り道。これ以上自分のことを嫌いになりたくないと思えた。
帰り道、世界中に届くような大きな声で、歌を歌う。花が咲くような笑顔を隣に見ながら。今日はなんだか、空が高い。
歌が咲く みつぼし @mitsuboshi-t
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