交錯世界のルクバート

沙崎あやし

【一】ルクスという男(其の一)



 ——宇宙歴百年七月十日。



 ゆっくりと日が暮れていく。暗くなっていく空に、軌道エレベータの航空障害灯が伸びていくのが見える。夕陽をバックに、赤い点がぽつぽつと連なって天まで伸びている。それは天より吊された蜘蛛の糸にも似ている。これのお陰で、宇宙は随分と人類にとって身近な生活圏となっている。そんな時代だ。


 そんな背景をバックに、一人の男が広い歩道を一人歩いている。年の頃は二十代後半だろうか。中肉中背、ややくすんだ金髪でややくたびれた背広を着ている。ごく平凡な——そう、とても平均的な社会人に見える。平凡すぎて辺りを行き交う人波に紛れて見えなくなりそうな存在感。あまりにも平均的過ぎる。それはきっと、彼のその姿が偽装されたものだからだろう。


 男の名は、今はルクスと言った。ルクスはとぼとぼと気配を消して歩いていたが、ついに堪えきれなくなった。にやりと思わず口元に笑みがこぼれる。たまたま擦れ違った女性がその笑顔を見て、露骨に嫌な顔をした。そういう笑顔だった。ルクスははっと我に返り、表情を元に戻す。危ない危ない。つい嬉しくって素の感情が顔に出てしまった。今のオレはごく平凡なサラリーマン、ルクスなのだ。けして凄腕諜報員では無い。そういう設定なのだ。


 しかし、分かって欲しい。ルクスは誰に語るでもなく心の中で呟く。今の組織に諜報員として潜入して約一年、ようやく「敵」の尻尾を掴んだのだ。長かった……平凡なサラリーマンを装いつつ、情報を必死になって集めた。その成果がようやく出たのだ。


 ルクスが入手したのは「アンチ」というテロ組織のとある計画書だ。テロリストの計画書といえば、当然テロの計画書になる。連中は太陽系連合成立百周年の記念式典をターゲットにしてテロを起こす算段らしい。先程ちらりと中身を覗いたが、なるほど面白い計画だ。従来の警備体制では対応出来まい。実際に実行されれば大事件になるのは必定だな。


 だが、それもここまで。この計画書を「マザー」に転送してしまえば、ジエンドだ。瞬く間に軍や警察にこれらの情報は共有され、テロを事前に防ぐことはいくらでも可能だろう。


 やれやれ。ルクスは首を鳴らす。これで一仕事終わったな——。そういえばここ最近、恋人と会っていない。寂しい。久しぶりに会って、心ゆくまで愛撫したい。そういう欲求がむくむくと湧き上がってくる。


 諜報員のくせに恋人作ってるのか? と言われるかもしれないが、諜報員だって人間である。恋人の一人や二人は欲しい。良いんだよ、あくまでルクスとしての恋人なんだから。何の問題も無い。そうだな、この仕事が終わったら恋人の所へ行こう。それがいい。この一年間の疲れを癒やす様に、恋人に甘えよう。ルクスはそう思った。


 ルクスは首に掛けた銀色のリング——ARSリング——を操作して、視界内に専用のメッセージアプリを起動する。これを使えばどこにも足跡を残さず連絡が取れる。表には出回っていない、アングラ界隈御用達の通信アプリだ。


 ルクスはアプリで「マザー」を呼び出す。アプリ上ではデータの交換も出来る。ルクスはテロ計画書を提出するつもりだった。それでお仕事完了だ。


 やり取りをする前に相手からパスワードの入力を求められる。手動でだ。普通この手の認証関係は生体認証が一般的だが、まあこういうクラシカルな手法の方が機密を守りやすい場合もある。忘れると一大事なので、自分なら入力しやすく忘れるはずもない言葉に設定してある。


 ルクスは視界内に表示された仮想のキーボードを視線で操作し、パスワードを入力する。そして転送開始のボタンを押した。


 ——押そうとした。


「あれ?」


 突然、ルクスの身体は宙を舞っていた。何が起こったのか。理解出来ぬまま、その身体はアスファルトに叩きつけられ、転がっていく。彼は知る由も無かったが、ルクスは歩道に突っ込んできた自動車にひかれたのだ。車のボンネットに頭を強く叩きつけ、その反動で宙高く舞ったのだ。


「……——あ」


 ルクスにとって幸運だったことは、それらの痛みを感じる前に意識を失っていたことだった。恋人の名前を呟こうとして、しかし出てきたのは血の塊だけだった。




  —— ※ —— ※ ——




 ——宇宙歴百年七月十一日。



 目が覚めて、ルクスがまず最初に考えたことは「毛穴が見えるぐらい人の顔を間近に見る機会というのは、人生の中で実はそんなに無いのでは?」ということだった。学生時代に女の子とキスしたことはあったが、そんなことに気を回す余裕はなかった。


 そういう意味において、今ルクスは貴重な体験をしていた。ベッドに横たわった彼の上に、黒髪の美女が顔を近づけている。毛穴は見えなかった。薄い唇が微かに開き、香しい吐息が鼻腔を擽る。美しく調律された香りに、覚醒しかけた意識が一瞬朦朧とする。自分が男であることを強く感じる。その香りに人間の生臭さは感じなかった。


 ルクスはおどおどと話しかける。


「……あの、何をしているんでしょうか?」

「あら、随分他人行儀なこと。大丈夫、ここには誰もいないわよ」


 美女の顔がくすくすと笑う。さらりと黒髪が揺れて離れていく。ルクスはベッドの上で上体を起こすと、ぐるりと辺りを見回した。こぢんまりとした白い壁と天井。薄いカーテンから注ぎ込む日射し。ベッドの脇には点滴の袋がぶら下がっている。頭に手を当てると包帯が巻かれている。なるほど、ここは病院の様だ。黒髪の美女が少し遠ざかると、代わりに病院特有の消毒液の匂いが漂ってきた。


「どうしてオレはここにいるんでしょうか?」

「怪我人か病人以外で、病院のベッドで寝る機会ってあまりないと思うけど」


 黒髪の美女は椅子に腰掛けて、林檎の皮をむき始めた。さしゅ、さしゅ。細い指が器用にナイフを回していく。


「怪我?」

「憶えていないの? 貴方、交通事故に遭ったのよ。珍しいこともあるものね」

「交通事故? まさか自動車に?」

「そうよー。新聞にも載ったんだから」


 そんな大昔の西暦時代でもあるまいに。人工知能によって制御された自動運転車にひかれたなんて運が悪いとしか言いようが無い。今頃交通管制局や製造メーカーは大騒ぎしているだろう。


 しかし。ルクスの関心事はそれでは無かった。事故に遭った? 確かに身体のあちこちが痛いから、それ相応の事はあったのだろう。それは分かる。でも、肝心の事故のことが思い出せない。本当にオレは交通事故に遭ったのか?


「ほら、食べる?」


 黒髪の美女が綺麗に八等分した林檎を差し出してくる。まるで子供にする様に「あーん」と自分の口を開ける美女。ルクスは気恥ずかしくなって下を向いた。


「じ、自分で食べるよ」

「あらなに? そんな初々しい真似なんかして。それとも口移しの方がいいのかしら」


 美女は目を細めて、林檎を小さく囓る。しゃく、しゃく。器をサイドテーブルに置くと身体を寄せてまた顔を近づけてきた。まるで接吻でもする様に。


 ルクスは混乱した。どうしてこの女性はこんなに密着してくるんだ?! いや嬉しい。見目麗しい女性が親しげに近づいてくるのだ。拒む道理がどこにあるというのか。平均的な話でいえば、ルクスは女好きな部類に入ると思う。学生時代はよくムッツリスケベだと言われた悔しい経験がある。でも女性は好きである。相手から好意を持たれればなお良い。しかし、さすがのルクスも全く見覚えの無い人物には警戒の一つもする。


 必死に脳内の日記を遡っていくが、美女の顔に全く見覚えが無い。そうしている内にベッドの上から逃げられないルクスの視界は、再び美女で一杯になっていた。唇の先端に、微かな圧力を感じる。


「先輩っ!」


 それを救ったのは、勢い良く病室に飛び込んできた別の女性だった。タイトスカートがちょっと背伸びしている感がある、やや童顔の女性。肩まで伸びた綺麗な金髪と澄んだ碧眼。そして目元にはバーコードの様な模様が入っている。素晴らしい、こちらもルクスの好みの女性であった。ルクスはストライクゾーンは広めに取る審判だったが、そんなことはお構いなしにど真ん中に入ってくる素晴らしい球種だ。


 金髪の女性は入室すると一直線に二人の間に割って入った。柑橘の香りがルクスを正気付ける。金髪の女性はぐいぐいと黒髪の美女を押し退け、そしてがばっとルクスの顔を両手で掴んだ。右、左、上、下。心配そうな顔で金髪の女性はルクスの頭をぐるりと見回してから、ほっと溜息をついた。爽やかな香りに生臭さを少し感じる。


「ニハルさん! 退院するまでは一旦保留だって言ったじゃありませんか!」

「そうね。でもキスしないとは言っていないわ。あくまで確認することを保留しようって話だったでしょ?」

「そういうの、詭弁チックで良くないと思います!」

「営業の貴方がそんな様じゃ、ヘンな契約で騙されないか心配だわ」

「ソレはそれ、コレはこれです!」


 二人が角を合わせている。まあ金髪の女性が一方的に突っかかっている気もするが。その喧騒の外で、ルクスは困惑の度を深めていた。なぜこの二人が、自分の前で言い争っているのか。いや嬉しい。美女二人が何やら自分のことで揉めている。それは一種の理想である。その先に破滅が待っているのだとしても、男なら一度は夢見る光景である。嬉しい以外の感想が必要だろうか?


 だがその一方で——猛烈な違和感。例えるなら、見知らぬ遠戚が突然実家に訪ねて来て居間で寛いでいる様な、そんな居心地の悪さをルクスは感じていた。なんだこれは? 何かが、おかしい?


「——あ」


 ルクスは目を丸くした。唐突に違和感の正体に気がついたのだ。まさかそんな。ルクスは必死に脳内の記憶を早捲りしていくが、どうやら間違いない。なんてことだ。そりゃ違和感も感じる訳だ。


 困惑するルクスの眼前で、美女二人のやり取りはエスカレートしていく。


「それじゃあアトリア。もうここではっきりさせましょうか?」

 呆然としているルクスの肩を、黒髪の美女——確かニハルと呼ばれていた——がぽんと叩く。ゆっくりとベッドの縁に腰掛け、ルクスに身を寄せる。

「いいですよ。望むところです!」


 金髪の女性——こちらはアトリアと呼ばれていた——もまた、ベッドの反対側に回り込み腰掛ける。ニハルとアトリア、二人の間にルクスが挟まれる。


「ねえルクス。一つ聞きたいことがあるんだけど」


 ニハルが口角を上げる。肩を掴んだ指が少し食い込む。


「なんでしょうか?」

「私が本当の恋人よね?」

「あたしが本当の恋人ですよね?」


 ニハルとアトリアの声が重なった。それはとても綺麗なハーモニーだった。ルクスは大凡を察した。どうやらアトリアとニハルの二人は、どちらがルクスの恋人かという事で係争中なのだ。


 ——ああ。


 ルクスは少しだけ現実逃避をした。天井は白く、染み一つ無い。理想郷の向こう側で、破滅が大きく口を開いている。それを回避する術は、恐らく無い。


「二人とも、聞いてくれ」


 ルクスの発言に二人が注目する。


「どうやら、オレは記憶喪失らしい」


 それを聞かされた時の二人の表情を、どう形容したら良いものか。ただ一つ、ルクスは殴られなくて良かったなーと二人に深く感謝し、そして昔の自分を深く呪った。


 恐らく二人の美女に二股を掛けていたのだ。きっと二人の美女の間に挟まって良い思いをしていたのだろう。ああ、そうだな。それは一種の理想であり、男の夢でもある。その心意気自体は責める気になれない。


 だが、どう考えても理不尽だ。二股をかけていた美味しい記憶は無いのに、そのツケだけが、今の自分に降りかかっている。借金はしていないのに借金取りに追われている気分だった。だが、他の誰にも恨み言を言うことは出来ない。記憶は無くとも、どっちも自分のしでかしたことなのだから。


 薄いカーテンを引くと、窓の外には軌道エレベータが見えた。青い空へと一直線に伸びる蜘蛛の糸のような線が、ちらちらと太陽光を反射させて輝く。二人の美女からの痛い視線を背に受けて、ぼんやりとあのエレベータで宇宙まで逃げたいなーとルクスは考えていた。

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