走り書き

第1話

 俺には悩みがある。というか悩みがつきない。

 なにより、将来が不安である。未来が怖いのだ。

「そんなのみんな同じだ」と言われるかもしれないが、元来の性格か、俺は特に未来に対して不安が強い。俺の仕事が不安定なこともあるかもしれないし、ニュースが世界の不安定さを常に報道しているせいもあるのかもしれない。

 なんにせよ、俺は未来に明るい展望をもてない。

 そして人付き合いも、不安である。俺は人から嫌われるのが嫌いだ。

 これも、「みんな同じだ」と言われるだろう。だが俺のはもはや恐怖症だ。

 辛く苦しい日々、どこまで抜けても空が突き抜けて晴れるわけでもなく、一つの不安、不幸を抜けた先には別の不幸が待っているだけである。「苦しい」と漏らしてもそれを聞くのは自分だけ。共感するのは自分、つまり円環のように苦しみが一周するだけ。何も変わらない。

 どこまでいけばいい。

 ずっとこれが続くなら、生きるというのは、「苦しい」ことと日々を同居することと同義である。私が過度にネガティブ思考に絡め取られているだけなのか? 他の人はみな、もっと未来に明るい気持ちを抱いて生きているのだろうか? 苦しい。苦しい。

「なんでいっつもそんなに悲しい顔してるの?」

 ベッドに腰掛けていた香苗が、スマホ片手にキッチンの俺に向かって尋ねる。

「毎日新しいペットが死んでんの?」

 質問の形で言葉を投げかけた割に香苗はそれほど興味なさそうに、視線を手元のスマホに落として慣れた手つきでいじっている。

「生まれつきだよ」

 よく聞かれる質問だったこともあり、俺は慣れた口調で定型分の返事を投げる。

「ふうん」

 ちらりと俺を見た香苗は、すぐに視線をスマホに戻す。

 俺は手元のコーヒードリッパーに意識を集中する。コーヒーをドリップして、納得いくコーヒーを淹れるのは意外と集中力が必要だった。

 ケトルであっためたお湯をステンレスのドリップポットに移す。その時点でお湯の温度は一気に十度近く下がる。あまりもたもたすると温度が必要以上に下がってしまうので、手際良くサーバーに準備したペーパーと、ペーパーに入れてある細かく砕いたコーヒー豆を軽く横から小突いて粉を平坦に整える。温度を上げるためにサーバーに入れていたお湯も捨てる。そしてドリッパーをセットしたサーバーに上からドリップポッドでお湯を注ぐ。注ぐといっても軽く、水を滴らせるかのようにゆっくり、円を描くように五十グラム程度までお湯を入れる。そして三十秒ほど蒸らす。そして再びお湯をゆっくりコーヒー豆を注ぐ……。繰り返す。

 コーヒーの良い香りが鼻をつく。サーバーに、香りたつ黒い液体が注がれていく様を見るだけで胸が満たされる。

 思えば、俺が胸を張って幸せだと思える瞬間はこの時間だけかもしれない。世界と自分が、コーヒーを通して一体化する感覚。世界に存在を認められる実感を得られる。俺の下卑た意識がコーヒーという液体になってサーバーに流れ落ちていくかのようで、どこか爽快だった。自意識も将来への恐怖もすべて、溶けて流れ出て、黒い黒い意識が溶け出て滴り落ちる錯覚が、俺の胸をいっぱいにしてくれた。

「あたし牛乳入れたい。コーヒー」

 コーヒーが出来上がったことを察知した香苗の声が俺を、不安定さで満たされた現実に引き戻す。

 うん、と俺は答えながら、サーバーに満たされたコーヒーをスプーンでかき混ぜてムラを無くしてから、マグカップに移す。

 そして焼いておいたトーストと合わせて、テーブルに置く。その音を確認してから、香苗はスマホを持って立ち上がった。サイズの合わない俺の部屋着をパジャマにしていることもあり、スボンがずり落ちそうになっているのを押さえながら、テーブルまで移動してくる。

「ありがと。君のコーヒー、美味しいから好き。いいよね。家で美味しいコーヒー飲めたら」

 それだけでハッピーじゃない? と言いながらトーストをかじる。

「俺も同感。しかし世の中それを上回るくらい不幸な要素が多すぎる」

「ふうん」

 大変だね。

 そりゃそうだ。大変だ。でも条件はみんな同じく大変なはずなんだ。俺だけ際立って大変なわけではないはず。

「君、仕事なにやってたっけ。サラリーマンじゃなかったよね?」

「仕事」

 仕事というものが、生活費を稼ぐ手段というのなら、答えようがあった。

「ポーカーする人」

「ああ、そうだ。プロのポーカープレイヤー」

 行きつけのバーで偶然隣に座った香苗に、「ポーカーで日銭を稼いで生活している」と言ったらにんまり笑って「面白い」と言われた日のことを思い出す。

「ポーカーで明日の飯代を稼いでる人はじめてみた」

 と言って、「いつから?」とか「いくら稼げるの?」「合法なの?」とか質問に次ぐ質問を浴びせられた。答えながら俺と香苗は酒のおかわりを続けた。不思議とずけずけと俺のパーソナルスペースに踏み込んでくる香苗のことが、不快に思えなかった。

 そして気づいたら、香苗は俺の家に来ていた。

 言葉じりとか喋り方とは裏腹に、上品な服装とか、おとなしい地味な印象の化粧とか、に魅力を感じていた俺は(何より酔っていた)何事もなく家にあげていた。

 それから、たまに香苗に飲みに誘われて、流れで家に来る流れが出来上がっていた。会うたびに香苗は、「儲かってる?」とか「貯金とかしてんの?」とか同じようなことを満足いくまでひときしり聞いてきた。

 香苗のぶしつけな質問は不思議と心地よかった。彼女の大きな瞳には、ポーカーの対戦相手みたいな「賞金が欲しい」とか「裏をかいてやろう」とか「出し抜いてやろう」みたいな下卑た色はなく、ただ純粋に未知への興味で満たされていた。

「ポーカーで勝つ時には、」

 俺はその時も、「ポーカーで勝つ秘訣は?」という質問に答えている最中だった。

「俺も百回やって百回勝てるわけじゃないけど、勝てる時に思うのはいつも、怖い時かな」

「怖い?」

 香苗の顔がわかりやすく「?」の色に染まる。

「負けるのが怖いの?」

「それもあるけど、ちょっと違う」

 俺はポーカーのテーブルに座っている自分を思い出す。

「手札のカードを持って、席に座って、赤いテーブルを見つめている今の状況がすごく怖くなるんだ。それこそ、ゾッとして鳥肌が立つくらい。でもそういう時に限って、リバースされたカードと手札が上手にリンクするのがわかる。理屈じゃないんだけど」

「へえ、天才って感じでかっこいいね」

 香苗の目が感心するように細くなる。妙にその様子が色っぽくて、俺は照れ隠しみたいに手元のビールを煽る。

「かっこよくはないよ。ただ俺は何事にも怖がりすぎってだけ」

「人類は怖がってきた人種が生き残ってきたんだよ」

「怖がらずリスクをとった人種も成功してきたよ」

 ぷっと花苗が噴き出す。

「ポーカーで食うなんてリスクとってるやつが何言ってんの」

 それもそうか。

 といっても別に強い意志を持って今の生き方をしてるわけじゃなかった。昔から流されやすい生き方をして、流れ着いた場所が今いる場所なだけだった。運がよかったとも思わない。

「リスク取ってる男ってエロいよ」

 カウンター席で隣の香苗は、俺と会う時いつもそう言った。

「なんか、存在がふわふわしてる。急にいなくなっちゃいそう。ずっと同じ場所にいる男なんかつまんないもんね」

 なんでそれがエロいになるんだろうと思ったが、それは聞かなかった。

 そんな感じの曖昧な関係が三ヶ月ほど続いている。

 誘われて、飲んで、家にくる。不快じゃない、不安定なのに、どころかちょっと穏やかさがある関係にどこか落ち着いていた。

 そして今朝も、何度目かの朝を香苗と過ごしている。

「今日もポーカーの日?」

「うん」

「ふうん」

 そう言って香苗は視線を俺の手元、そして俺の目線に合わせる。彼女の大きな両目が俺を見る。俺の小さい存在感をすべて見透かされている気分になる。

「大丈夫だよ。まだどっか行っちゃう感じしない。私そういう人たくさん見たからわかる。君はまだ負けない」

 にやりと悪戯っぽく笑う香苗。

 まったく何の裏付けもない言葉に不思議と説得力を感じる。存在を認められたような錯覚に、俺はまた居心地の良さを感じてしまう。

「ありがとう」

 とはいえどうなるか未確定な未来は何も変わらない。明日どころか、今日すら未確定な俺の未来は、ひどく曖昧だ。ということはつまり、俺の存在もやはり曖昧だ。

 花苗が身支度を整えて家を出るのを見送って、俺は夜のポーカーに備えて準備する。

 といっても準備することも少ない。

 ポーカーは他の競技に比べて練習が難しい。もちろん場数を踏んでいることは有利になるのだが、ベテランがそのまま強い競技ではない。

 俺にできることは、パターンに対して対応をあらかじめ決めておくことくらいだ。そして感情にぶらされて判断を誤らない心づもり。つまり、できることは少ない。

 とはいえ、家賃を払って食費を賄うくらいは稼いでいるということは、多少の適性を持っているとみていいはずだ。

「ポーカーで一番大事なのは運じゃない。メンタルだ」

 俺にポーカーを教えた人が何度も言っていた。

「自分を過大評価したやつは負ける。そして必要以上に過小評価したやつも負ける。ただしく怖がったやつが勝つんだ」

 データにも数字にも裏づいていない言葉も、今なら意味がわかる。

 

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