第三章 八話

陰陽寮おんみょうりょうから正式なしらせがもたらされた。

龍神の加護は女東宮にょとうぐうにあり。

陰陽頭おんみょうのかみが恭しくぬかづいた。

おそれ多くもかしこくも女東宮さまにおかれましては此度こたび瑞兆ずいちょうのことお慶び申し上げます」

即位式ではない。

だが、それに準ずる儀式として、榠樝かりんは姿勢を正して内侍所ないしどころに立っていた。

衣装も普段と違い改まった物具もののぐ姿だ。

垂らした髪を左右と後ろとに三つに分け、肩の辺りから持ち上げて、頭頂部で結い上げまげの前に宝冠を付ける。

長袴を身につけ五衣、表着うわぎ、唐衣に裳をつけ裙帯くんたいを結び、領巾ひれを垂らす。

古いしきたりに従い、今では見られなくなったような衣装を着け、恭しく歩みを進める。

此処には神器の翡翠の宝玉が祀られている。

王族であっても軽々しくは足を踏み入れてはならぬ神域。

龍神への感謝と敬意とを述べ、宝玉に榊葉さかきばを献ずる儀式だ。

桐箱きりばこに納められた宝玉を実際その目にするのは即位の時の一度きり。

榊葉が桐箱に触れた。その瞬間、箱から漏れ出すように小さな光の玉が現れた。

ぎょっとする榠樝の眼の前、丸い翡翠色の光はゆっくりと浮かび上がって。

榠樝の胸に吸い込まれた。

辛うじて悲鳴は堪えたが、何が起こったのやら。

事態を理解しないままに儀式は滞りなく完了した。

きっと陰陽頭に相談した方が良い。

けれどそんなことをしたら絶対大事おおごとになる予感が犇々ひしひしとしている訳で。

結局、榠樝は誰にも何も言えぬままその日は眠りについた。




そしてまた、あの夢を見た。

乳白色の霧に包まれた不思議な空間。空は鈍い灰青色。やはり星は無い。

足元も、浮いているやら沈んでいるやらどうにもはっきりとしない。

遠くに東屋。そして人影。

今回は笛の音が聴こえて来た。

あの人が吹いているのだろうか。

合わせたいな、と思った瞬間に中空から琴が現れて、榠樝は笑ってしまった。

流石は夢である。何とも都合がいい。

笛に合わせて幾つか絃を爪弾く。調子が合ってきた。

笛の音も此方に近付いてくるようで。

そこで目が覚める。




その日は朝から賑やかだった。

各所から祝いの品々が贈られて来るわ、祝い文は山ほど届くわ、榠樝を寿ことほぎに我先にと婿がねたちが訪れるわ。

飛香舎ひぎょうしゃは上から下まで大忙しだ。

陰陽寮からの正式な報せはくも力のあるものか。

引っ切り無しに訪れる客に堅香子かたかごが遂にキレた。

「程度というものをお考えなさいまし。どいつもこいつもこぞって訪れて!少しは時宜じぎをはかるなりなさいませ!」

縹笹百合はなだのささゆりが困ったように笑った。

「すまない。忙しい時に来てしまったようだね。出直して参いろう」

慌てて縫腋袍ほうえきのほうの袖を引っ掴まえ、堅香子がぶんぶんと頭を振る。

「笹百合どのは宜しいのです!ええ、他の方が邪魔だというだけで!」

堅香子の取り乱しように笹百合は苦笑するしかない。

「……相当忙しいのだね。大丈夫?」

強く頷いて堅香子は笹百合を奥へ案内する。

「榠樝さま、縹笹百合どの参られました」

少しぐったりとした榠樝が笹百合を見、柔らかく笑う。

「どうにもみっともない所を見せてしまって」

「いいえ、時宜をわきまえず申し訳ないことをしました」

「散らかっているけど」

榠樝の周りには文が山と積まれている。

「幾つかの文には返事もしなくてはならないし。目が回りそう」

笹百合は目敏めざとく淡紅色の紙に目を止めた。

「恋歌ですね」

「あ」

止める間もなく拾い上げ、読まれた。

「お祝いの文言だけではなく恋歌も添えるとは、中々練れて来ましたね、彼も」

榠樝は取り返すのを諦めた。

気恥ずかしいが、他人に恋文を読まれてしまった彼の方がもっと恥ずかしいだろう。勿論言わないけれど。

紅雨、申し訳ない。そんな所に置きっ放しにしていた私が悪い。

胸の内で思いつく限りの詫びの言葉を並べ立てた。届きはしないが。


いと恋しき君がためならすべてせむ月といへどもたてまつらまし


とても恋しい貴方の為なら無理難題でも何でも致しましょう。たとえ貴方が望むものが月であったとしても、取って差し上げたい。


「情熱的だ」

榠樝は袖で顔を隠した。

「どうしても上手い返しができなくて」

「あやにくし月は夜空にありてこそ、とでもお返事なされば宜しいかと」

生憎と、月は夜空にあってこそのものです。

「ちょっと意地悪では?」

苦笑した榠樝に笹百合は意外そうな顔をして見せた。

「おや、紅雨こううどのにお気持ちがおありでしたか」

「誰からの歌かすぐわかるのね」

「当て推量ですよ。今までにも返歌を?」

榠樝はぷくっと頬を膨らませた。

「私が恋歌を苦手としているのを知っているでしょう。どうにかこうにか当たり障りないのをひねり出して頑張ってるのよ」

笹百合は彼にしては珍しく声を立てて笑った。

「すみません。揶揄からかい過ぎましたね」

「笹百合は恋歌の練習相手にはなってくれないから」

ふん、と鼻息荒く榠樝が言えば、笹百合は怪し気に眸を揺らめかす。

「なりましょうか?」

「え?」

「練習相手」

「え?」

「相手を恋しい人に見立てての恋歌の遣り取りは上達のための定石でしょう」

榠樝がかあっと耳まで赤く染めた。

ただしそれは怒りのためもあるようで。

「笹百合にまで恋歌贈られたらもう逃げ場が無いでしょう!どうしたらいいの!」

紫雲英げんげがいるだろうと指摘しようとして止めた。

笹百合が指摘するまで気付かなそうだし、これ以上紫雲英の株を上げるのも面白くない。

面白くない?

笹百合は思わず自問自答した。

紫雲英が株を上げるのは、面白くない。何故。

現状最も王配に近い婿がねだからだろうか。

菖蒲あやめ家に王配の座を奪われるのは縹として芳しくない。

いや、そんなことはない。

縹はいつだって曖昧で不確かな立場を望んで来た。

王家に近過ぎず遠過ぎず、丁度良い位置を選んで生き残ってきた。

なのに何故。

黙り込んでしまった笹百合の顔を、榠樝は心配そうに覗き込んだ。

「……怒った?八つ当たりしてごめんなさい」

「いえ、そうではなく……」

なんとなく釈然としない気持ちを胸に抱えて、笹百合は首を傾げる。

「何でしょうね?」

「いや、こっちが訊いてるんだけど」

「そうですよね」

榠樝は遂に笑い出した。

「変な笹百合。疲れてるの?」

「疲れているのは榠樝さまでしょう。どうぞ、御身お大切に」

「ありがとう。でも正直疲れてる場合じゃないのよね。征討軍せいとうぐんの整備も進めなくてはいけないし、考えたくないけど婿がねのことも考えなくちゃいけないし」

眉間に皺を寄せ唸る榠樝。

「私が言うのも変な話ですけれど」

笹百合はそっと微笑む。

「応援しておりますよ」

榠樝は一瞬目をみはり、花がこぼれるように笑った。

「うん。頑張る」


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