第三章 七話

意外にもすんなりと摂政せっしょう蘇芳深雪すおうのみゆきの許可は出た。

神泉苑しんせんえんならば民の目にも届きます。人心の慰撫いぶにも宜しいかと」

なんと参加してくれるだけではなく手伝いまでも申し出た。

「良きお考えかと存じます。臣への心配りが行き届いておられる」

滅多に無いことに褒められまでして、榠樝かりんは始終驚き通しだった。




葱花輦そうかれん(葱坊主形の宝珠の飾りのついた輿)に揺られ神泉苑に着き、榠樝はほう、と溜め息を吐いた。

見事に整えられている。

軟障ぜじょう(壁代の上等なもの)が張り巡らされ、ゆらゆらと風にそよいでいるのが美しい。

女東宮にょとうぐうの席として大床子おおしょうじ(ベンチのような腰掛け)が置かれ、上にしとねを敷き、菅円座わろうだを置いてある。

六家はそれぞれ幄舎あくしゃ(テント)を張り兀子ごっし(四脚の一人用腰掛け)を並べ、床子も誂えてある。

池には竜頭鷁首りゅうとうげきしゅの船が二艘。

大々的にも程がある。

榠樝は少しばかり呆れを含んで深雪みゆきを見た。

「もう少し簡素なものを想像していた」

「女東宮の行幸ぎょうこうともなれば簡素とはいきますまい。それに」

深雪は警備の者の隙間からこちらを覗き見る民の姿を眺め、頷く。

「虹霓国は揺ぎ無き存在と示さねばなりませぬゆえ

ほう、と榠樝は感嘆する。

「やはり流石だな、摂政。私もそなたのようになるにはあと幾年月掛かるやら」

心からの賛辞に深雪は片眉を上げた。

「女東宮が私のようになられるのは到底無理でしょうな」

あっさりと告げられ、がくりと肩を落とす榠樝だが、続く言葉に顔を跳ね上げた。

「貴方は私とはあまりにも違う。貴方なりの王を目指されよ」

「摂政、それは」

勢い込んで聞く榠樝に、深雪は珍しいことにはっきりと笑った。

「まあ、百年早いと申し上げておきますが」

「う……」

丁寧に礼をして、深雪は去り際に振り返って言う。

「そういえば女東宮も琴を演奏なさるとか。楽しみですな」

榠樝は頭を抱えたくなった。

衆人環視の中での演奏。

とちったらどうしよう。




六家の当主が入れ代わり立ち代わり挨拶に訪れる。

外だからなのだろうか。朝廷よりも幾分柔らかく感じる。

少しは気が緩んでいるのかもしれない。

だとしたらよかった、と榠樝は表情を和らげる。

月白凍星つきしろのいてぼしが息子の六花りっかを連れて挨拶に来た。

此度こたびは我が息六花をもお招き頂き、恐悦至極に存じます」

「うむ。そなたが六花か。面を上げよ」

賢そうな男児がぴょこりと顔を上げた。

御意ぎょいを得ます、女東宮」

にこりと笑う顔がなんとも可愛らしい。

榠樝もつられて笑顔になった。

「元気になったそうだな。良かった。今日は楽しんで行くといい」

「はい。ありがとう存じます」

ぺこりと頭を下げるさまがまた愛らしい。これは凍星が可愛がるのも無理はない。

礼をして下がる六花に手を振って。

榠樝は空を仰ぐ。雲一つない蒼穹。

「平穏無事がなによりだ」




女東宮の婿がねたちの演奏があり、雅楽寮うたりょう舞人まいとたちによる舞が披露され、歓声があがり、拍手が鳴り止まぬ。

竜頭鷁首の二対の船で同じく雅楽寮の楽人がくとたちが、天にも届きそうな素晴らしい楽を披露する。

六家当主はそれぞれ得意の楽器を持ち寄り合奏。嚙み合わないどころか素晴らしい調和で。

皆、大興奮だ。

そして皆が盛り上がれば盛り上がる程、榠樝の緊張は高まっていく。

堅香子かたかごがそっと酌をする。

「榠樝さま。お顔が引き攣っておられます」

「無理なかろ。この後私の演奏だぞ」

「大丈夫でございますよ。ほら、笑顔」

にこりと引き攣った笑みを無理矢理浮かべてみても、中々面白いことにしかならなくて。

「まあ、神妙なお顔も趣がございますよ」

慰めだか何だかわからないことを言って堅香子が下がる。

榠樝は天を仰いだ。


琴は王の楽器とも呼ばれる。

また祭祀に用いられる神降ろしの楽器でもある。

弾琴だんきんと神託には緊密な結び付きがあるとされている。

とかく琴は虹霓国の王にとって特別な楽器なのだ。

無我の境地で挑むしかない。

御仏の教えにもあった。

琴の糸は強く張り過ぎても、弱く張り過ぎても良い音は出ない。

本当に良い音を出すためには、強過ぎず、弱過ぎず、丁度良く調整しなければならないのだ。

力み過ぎてもたるみ過ぎても良い音は鳴らない。


悶えているうちに出番である。

榠樝は琴を前に小さく息を吸い、そうっと吐いた。

手は震えていない。大丈夫、いつも通りに弾けばいい。


澄み切った繊細な音が響く。

いつの間にやら静まり返った神泉苑。

だれもが榠樝の琴の音に耳を澄ましている。

これでは呼吸の音さえも聞かれそうだな、と少し思った。

雑念を捨てねば。榠樝はすっと表情を消した。

神に届けと、ただそれだけを念じ、弾く。

しとやかに、緩やかに。松の間を吹く風にも例えられる琴の音色。

最初こそ頼り無く思われたが段々と力強く響きだす。

そよ、と風が吹き始めた。

まるで琴が風を呼んだかのようで、皆が琴を弾く女東宮、榠樝に注目する。

榠樝は一心不乱に琴を掻き鳴らしている。

本来これほど大きく琴の音が響くことは無いだろうに、どうしたことか辺り一面に音色が響き渡って。

荘厳で怖ろしささえも感じる。

雲一つなかった空がにわかに曇り、霧雨が舞った。

涼し気で、夏の空気を一掃するような清々しさ。

そして、琴が止む。

雲が晴れ、陽が差し込む。

「虹だ!」

誰かが叫んだ。

虹は瑞兆ずいちょう。龍神の祝福とたたえられるもの。

ざわめきは瞬く間に広がった。そして響動どよめきが神泉苑を支配する。

万年よろずよあられ!」

誰かが叫んだ。

いつまでもこの御代が続きますように。

主に正月の唱言となえごととしてよく知られる。

「女東宮さま!」

「万年あられ!」

「龍神さま!」

「万年あられ!」

「虹霓国!」


万年あられ!


彼方此方で上がる声に、半ば呆然としながら榠樝は虹を見上げた。

偶然だろう。

たまたま霧雨が降って、たまたま虹が出た。

それだけだ。

けれど、榠樝は周りを見回す。

龍神が榠樝を認めた証として虹が現れた。

それは何よりの瑞兆で。

跪く重臣らに、手を叩き喜び合う楽人がくとたち。誇らしげに真っ赤になって歓声を上げている婿がねたち。涙を流している堅香子に山桜桃ゆすら

跳ね飛び騒ぎ躍る民。


摂政が珍しく微笑んでいる。

榠樝はほっとしたように口元を綻ばせた。

「よかった」

皆が笑顔なのが、いい。


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