第一章 七話
「大丈夫でございますか?」
口の中のものを吐き出して、榠樝は何度か咳き込んだ。
堅香子が控えていた
「
げほげほと咳き込みながら、榠樝は何とか声を絞り出す。
「炭を、解毒には、げほ、炭」
舎人は放たれた矢のような勢いで走っていった。
慌てふためく
「ご無礼仕ります」
「すべて吐いてください。無理なようでしたらば吐き戻し薬をお飲み頂きます」
冷静な声と表情に、そんな場合ではないのに榠樝は少し笑った。
本当に、優秀な医官だ。仕事となれば顔付きが違う。
榠樝が吐き戻している間に、
「女東宮!」
咳き込みながら、手を上げてみせた。大丈夫だと。
「舌に、違和感があったから、すぐに吐いた。そんなに、飲んでない。大丈夫」
その間に杜鵑花は手早く炭を乳鉢で砕き、粉末にしていく。
「お飲みください」
差し出された
雑な動作で口元を拭った。
「騒ぎ立てて済まなんだ。
「大事ないわけありますか!」
堅香子が泣き
「毒ですよ!?女東宮の夕餉に毒を盛るだなんて、一体誰が」
杜鵑花が冷静に
「お毒見は?」
「勿論済ませております」
泣きながらも堅香子は的確な指示を出す。
「至急、
典薬頭と杜鵑花が何やら話し合っている。毒についてのことだろうか。
知らない言葉ばかりで榠樝にはさっぱりわからなかった。
嘔吐の後は身体が疲れて
ぐったりと脇息に身を委ね、考える。
誰が、いつ、どうやって、毒を盛ったのか。
東宮の食事は当然のこととして多くの者の手を経て、榠樝まで至る。
その際に何度も毒見を経ている。最終的には内膳司の
常に人目がある。その
内膳司の者の可能性が高い。
或いは、膳を運んでくる女官たちの誰か。
疑いたくは無いが、どう転んでも身近な者であろうな、と榠樝は深々と溜息を
流石に今度ばかりは内々に済ませる訳にもいかず、朝廷は上を下への大騒ぎとなった。
責任を取って内膳司別当は更迭。
当日の夕餉に関わらなかった者も、その日欠席していた者まで、それこそ上から下まで全員が調べられ、内膳司の建物は
女官も、飛香舎の者ばかりではなく
が、結局犯人はわからず仕舞い。
だが、その
つまり死因は不明。
罪の意識に耐えかねたか、口封じに殺されたか。
それとも偶然の病死なのか、それも。
「わからず仕舞いにございます。申し訳もございませぬ!」
寧ろ勢いよく床に頭突きしなかっただろうか。
隣に控えている摂政である
榠樝は落胆しなかった。
犯人に繋がる証拠は出るまいと思っていたのだ。
「ご苦労であった。典薬寮は
検非違使別当、黒鳶
黒鳶家当主、大納言
「検非違使別当、あまり心配し過ぎると
「ハゲなどどうでもよいのです。私は己が
「謹慎でもなさるか」
視線だけでも射抜かれそうだ。
深雪はといえば蚊に刺されたほどにも感じてはいないようだが。
「女東宮のお許しあれば、今すぐにでも摂政どのを取り調べたく存じます」
「ほう、私をか。何の
「頓死した女官と蘇芳家との繋がりが気に掛かります故」
大袈裟に芝居掛かった表情で、深雪が片眉を跳ね上げる。
「
野茨は真っ向からその視線を受け止めて、言う。
「それを調べたく存じます」
深雪が不愉快そうに眼の下に皺を刻んだ。
「何の根拠も無く。無礼であろう」
「無礼はどちらか。女東宮を軽んじ、ご即位よりも先に婿をなどと!まずご即位があってからの婿取でありましょう」
声を荒げて言い募る野茨。
応じようとした深雪を制し、榠樝は扇を鳴らした。
「そこまで」
両者はぴたりと黙り、頭を垂れる。
「その件は今話すことではあるまい。検非違使別当、何の根拠もなく摂政を取り調べるわけにもいかぬ。何か証拠なりあるならば別だが」
榠樝はちらりと摂政を見遣る。
「無かろう?」
静かな湖面のような表情で摂政は榠樝を見、野茨を見た。
「ございませぬ」
唸るように野茨は答えた。
「であれば、此度は控えよ」
「は」
悔し気な野茨。
「だが、そなたの献身、嬉しく思うぞ。これからも頼む」
「ははっ」
両者が下がって、けれど蔵人頭がそっと榠樝の傍に控えた。
「頭中将、何か言いたげだな」
彼は蔵人頭と右近衛中将を兼任しているため、頭中将と呼ばれることが多い。
菖蒲家当主
「畏れながら女東宮、私も検非違使別当どのと同意見です」
榠樝は扇の端でかりかりとこめかみを掻いた。
「うーん。そなたもか」
「蘇芳家は摂政さまを筆頭に、女東宮のお力を
「証拠も無く人を疑ってはならぬ、と父上なら仰せだろう」
ぐっと言葉に詰まった霜野に、だが、と榠樝は続ける。
「心配してくれているのだろう。感謝している」
「畏れ多いことにございます」
だがしかし、と榠樝は思案する。
「色々と考えなくてはならんだろうな」
「我ら菖蒲がお守り申し上げます」
「うむ。心強いぞ」
とはいえ、今回の毒殺未遂は結局誰が黒幕かはわかっていない。
蘇芳家か、或いは蘇芳家に濡れ衣を着せるべく黒鳶家、菖蒲家が動いたか。
はたまた全く別の者か。
疑おうと思えばどこまでも疑えてしまう。
「手を打たねばならんな」
ぽつりと零れた呟きに、霜野は深々と頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます